心を見る立場になる

昨日のブログで、「癒しとは、自分を改善していこうとすることではなくて、心を全的に見つめてそれを否定することなく受け入れることなのです。」と書きました。

これはとても大切なことですので、もう少しこのことについて補足してみようと思います。まず初めに、私たちの心は一枚岩でできているのではなくて、たくさんの断片からできているということを認める必要があります。

聖人君子のような清く正しい部分もあれば、ぐうたらなダメダメ人間のような部分だってあるのです。怒りに満ちている部分もあれば、穏やかで静かな部分もあります。

その時々にそれらの中のどれが最も力を持って自分を乗っ取るかによって、その人はいろいろな心の状態になるわけです。だから、殺人を犯した罪人がそのすぐ後で、小さな虫を踏まないように気遣ったりもできるのです。

話しを簡単にするために、一つの心に良心と悪心があるとしてください。そして、私たちは自分をよりよくしようとして、良心を伸ばし、悪心を亡き者にしようと努めるのです。

これがエゴの特徴であり、エゴの世界に私たちを封じ込めておくための作戦でもあるのです。ばい菌を目の敵にして、何から何まで除菌しようとする気持ちに似ていますね。

こうした思いの奥にあるものは、恐れなのです。自分の身が犯されて傷つけられたくないという思いです。自分の気に入らない部分、ダメな部分、そういった否定的にしか見ることのできない部分を必至でなくそうと努力するのです。

けれども、それは人間であることを否定して、天使にでもなろうとするようなものなのです。そんなことは、今日を限りに潔く、きっぱりと忘れてしまって下さい。

その代わりに、心の中にピンからキリまで多彩な部分を取りそろえていることを楽しむことです。それが人間の多面的な魅力でもあるからです。

そして、心の中にあるどんな断片であろうとも、それを否定せずに正面から見ることです。それは、思考を使わずに心を見る立場になるということなのです。

その視点を忘れずに、どんな自分も抱きしめていることができるなら、苦しみがあなたを占領することはなくなっていくはずです。

心の成熟とは

クライアントさんが、「○○をしなければと思っているのに、どうもできない」といわれたら、セラピストの自分は、それはしたくないんだなと心の中で思いながら聞いています。

あるいは、「○○をしてはいけないと思っているのに、どうもしてしまう」と言われたら、それはしたいんだなと思うわけです。

何だか天邪鬼な意地悪爺さんのように思われてしまうかもしれませんが、それはセラピストの「さが」と言えるかもしれません。

自分を癒そうとしてもなかなか癒せないのは、心の中に癒したくないという強い気持ちがあるからに違いありません。

100%の気持ちで癒そうとしているのであれば、すぐに癒すことが可能なはずですね。つまり、心の中にはいつも自分が意識しているものと正反対の意志が隠されているのです。

相反する二つの気持ちに気づいている場合は、それを葛藤と呼びますが、一方私たちは、一般的に自分にとって都合の悪い感情や気持ちなどを見ようとせずに生きています。

そのために、なぜ自分が思うように行動することができないのか、疑問に思ってしまうのです。心の中にあるあらゆる意思、気持ち、感情から目を背けずに見てあげることができれば、なぜ?はかなり消滅するはずです。

癒しとは、自分を改善していこうとすることではなくて、心を全的に見つめてそれを否定することなく受け入れることなのです。

心の中にぎっしり詰まっている過去の気持ちをしっかり受け止めることができれば、今の自分はそれに乗っ取られることがなくなり、不自由さが小さくなっていくはずです。

そのためには、思考を脇へ置いて、ただ見ることです。それができるようになればなるほど、心が成熟していくということなのですね。

誰もがみな演技者

昔から、あこがれの芸能人のうちでも、特別な存在に感じていたのが俳優さん、あるいは女優さんの存在かもしれません。

それは、きっとすばらしい演技を見て、自分には到底素の自分以外の誰かになるなんて、とてもできないと感じていたからだと思うのです。

けれども、よくよく考えてみると、私たちは日々の生活の中で誰でもある程度の演技をしているのです。

テレビの街頭インタビューなどで、マイクを向けられた素人の人たちが、何かを答えた後笑ったりするのをみると、ああ無自覚に演技しているなと分かるのです。

「給料は上がらず、アベノミクスの効果がまったく感じられなくて、困っている」などと言った後、わざわざ笑ったりするのですから変な話しなのです。

若い頃に、自宅から徒歩で行ける会社に勤めていたことがあったのですが、新婚の自分は家を出てから歩きながら、少しずつサラリーマンの顔に変身していく自分を感じていました。

会社の近くまで来て、道で一緒になった会社の人とあって、おはようございます!と挨拶を交わした瞬間に、もう自宅でデレデレしていた自分はいなくなるのです。

会う相手や状況に応じて、それに相応しいと思われる自分を作っているのです。それも、ほぼ無自覚のうちにやってしまいます。

ある程度は仕方のないことなのですが、そうした演技、あるいは「フリ」が限度を超えてしまうと、私たちはひどく疲労するようになってしまいます。

そのことに注意をむけてみてあげてください。そして、一日のうち必ず数時間はできるだけ素に近い自分で誰かと過ごせるように心がけることです。

自分の中にある無邪気さと繋がる時間を大切にすることですね。

愛は存在です

by リチャード・ラング

他の人たちがただの他者ではなく、彼らはまた私自身でもあります。私がこの事実を真剣に受けとめれば受けとめるほど、私が「他の人たち」と関係するやり方に影響を与えます。

私はもはや、奥深いところで、自分が他の人たちと分離している、というふりをすることはできません。防衛なく、オープンで空っぽなので、私の存在はあなたを受け入れ、歓迎します。

この内なるワンネス(一つであること)、この内側での歓迎が、愛の土台です。空っぽなので、私はあなたを抱きしめます。

私の存在のまさにハートにあなたを入れるので、私の観点から見れば私はあなたになります。あなたの存在が、私の内部の創造的源泉から流れ出て、私の中に現れます。

あなたは私である存在の土台から生まれ、そこへ消えて戻ります。あなたは私の存在の中で、あなたの人生を生きています。最深のレベルで、私はあなたに責任があります。

同時に私はあなたに対して、どんな力も行使しません。なぜなら、何もないものとしての私は、あなたを決してコントロールできないからです。

あなたはたくさんのものに束縛されている、と感じるかもしれませんが、あなたが存在に束縛されることはありません。

この内なるワンネス(一つであること)、この絶対的に責任をとることと、絶対的に自由を与えること、この無条件の歓迎が愛です。愛は存在です。

それは常に存在し、安定して、信頼できます。それはそこから愛の表現と実際すべての表現が生じ、またそこへ消えて戻る土台です。

あなたが愛する人と分離しているときでも、あなたの存在でありかつ彼らの存在でもある愛は、髪の毛一本ほども、あなたから離れていません。

親しい人の死さえも、彼らの内奥の存在からあなたを分離しませんし、あなたの死さえも、彼らからあなたを分離しません。

愛は永遠にあなたの本質です。それはあなたの時間のない存在です。この愛に気づいてください。この愛に留まっていてください。

境界と無境界

by リチャード・ラング

他の人と私が一つであることは、私の存在の深みにあります。この一つであることは、表面的に起こるどんなことによっても、脅かされません。

もし誰かがあなたにひどい振る舞いをしても、私はそれでも彼らと、「顔対顔がないもの」であり、まだ彼らに対して受容能力です。

私の意識は彼らの意識でもあります。これが真実です。しかし、自意識のある大人として、私は自分の体と彼らの体の間にある境界と、自分の人生と彼らの人生の間の区別に、また気づいています。

一つであることと違うことは、共存しています。ですから、私が奥深いところで、彼らであるからといって、私が他の人たちがすることや言うことに、同意する必要はないのです。

もし必要なら、私は自分自身や自分のまわりの人たちを守るために、行動することもできます。自分とは本当に何かを見るとき、境界にも個人的アイデンティティにも無知な、自意識のない赤ん坊のように、私が退化してしまうわけではありません。

また私は、あらゆる欲望、好み、そして人生さえからも完全に離れて、喜んで他人に自分の人生を踏みつけさせるような、ある種の聖人というわけでもありません。

私は個人でもあり、自分自身を守ることもできますし、自分自身のユニークな意見も表現することができます ─ そう願っています。

それにもかかわらず、誰かが私にひどい振舞いをしていて、私が自分自身を守っているとき、それでもまだ私の存在の土台では、私はその人のための受容能力です。

この土台に注意を払い、頼りながら、その人と私が融合していることに気づき、しかも、自分自身の世話をする必要にも気づいているとき、私は何をしたらいいのでしょうか?

状況が起こるまでは、私にはわかりません。気づいていることは、より多くの行動のルールを導入するわけではありません。

気づいているおかげで、あなたが頼ることができる、あなたの内部にある賢明で愛情深い場所を意識するのです。 源泉を意識して、自分が何をしたらいいのか、発見してください。一人一人の行動は違うことでしょう。

変装している王

by リチャード・ラング

私が物事の現実に目覚めても、いきなり私は自分の外見と一体化することをやめたりしません。私は単に、自分の顔はここではなく、向こうの他人と鏡の中にあることを、意識するだけです。しかしそれでもまだ私の顔です。

私は、自分が出会うあらゆる顔の受容能力であり、あらゆる顔が自分のものであることを認めますが、私が鏡で見る顔は私には特別です。

あらゆる人が私を認識するのは、その顔によってであり、私が人としての自分自身を認識するのもその顔であり、私が世界で生きていくのに必要な顔です。

それはまるで私が、自分の王国で人知れず生きることができるように、普通の市民に変装した王のようなものです。

私は自分の本質を知っていて、自分の王族としての地位を楽しみ、あらゆるパワーをもっています─私は山を動かし、何もないところから努力なしに魔法のように物事を出現させます。

それにもかかわらず、私はこれらすべてを他の人たちから隠しています。彼らは私の神聖さではなく、私の人間性だけを見ます。

そしてそれは、私が望むことです。(万一、私が山を動かすことを彼らが見ることができるとするなら、パパラッチの注目をものすごく集めることでしょう!)

ということで、私は外側では普通の市民に見えますが、内側では一なるものです。もちろん、その意味は、私は自分のまわりのあらゆる人に対する、受容能力であるということです。

とはいえ、彼らにはそれは見えませんけど。このように私は常に自分自身を他の人の中に見ます─他の人たちもまた変装した一なるものです。

時々私は、同様に自分が変装した一なるものであることに気づいている人たちに、出会います。この秘密を分かち合うことは、なんという喜びでしょうか!

一つの意識、二人の人

by リチャード・ラング

私は彼女が見ている世界を見ませんし、彼女の思考と感情も経験しませんし、彼女が眉を触るときに、その感覚を感じません。前を見ると、私は私の体とは分離した彼女の体を見ます。

たった一つの単一の目、たった一つの意識があるだけなのに、この意識はここで、私たち二人を抱きしめています。

そして私が彼女に尋ねるとき、同じことが彼女に当てはまることを発見します。ただ彼女は、彼女の視点から私たち二人のための空間であることが、違うだけです。

私は、どうやって一なるものが多数であるのか、どうやってこの単一の目から、無数の見方が現れるのか、自分が理解しているとは思いません。

また私は、実際、深い喜びの源泉であり、私がそれとともに生きている一なるものについて、それほど理解もしていません。

どうやって存在は、非存在から、まったく何もないところから自分自身を魔法のように出現させるのでしょうか? 誰も知らないのです。

しかし、ここに私は存在(IAM)します! それに加えて、それは一つのままで、多くに分割したのです。なんとありがたいことでしょうか!

もし永遠に永遠に一なるものしかなかったら、どれほどそれは退屈し、孤独なことでしょうか? 

私とは何かに本当に目覚めるとき、他の人たちは、私自身であり同時に私自身ではない、 ことを見ます。私である一なるものは、多くのもののための空間です。

無数の個人がいて、その一人一人が完全にユニークで、独立していて、それにもかかわらず、おのおのの中心では、一つの霊(Spirit)であり、全体で完全です。

あなたはこれ以上に、素晴らしく美しい取り決めを、想像することができますか?

ただ一つの意識

by リチャード・ラング

私の意識には境界がありません。それは私の頭の内部にあるのではありません。私の頭、つまり、私のその経験が、意識の内部にあるのです!

では他の人の意識については、どうなんでしょうか?彼女の意識は私の意識とは、分離していて異なっているのでしょうか?それはどこにあるのでしょうか?

彼女の目の背後でしょうか?彼女の頭の内部でしょうか?私は彼女の目を覗き込んでも、決して彼女の意識を発見することはできないでしょう。

私が見るのは、ただ私の意識の中に与えられた形と色です。私がどれほど彼女に対して敏感になり、どれほど彼女の奥深い事柄について心を開いても、彼女の外見と、彼女が自分の経験を描写することを、私は経験するだけです。

それでは、彼女の最深の存在は、私に閉じられているのでしょうか?いいえ、そうではありません。なぜなら、彼女の意識は、彼女の目の背後、顔の背後に隠されているのではなく、彼女の目と顔のこちら側に、展示されているからです。

意識はどんな人の頭の内部にあるものではありません。それは容器に入っていないのです。すべてのものが、その中にあるのです。

意識は各々の生き物ごとに分割されて、おのおのが意識の一切れを受け継いでいる、わけではないのです。それは一つであり分割できないものです──まったく自明なことに。

あなたが意識を見るとき、あなたはそのすべてを見ます。私は自分がいるところ、彼女の顔のこちら側で、友人の意識を発見します。

なぜなら、私の意識と彼女の意識は一つで同じだからです。私の意識は彼女の意識とは分離していません。

それは彼女に広く開かれていて、境界線はないのです。(もし私が彼女に、彼女の意識は何かの内部に入っているかどうかを尋ねるなら、彼女はそうではないと言います。彼女の描写は、私の意識の経験と合致しています)

暑いのはいやだけど、夏を終わらせたくない気持ち

もうすぐ8月が終わりますね。子供の頃であれば、もう少しで夏休みが終わってしまう、という何ともやるせない気持ちになったものです。

そのときに、自分なりに編み出した心を安らかにする方法があって、それは9月になって登校してこの目で校舎を見るまでは、校舎が以前のままにあるとは言えないというものでした。

このことは、以前にもどこかに書いたことがあるのですが、このやり方というか、この感覚は自分にとって自然なものとなっていきました。

大人になって、量子物理の世界においては「知覚できないものはその存在が不定である」という理論があることを知って驚きました。

まさか、自分が子供のころに感覚として感じていたことが、物理学の世界では当たり前のことだったとは…。

そしてそれは、観察するということが現代科学の根っこなのだということからして、真実は科学では到達し得ないというところまで自分の中で繋がっていったのです。

この世界で唯一知覚することができないもの、それが一人称の自己なのです。指先を自分の顔に向けて、その方向にどこまでも見続けていくのです。

それが無限の深みにまで行ってしまうということを見ることで、自己の本質はこの宇宙を包含しているということに行き着くのです。

暑苦しい日がいったいいつまで続くんだろうと思っていたものが、朝少し涼しくなるとどうも名残惜しいような寂しい感じがやってくる、今日このごろ。徒然に自分の中にある感覚を書いてみました。

ドタキャンが減りますように!

最近、セッションをドタキャンされることが増えたように感じています。ご予約されたクライアントさんにはそれぞれの事情というものがあるのでしょうね。

ですから、深追いすることはありませんが、それでも直近でのキャンセルはとても気持ちを暗くされるのです。もっとひどいと、予約しておいて連絡なしにいらっしゃらないケースもあります。

こちらから連絡すると、「あ~仕事で行かれなくなって~」という何とも悠長な言葉を聞く羽目になったりもします。

セッションの費用をかなり低めに設定しているために、クライアントさんが気軽な気持ちで予約をされることが多くなったことが一つの要因かなとも感じています。

気軽に来ていただけるのは、本当に望むところなのですが、歯医者さんの予約と混同してしまっている方が多いのかなと。

大体こういうケースでは、そのクライアントさんはその後も決してこちらに来ることはないのです。ですから、ご縁がなかったということにして気持ちを切り替えることにしています。

以前、セッションをした後に持ち合わせのお金がないので、銀行から振り込むといって出て行ったきり、何の音沙汰もなかった人もいました。

私に支払うべき借金があるのを知りつつ、どういうつもりなのか放ってある方もいらっしゃいます。ところが、セッションの費用をいただけなかった事例よりも、とにかくドタキャンの方が堪(こた)えるのです。

理由は簡単、セッションをしたいからなのです。セッションはクライアントさんのためでもあり、同時に私自身のためでもあるということを、明確に知っているからですね。

だからといって、無料でセッションお願いしますと言われても困るのですが…。とりあえず、ドタキャンが減りますように!!