「負けるもんか」を喪失しちゃいました!

小学校の3年か4年生の頃に、初めて学習塾なるところへ通わせられるようになりました。学校での成績は優秀だったのに、今思うと何故?と疑問符がつきます。

その塾で初めてのテストがあったのですが、戻ってきた解答用紙を見て絶句してしまいました。それは、それまでに自分が経験したことのない低い点数だったからです。

どの科目だったのかも、何点だったのかも忘れてしまったのですが(きっと40点くらいだったかな)、目にいっぱい涙を貯めて泣くのを堪えていたのを覚えています。

こんなひどい点数を取るなんて、自分のことが惨めで、情けなくて、どうしようもなくなってしまったんだと思います。あの頃は純粋なものですね。

けれども、私は順応するのが早いらしく、勝手にこの塾のテストは難しいのだから、悪い点数でも仕方が無いと見切りをつけてしまったのです。

そのおかげで、その後は何のことは無い、どんな悪い点数でも平然としていられるようになったものでした。その時点で、「負けるもんか」を喪失してしまったのです。

その後も、高校一年の2学期の英語のテストで、確か100点満点で7点というのを取ったことがあったのですが、ちょっと驚いただけでした。すでに免疫ができていたのですね。

大人になってからも、自分は人並み以上にできるはずだという自分と、いやいや駄目なときはとことん駄目になるという自分と、両方がいることを意識するようになったのです。

その結果、血の滲むような努力だとか、どこまでもやり抜く根性といった類のものは自分とは無縁のものとなったのです。

よって、類まれな人物になることも、一芸に秀でた人物になることもありませんでしたが、その代わりにどんな自分であろうとも、否定することが少ないという大きな利点を手にしました。

年齢的なこともあるでしょうけれど、向上心は皆無になってしまいましたが、そこそこに生きるというのが自分のスタイルとして定着しているようです。

どのような信条で生きようと個々人の自由ですね。あなたは、「負けるもんか」をどのくらい使って生きてますか?

人の期待に応えようとするのもほどほどに

私たちの心の中には、幼い頃から人の期待に応えてあげたいというやさしい気持ちが備わっていますね。誰に教わったわけでもないのに、良心というものがあるのと同じです。

良心のかけらもないような極悪非道な人や、決して誰かの期待に応えようとしないエゴ丸出しの人もいるかもしれません。

けれども、そのように見える人であっても、その奥にはごく普通の私たちと同じように良心も期待に応えようとするところも隠し持っているはずです。

幼い子供は、身近にいる母親に笑って欲しくて、母親が喜ぶようなことをわざわざしたりするものです。それが、次第に母親の期待に沿うようなルールをこしらえるようになるのです。

先日ロバート・デニーロが父親役を演じる映画を観たのですが、4人の子供たちが揃って彼の期待に応えようとしてそれぞれの人生を苦しいものにしているのです。

そればかりか、成人した子供たちは期待に応えられないと分かると、ウソをついてまで父親を落胆させないようにするようにもなってしまうのです。

そのうち、子供たちは誰も父親と話しをしなくなるのですが、父親はなぜそうなるのかを理解することができないのです。

子供たちが独立した後、一番ストレスの強かった子供が薬物の摂取によって死んでしまうのですが、そんなことも子供たち同志で相談しないと父親に伝えられないのです。

結局、そのことを父親は子供たちから知らされるのですが、彼はそれを受け入れられないのです。そんなはずはないの一点張りなのです。

こうした父親の心の弱さを、子供たちは幼い頃から察知していたのでしょうね。だからこそ、父親を悲しませることがとても大きな罪悪感になってしまったのだと思います。

もしも、あなたが誰かの期待を裏切ってしまっていると感じているなら、それから生じる自己嫌悪や罪悪感を徹底的に感じきることです。

それさえ逃げずにできるなら、もう怖いものはありません。そうなって初めて、自分はこれでいいということが分かるはずです。

本当の自分はこの宇宙に満ち満ちている

この自分とは一体何なのだろう?ということをとことん追求していったとき、この質問をしている自己の存在があやふやになったのです。

そのうちに、自分には位置がないということも、ナニモノでもないということにも気づいたと同時に、自己がバ~ンと広がったのです。

けれども、その感覚に特別驚くことがなかったのは、それが自分にとっては昔から馴染んだ感覚だと知っていたからでした。

私には、子供の頃から変なクセがあって、とにかくじっとしていたいというのがあって、身体を動かさないでいるということを時々やっていました。

子供というのは、とにかく変てこなことをやるものなので、誰かにそれを指摘されたことはほとんどなかったのですが、母親だけが知っていました。

そのじ~っとしていることは、実は身体を動かさないことによって思考が静かになるという効果があって、それを好きでやっていたということなのだと今なら分かります。

そのときに、自己が広がる感覚というのを体験していたんだと思うのです。そしてそれは、この今という瞬間に耳を澄ますという感覚にとても近いものです。

この数年の間に、その広がった感覚はもう消えることがなくなりました。自分が遍在しているという感覚は、本当は誰にでもあるのです。

人としての自分は70億分の一の存在に過ぎないのですが、同時に本質の自己は唯一であって、この宇宙のどこにでも満ち満ちているということですね。

傷口から目を逸らさない

私たちは、いつも自分に都合のいいこと、求めていることが起きることを望んでいます。そうした現実がやってくれば、嬉しくなったり悦んだりして、いい気持ちになれるからです。

不満だった気持ちが満たされるようにもなるし、不安な気持ちも安心に変えられるかもしれません。そうなれば興奮もするし、自分は幸せだということになるのです。

逆に、自分にとって都合の悪いこと、いやな出来事などは決して起きて欲しくないと思っています。大切な人を失うことや、人から軽蔑されたりしたら心が深く傷つくからです。

けれども、私たちが苦悩するのは、そうしたいやなことが起きるからではありません。そうではなく、本当はいやな出来事を受け入れることができないでいるからなのです。

心が傷つけば、当然それ相応の痛みが発生しますが、その痛みをいやがって拒絶してしまうのです。そうして、もう二度とそんな傷を負いたくないとも思うのです。

しかし、傷を負うということはその後も必ず本人の意向とは別にやってくるのです。逃れようとして逃れられないからこその苦しみなのです。

もしも、私たちがその痛々しい傷口から目を逸らすことなく、しっかりと見ることができるなら、痛みは和らぎ、そして苦しみは消えてしまうのです。

都合の悪いことがやってきて、心の傷口がパックリ開いてしまったら、それに対して何もせずにただただそれを見ることです。

見るだけでいることができれば、苦しみはありません。痛みとともにいて、後に残るのは安らいで静かになった心だけです。

そこにのみ、本当の心の平安があるのです。いやな出来事が身に降りかかってきたら、このことを是非とも思い出すことです。

自己改善プログラムの終わり

数年前に、この自分というのは実体のないただの思考に過ぎない、ということに気づいてから徐々に自己改善への意欲が減ってきてしまいました。

ここでいう自己改善とは、ピアノがもっと上手に弾けるようになりたいとか、もっと水泳を上達したいといった目に見える物理的なものではありません。

そうではなくて、自分自身の問題、性格上の事柄や人としてどういう人物かといったようなことです。そういうものを改善しようという向上心が失せてきてしまいました。

自分の心にできるだけ耳を傾けているようになると、それはもう無数の叫び声を聞くことができるのです。とても改善などという方向へは行かないということが分かったのです。

自分が生きてきた中で、積み重ねられてしまった数多くの不満や想い、そういったものを都合が悪いからと言って切り捨てることもできないと分かったのです。

その結果、向上心という名前の自己改善に見切りをつけたのです。それよりもずっとずっと大切なことがあるからです。

それは、本当は改善するということではなくて、あらゆる心の声から逃げないことこそが大事なのだと。逃げずに裁かずにいる、そういう位置を見出すことです。

心の声はすべて過去のものです。過去は必ず、未来へとその影響力を行使しようと常にねらっているのです。それは決してなくなりません。

そこから目を離さないですべてをありのままにすくい取ってあげることです。それは沢山の可愛らしいペットたちに、愛の目を配ることと同じです。

ペットたちは、改善などしなくてもいいし、そのままで愛らしいのですから。

「鬱」は心のストライキ その3

昨日の続きです。

私たちの多くは、より幸せになろうとして頑張っています。ところが、実は自分にとっての幸せとは一体何なのかということについて、本当は深く考えずにいるのです。

世間一般が広く認めるところの、人の幸せとは大概こういうものだというのを鵜呑みにして、あるいはそれ以外を探すこともなく、その道を突っ走っているのです。

そのほとんどが、実は幼いときに作り上げた自己防衛システムに依存したやりかたであるということに気づいていません。

だから決して心が満たされることがないのです。手に入れられるものといったら、苦しみと一過性の安心感だけなのです。

なぜなら、幼いときに作った自己防衛システムの目的は、見捨てられないようにしてとにかく不安を安心に変えようとすることだったからです。

それは、大人の私たちが志向する幸福感とはまったく異なるものであるだけでなく、長期的にみれば多大な自己犠牲を積んでしまう生き方なのです。

自己犠牲が限界を越えたときに、防衛本能がその生き方を強制的に停止させようと発動するのです。それが心のストライキ、つまり鬱症状なのですね。

こうしたことに自ら気づき、日々の生活の中で如何に自分を守らねばという脅迫的な思いに占領されてきたか、再認識する必要があるのです。

それと同時に、それまで埋もれていた幼いころに通ずる無邪気さを捜し出して、それを救いあげてやることです。

そうやって、無邪気な自分と、社会的な自分(自己防衛)とのバランスがとれるようになれば、自然と鬱から開放されるようになるはずです。

「鬱」は心のストライキ その2

昨日の続きです。

鬱状態というのは、心のストライキが起きている状態であるということをお伝えしました。一体何が何に対してストライキ、つまり実力行使をしているのかに気づくことが大切だということをお話ししました。

その部分について今日はお話ししたいと思います。心のストライキという場合の心とは、自分の心のことですね。誰かの心を意味しているはずもありません。

そうなってくると、何かが何かに対してストライキという場合、そのストライキを起こす側も、起こされる側もどちらも自分の心の中にあるということになります。

つまり、どちらも大切な自分の気持ち、本音であるということです。そして、結論からいってしまえば、長い間抑圧されてひどい目に遭わされて来た純粋な自分が、自分を何とかして守ろうとする自分に対してストライキを起こしていたのです。

ストライキを起こしているのは、自分の防衛本能であるともいえます。そして、ストライキを起こされているほうは、心理的自己防衛であるともいえるのです。

どのように表現しようが、とにかくストライキを起こされているほうがそれまでの自分を主にコントロールしてきたことは確かなのです。

それ自身はやり過ぎていたことに気づかずにきてしまい、多大な自己犠牲を作り上げてしまったせいで、身の危険を察知した防衛本能が発動したということですね。

したがって、鬱の状態になったときこそが、それまでの偏った自分の生き方を根本から見直す最大のチャンスなのです。

そのことに気づけた人は、とてもラッキーだと言えるでしょうね。ではどうやって、鬱状態を起こしてしまった人生の生き方から脱出することができるのかということについて、明日また書きます。

つづく

「鬱」は心のストライキ

ここ日本において、最近では五人に一人は「鬱」の傾向があるといわれていますね。それほどまでに一般的になった「鬱」なのに、その原因を必ずしも深く理解していないのはおかしなことだとは思いませんか?

いわゆる「鬱」の代表的な症状というのは、みなさんもご存知かもしれませんが概ね以下にあげるようなものだと言っていいでしょう。

-不安、悲しみ、自己否定感、焦りなどのネガティブな感情がやってくる。特徴的なのは、そうした感情がやってくる原因が思い当たらない。

-やる気がでない。虚無感とか、空しさのような感覚に苛まれる。怠け心とは違って、気持ちはやらねばと思うのだけれど、身体がいうことをきいてくれない。

-頭が回転しない。仕事の能率が落ちてきたり、記憶力や理解力の低下を感じる。

その他にもいろいろありますが、夕方くらいから少し元気を回復するなどの特徴を持っていたりすることもあります。

私は、「鬱」または「鬱症状」のことを「心のストライキ」と呼んでいます。ストライキというのは、言うことを聞いてくれない相手に対する実力行使のことです。

一体、何が何に対して実力行使をしているのかを見極めることができれば、鬱を恐れることはありません。恐れるどころか、大切な大切なことへの気づきを促してくれる貴重な心の状態なのです。

つづく

気分の浮き沈み

人は誰でも、何か嬉しいことがあれば機嫌が良くなるし、嫌なことが起きれば機嫌がわるくなるものですね。それは当然のことです。

私などは、一日のうちで何度も機嫌が上がったり下がったりを繰り返していると思います。上下の幅はそれほどではないにしても。

それでも、何か明確な理由が分かっている時には、自分てなんて単純な奴なんだろうと思うだけで済みますが、どうも理由がはっきりしないばあいもあります。

気分が良くなったり悪くなったりが何の予兆もなしに、突然やってくるという経験をみなさんはしたことがありますか?

きっと多くの人があるはずです。朝起きただけで気分が悪いとか、外は猛暑なのに、何だかふと機嫌がよくなったとか。

自分の気持ちに意識を常に向けつづけていると、どうやらこうしたはっきりした理由もなしに気分の変化がやってくることの方が多いことに気づかされます。

これは、自分の心というものが過去に生きているからに違いありません。表面意識では、今を体験しているという自覚があるものの、誰の深層においても過去を見ているのです。

そのために、自分の心がその瞬間本当は何に対して反応しているのかに、まったく気づくことができないのです。

わたしたちの心の中には、無数の過去の体験からやってくる無数の想いや感情が蓄積されて、それがふとしたときに表面に上がってくることがあり、それによって気分の上下を感じているのです。

せっかく奥の方からやってきた大切な自分の気持ちですから、それを気のせいなどと言わずに、しっかりと感じ切ってあげることです。

そうした実践を続けることで、ますます気づいて欲しい自分の本音が上がってきてくれるようになり、いずれは自然と気分の上下の少ないどっしりとした落ち着きを得るようになるはずです。

植物の名前

先日、クルマに乗ろうとして駐車場の敷地内を歩いていたら、近所のお母さんと小さな息子さんが仲良く歩いていたのです。

お母さんがお子さんに向かって、「この木なんていう木か知ってる?」と質問していたのです。派手なピンクがかった色の花が沢山咲いている木でした。

自分もその木の名前を知らなかったので、そのお母さんの答えを聞きたかったのですが、そうこうしている間にクルマのところに来てしまったので、結局正解を聞きそびれてしまいました。

たまに、植物の名前をほとんど知らない自分が、如何にしたら名前を覚えられるだろうかと考えていたので、そのことがまた自分の中で再燃したのです。

せっかくネットが普及したこの時代なんだから、スマホで情報を送ったら名前を教えてくれるアプリでもあればいいのにと思っていたのですが、探したらあっけなく見つかりました。

誰も考えることは同じなのですね。それで、さっそく写真を撮って転送したところ、そのアプリから答えが送られてきました。その木の名前は、「サルスベリ」でした。

確かに、木の皮の部分を良く見てみると、例のつるつるした感じがしていて、子供のころには見たことがあったことを思い出しました。

夏真っ盛りのこの時期に立派な花を咲かせる木だったのですね。もしかしたら、自分が通っていた小学校や中学校にもあったのかもしれませんが、夏休みだったせいで花の記憶が無かったのかなと。

一度名前を覚えてしまうと、サルスベリの木がいたるところにあった事実に気づかされて、驚かされました。自宅から事務所までの道中、クルマの中から何本も見つけました。

名前を知るという威力ですね。あらゆる物や人の名前を覚えるのが苦手な自分は、随分と損をしてきたのかもしれないと思ったのです。

それでも、あらゆるものにつけられた名前を一旦脇において、ただあるがままを見るという視点もなかなか清々しいものですよね。