雄弁は銀、沈黙は金

「雄弁は銀、沈黙は金」ということわざがありますね。俗っぽい解釈をすれば、ああだこうだと弁舌を振るうよりも、ただ黙っていたほうがいいときもあるというくらいでしょうか?

もっと深い解釈をするなら、言葉というのは確かに人類が発明した偉大なものですが、もっと偉大なのは沈黙だという意味です。

人間は言葉を編み出したおかげで、より複雑で高度な思考を使えるようになったことは間違いないことですね。

勿論、言葉を使わなくても思考することはできます。けれども、私たちは気づいていようがいまいが、いつも言葉を使って物事を考えるクセがついてしまっているのです。

つまり、「思考=言葉」といっても過言ではないくらいになってしまっているということです。ということは、沈黙というのは思考の無い状態のことを指すのです。

したがって、このことわざにおいては、頭で考えていながら、言葉に出さないような沈黙のことを言っているのではありません。

「沈黙」とは、思考の外に出るということを意味しているのです。それが金であるということは、それこそが真理であるということ。

思考は便利なツールではあるのですが、だからといって思考を過大評価してはならないのです。思考は、万能でもなければ本質的などんな力も持ち合わせていないからです。

思考は、真理からやってくる一つの現象に過ぎないのですから、思考によって真理を探究しようとすることくらい、お笑いでしかないことはありませんね。

人生は大掛かりなドッキリカメラ

純粋な意識である私たちの本質が、私たちの中でそれ自身に気づくこと、それこそが覚醒と呼ばれるものです。

けれども、私たちのエゴはそんなことまでも抜かりなく自分の手柄のようにしてしまうのです。エゴが覚醒することなど、元々原理的にあり得ないことなのに…。

エゴはどこまでいってもエゴなのです。そんなエゴですが、そのエゴが理解できる最上級のことがあります。それは、自分はいないということです。

エゴは思考によって、自分がここにいるということをでっち上げ続けるのですが、その思考をどこまでも追求していくことで、思考の根元を捕まえることができます。

そのとき、思考は思考でしかなくて、それ以外の何物でもなかったと気づくのです。それは、なかなか小気味いいものかもしれません。

あるいは、大掛かりなドッキリカメラか何かに嵌められていて、そのことに気づいた瞬間に似ているような大笑い状態になる人もいるかもしれません。

お~い!何だそうだったのかあと…。ふざけた話しだし、こんな意地悪で緻密な仕掛けのドッキリなんて、そう簡単には気づくことできないはずだよ、と。

半ば呆れ、半ば笑い、半ば脱力し、そして最後にはどこまでも静まり返った静寂に包まれることになるのです。

そうなったら、もう自分が覚醒した人物ですなどと、したり顔になどなれるはずもありません。それでも、肉体がある限りはこの人生は続いていくのですけどね。

エゴの癒しと本質の癒し

昨日のブログでは、心の癒しが進んでいく過程においては、心理的自己防衛が少しずつ小さくなっていくというお話しをしました。

私たちの苦しみの原因とは、自分を何とかして守りたいという強い欲求、つまり心理的自己防衛にあるのです。

そうした自己防衛には必ず、自己犠牲が付いてまわるからです。自分を守って、一過性の安心を得ようとするために、無邪気な自分の欲求を抑えてしまうのです。

幼いころに作り上げてしまったその自己防衛の影響下にいつまでもあり続けると、その人の人生はボロボロに破壊されてしまいます。

無邪気な自分と、自己防衛しようとする自分とのバランスが崩れてしまうと、いつかは鬱的な状態がやってくることにもなるのです。

自己防衛を小さくしていくことで、そうしたアンバランスを減らしていくだけで人生はがらっと様相が変化してきます。

さて、ここまでは昨日の補足のようになってしまいましたが、一方でこうした癒しが進んでいくという見方とはまったく異なる大切な視点があります。

それは、癒しを進めていく自分はエゴそのものだという見方です。そしてそれは、実際にそうに違いありません。

なぜなら、それは結局自分という個人をもっと何とかしてよりよくしていきたいという思いだからです。今の自分に満足しないというのがエゴの本性です。

このエゴの癒しとは本質的に異なる癒し、それは私たちの本質を見抜くという方法であり、それは進歩するという類のものではありません。

個人としての自分が癒しのどのステージにあろうとも、そんなことには一切関係なく自己の本質には気づけるからです。

どちらの癒しもとても大切ですので、どちらか一方だけに過度にはまり込むことのないようにできると、理想的ですね。

癒しの各ステージ

心の癒しを進めていくと、その人ごとに様々な内的変化が起こってきたり、実際にその人の周辺で起こることにも変化が現れてきたりします。

けれども、癒しの過程において誰にとってもまったく同様にやってくることがあります。それは、心理的自己防衛が少なくなっていくということ。

私は物事をシンプルに扱うことが大好きなので、敢えてこういう言い方になるのかもしれませんが、要所をつかむとすれば結局そういうことなのです。

最も癒しが進んでいない状態とは、激しい自己防衛の操り人形のようにして生きている場合です。本人には、その苦悩から逃げ出すための出口がないように感じてしまいます。

なぜなら、自己防衛をし続けることを前提として、どうしたら苦しみから抜け出すことができるだろうかと考えてしまうので、それは当然出口など見つかるはずがないのです。

そのステージにいる人の特徴は、比較的いい人と思われていたり、自己表現がひどく苦手だったり、自分を優先することができないといったことがあげられます。

癒しの次の段階へ進むと、それまで続けていた自己防衛のうちの何割かをやめていくようになります。それだけ人生での縛りが解けていくわけですから、その分本人は楽になります。

その状態の人は、いい人を返上して、いわゆる立派なエゴの人を実践していけるようになり、したがって、自分を優先することが徐々にできるようにもなっていきます。

もちろん、これが癒しの最終形ではありません。より自己防衛が減っていくと、今度は心的自己犠牲のない状態での他人を優先するという生き方になっていきます。

自己防衛というエゴが更に減るのですから、文字通り過去や未来にとらわれない生き方、自分の思考や感情を受け止めることで、それらに巻き込まれないようにもなるはずです。

自己防衛に巻き込まれずに、つまり無防備になっていけばいくほど、その人のエネルギーは軽くなり、深刻さは微塵もなくなってしまうでしょうね。

こうは思われたくないというあなたの気持ち

私たちは誰だって、人から否定されることを恐れています。恐れているというとオーバーに聞こえるのでしたら、否定されたくないと思っていると言ってもいいです。

ちゃんとしなければいけない、誰からも後ろ指さされたくない、親切でしっかりした人と思われたい、人格者と言われたい、こうした気持ちを持っていないといったらウソになるはずです。

そして常に、他人からどのように見られているのかを、気にしながら生活しているのです。誰だって嫌われるより好かれたいのですから、これは当然のことです。

あなたは実際、周囲の人たちから○○とは思われたくないというのをどれだけ持っていますか?勇気を持ってリストアップしてみてください。

沢山見つかるかもしれませんし、ほんの少しだけかもしれません。いずれにしても、○○のように見られるのだけはいやだというのが見つかったとします。

その気持ちがどこから来るかというと、自分が「自分のことを○○であるとは思いたくない」、という強い気持ちを持っていることからやってくる、つまりそれが原因なのです。

そしてそれは、「自分のことを○○であるかもしれない」として恐れてもいるのです。更には、心の一番奥には、「自分は○○に違いない、そんな自分は駄目だ」を持っているのです。

こうした強烈な自己否定感をまっすぐに見て、あるがままを受け止めることです。そして、そういう気持ちを一切裁かずにありのままにOKを出してあげるのです。

そうすると、自分のことを○○だと思われるのは絶対にいやだ、という気持ちが薄らいでいきます。その結果、他人からそのように思われてしまうという現実も消えていくのです。

シュレディンガーの猫

量子力学における確率の解釈というのは、私たちが通常イメージする確率とは大きく異なるものです。

「シュレディンガーの猫」という架空の実験があるのですが、箱の中に放射性物質と生きた猫を入れて、その放射性物質がアルファ崩壊した分だけ猫が死ぬというしかけを作っておくのです。

そして、その放射性物質が一時間の間にアルファ崩壊する確率が50%だとすると、猫は一時間後に50%の確率で生きており、また50%の確率で死んでいるというものです。

私たちの思考によると、蓋を開けずとも猫は生きているか死んでいるかのどちらかの状態に違いないと結論付けてしまいます。

けれども、量子力学によると、蓋を開けて観測するまでは生きている状態と死んでいる状態が同時に50%の確率で起きているとするのです。

言い換えれば、その一匹の猫ちゃんは生きているか死んでいるか不定だということです。猫でなくても、たとえそれが人間であっても同じなのです。

そして、一度蓋を開けて箱の中がどうなっているかを観測する瞬間に、生きているか死んでいるかどちらかの状態へと収束するのです。

それと同様にして、私たちはこの地球上で70億分の1の確率で同時に存在していると捉えることもできます。

そしてその上で、実際に知覚をもって観察される瞬間に、70億分の1の確率でどれかの肉体とリンクした誰かになるということです。

それが、たまたまあなたであり、私でもあるのですね。

人生とは思考によってひねり出された物語

先日あるテレビ番組で聞きかじっただけなので、詳細は定かではないのですが、クロシジミチョウは幼虫のときに、女王アリが出す音をマネしてアリの巣の中で、アリに育ててもらうらしいです。

アリはその音にまんまと騙されてしまい、女王アリだと思ってせっせと栄養になるものを運んで来てくれるわけですね。

また、カッコウやホトトギスは、托卵(たくらん)と言って、違う種類の鳥の巣に自分の卵を産み落とし、そこで我が子を育ててもらうという習性があります。

産み落とすタイミングも絶妙で、託す側の鳥が卵を産む時期を見ているらしいのです。早すぎると、親鳥に見つかって卵は殺されてしまいます。

また、遅すぎると親鳥が生んだ卵が先に孵ってしまうため、これもまた育たないのです。カッコウの卵であることが親鳥にばれずに、かついち早く卵が孵化して、他の卵を下に蹴落とすことで、自分だけが上手に生き残るというわけです。

こうした話しを聞いていると、何だかとてもずる賢いというか、あまりにもやり方が姑息過ぎて、もっとまっとうな育て方があるだろうと言いたくなりませんか?

けれども、当たり前のことですが、クロシジミチョウにしてもカッコウにしても、彼らには自我というものがありません。

したがって、彼らのやり方が如何に不正を働いているように見えたとしても、それは単なる動物としての防衛本能の働きでしかありません。

私たち人間だけが、本当は「ただ起きていること」を思考によって裁いて、そこに正不正や善悪のレッテルを貼って見ることで、興味深い物語を作り出すのですね。

私たちの人生というものも、そうやって思考によりひねり出された物語であるということを、いつも忘れずにいられると深刻になることから開放されるはずです。

真の暑気払い?

しかし、暑いですね~。個人的には、今頃の夏の暑さが好きだとはいえ、この時間(夜11時過ぎ)になっても一向に涼しくならないのには、閉口してしまいます。

夕べは、明け方に何度も目が覚めてしまい、その度にエアコンをタイマーにして寝るのですが、タイマーが切れるとまた起きてしまうというのを繰り返していました。

誰かにお会いしたときの第一声が、「いや~暑いですね~」なのです。そう言ったところで暑さが紛れるわけでもないのですが、つい愚痴りたくなるのですね。

以前、スポーツクラブで会うあるご高齢の婦人が、夏の暑い日に「今日は涼しいねえ」と言ってきたので、ポカンとしていたら、暑いというと暑くなるので、涼しいと言うようにしているというのです。

確かに、暑さを敵対視したうえで、恨みがましく暑い暑い!と言えば、余計に暑くなるというのは間違いではありません。

けれども、実際には暑いのに涼しいというのは、どうかと思ったのでそのときには黙っていました。本当は、そうしたやせ我慢は私の場合ほとんどしません。

なぜなら、それは厳密にいえば自分の本音を隠すことになる、つまり自分を騙すことになってしまうと思うからです。

実際には、一時的には効果があるかもしれませんが、それは暑がっている自分の心を葬り去るようなマネをしているということに気づかねばなりません。

本当に暑さに対する苦しさを小さくしたいのなら、「暑い、暑い」をしばらく繰り返して言うことです。2~3分も繰り返していると、暑さは変わらないのですが、拒絶感が小さくなったのに気づくはずです。

私たちの苦しみは、拒絶感と密接に関連しているのです。拒絶は恐怖からやってきます。その感情をしっかり受け止めることによって、その分だけ心は穏やかになります。

ウソだと思ったら、騙されたと思って試してみてください。暑気払いというよりは、暑さへの拒絶払いといったところですね。

真理の探究においては、矛盾を歓迎する

思考はいつも真理を理解することができる、努力すれば必ずや真実に到達することができるのだと信じています。

そうやって、飽くなき挑戦をし続けているのが人類ですね。様々な分野における研究、あるいは探求、挑戦は果てしなく続いていくのです。

それは決して悪いことではないし、悪いどころか価値ある人生を生きていくためにも、必要なことだというように思われているのも事実です。

科学にしても宗教にしても、昨日よりも明日はもっとすばらしいステージに立てるはず、そうした向上心が人類を進化させている、そうも思われているのです。

けれども、私たちは実はどこへも向かってはいないのです。思考のレベルで、どれほど改善、改革、自己実現などと叫んだところで、それは所詮思考の範疇なのです。

17年間も苦行を経験した仏陀が、悟ったときにその苦行は必要なかったと言ったように、私たちの思考が納得するような結果が必ずしもやってくるわけではありません。

「苦行はいらなかった」という彼の言葉は、相当に重く受け止めなければならないのです。思考で真理を捉えようとすると、そこには必ず深い矛盾の淵が待っているのです。

この世界は現実でもあるし、幻想でもある。本当は成すべきことは何もないが、努力が必要なときがないわけではない。

何も無いという「無」が厳然として「在る」、本当は分離など存在しないのに、分離からやってくる苦悩が私たちを苦しめている。

もしもあなたが、真理に近づこうとして矛盾にぶつかったなら、それはただ思考の限界を感じているだけだとして、軽やかにかわして行けばいいだけです。

矛盾をそのままに受け入れること、それが思考の限界を越える唯一の方法なのですから。

白いキャンパスとしての自己に気づく

原理的には、私たちの誰もが概ねまっさらな心の状態で生まれてきます。それは、まだ何も描かれていない真っ白なキャンパスのようなものですね。

真っ白だからこそ、はじめの数年間に描かれた絵、つまりその間に経験したことやそれにどのように反応したかがとても大きなインパクトとして残ることになるのです。

真っ白な心は、それこそ無防備な状態なので、どんなことでもそれを敏感なアンテナのように拾い上げて、強い影響を受け続けるのです。

その結果、その人のそれ以降の人生がどんなものになるのかといった大きな方向性が決まるのです。最初の数年間に赤色の土台を作った人は、赤色のビルディングを建てることになるのです。

幼児期の体験とその反応によって、赤色の土台を組み立てた人が青色のビルディングを建てるということはあり得ません。

幼いころに決意したことは石のように固く、よほどのことが無い限り大人になってもそれを覆すことはありません。

また、その頃に思い込んでしまったことは、単なる独りよがりなどと言うレベルでは済まされないくらいに、強烈に信じ込んでしまい、それはもうほとんど真実として本人の心の中にありつづけるのです。

その一つが、自分がここにいるという想いです。私たちの誰も、自分はここにはいない、などと思いながら過ごしているはずはないですね。

それは誰もが認める動かしがたい事実のようにみてしまっています。そして、それをベースとした必死の自己防衛がスタートするのです。

だからこそ、私たちの誰もが苦しみの原因として続けてきた自己防衛などは、それこそ筋金入りなのです。それを止めることは至難の技です。

けれども、どこまでもとことん自分に正直に向き合うということを徹底することで、次第に何重にも塗りたくられた絵の最下層に残っている真っ白なキャンパスを見つけることだって不可能ではないのです。

赤ちゃんの頃は、自分が真っ白なキャンパスであると気づくことはできませんでした。でも、一度塗りたくられた絵の具の層を丁寧に見つめていくことで、真っ白なキャンパスとしての自己に、今度は明確に気づくことができるのです。

人生の本当の目的があるとしたら、それを探し出すことではないでしょうか?