思考が二元性を生む

昨日の続きのような内容になりますが、この世界では表があれば常に裏があるのです。コインの表面が表でも裏でもない、ということはありませんね。

それと同じように、すべてが二つのうちのどちらかなのです。好きか嫌いか、右か左か、常識的に考えれば、右であると同時に左でもあるなどということはありません。

こうした世界の性質というのは、思考から発生したものであって、決して真実というわけではないのです。思考が活躍できるところは、二元性の世界に限られるのです。

真実は、ただ在るのですから、上か下かのどちらかということもありません。昨日のブログで書いた、否定しないということは、肯定でも否定でもないということ。

それが真実の方に向いている態度だということです。思考を脇に置くことが出来れば、それは当然の結果としてやってきてくれます。

そこには、何の力みもありませんし、何の正しさも、何の努力も必要ではありません。好きの反対は嫌いですが、そこに思考(防衛)がなければ、好きと好きではないがあるだけです。

私の中にずっとある幸福感を表現すれば、それは「不幸ではない」になります。嬉しいことがあって、飛び上がって喜んでいる姿とは異なる安定したものです。

それには、この「不幸ではない」ためのこの世的な理由などありません。だからこそ、永続的なものなのですね。真実とは、永遠のことなのですから。

「否定しない」の反対は「肯定する」ではない

いつもクライアントさんに伝えていることがあります。それは、簡単に言えば自分の心の中にあるどんな気持ちや、どんな想い、どんな感情に対してもそれをそのまま受け入れて欲しいということです。

ところが、この「受け入れる」というのがどうもピンと来ないと言われてしまうのです。「受け入れる」ことは、意外に難しいと感じてしまうのかもしれません。

それで、別の言葉を捜すのですが、例えば「否定しない」と言い換えることができると思って、そうお伝えすると今度は「肯定する」という意味で受け止められてしまうことがあるのです。

国語として、否定の反対は肯定ですので、「否定しない」= 「肯定する」のように捉えるのは当然なのですが、ここでの「否定しない」は、「肯定する」とは若干ニュアンスが異なるのです。

「肯定する」には、「積極的に」肯定するというニュアンスが含まれているのですが、「否定しない」にはそれがありません。

つまり、単に否定しないというだけで、力を込めて肯定する必要はないのです。もっと言えば、本当は積極的に肯定も否定もしないということ。

そのまま、だたあるがままを見るということなのです。一般的に、好きの反対は嫌いということになりますが、無防備な心においては好きの反対は単に好きではない、なのです。

なぜなら、「嫌い」には積極的に拒絶するというニュアンスがあり、それは心理的防衛がベースにあるからです。拒絶がなければ、ただ好きか好きではないがあるだけなのです。

「肯定する」に含まれる積極的にというニュアンスには、ともすると防衛の要素が見え隠れする場合があるように思うのです。

愛は無防備な心にやってくる

私たちは、自分を守る必要がないと分かっているとき、心の奥に隠し持っていた愛が表面に上がってきます。

無邪気な幼い子供を見ると、一般的にはとても可愛いなとか、愛らしいと感じることができるのは、その子供に攻撃されて傷つけられることはないと知っているからです。

力の弱い小動物や、おとなしい犬や猫を愛くるしいと感じるのも、まったく同じ原理が働いているからです。

自分の身の危険についてケアする必要がないと感じてさえいれば、普段隠れていた愛が一瞬にしてやってきてくれるおかげで、対象物に対する愛を感じるのです。

このことは、理性ではそう簡単に変えることができません。たとえば、幼い頃から周りにいる親などの大人たちが、ゴキブリを怖がっている姿を見せつけられていたとします。

つまり、親が必死になって防衛している姿を見ていると、ゴキブリには傷つけられる恐れがあるのだと判断してしまうのです。

そうなると、どれほどそれが小さな動物であろうとも、身近にそれがやってきたときに防衛システムが働きだすので、愛しいとは感じられないのです。

私たちの本質である純粋な意識に注意を向けていると、それが傷つくなどと言うことは決してないということが分かるために、自然と自己防衛が小さくなります。

その結果、あなたの心に待機していた愛が発動するようになり、自分のことも周りの人やあらゆるものに愛しさを感じるようになるのです。

愛は必ず無防備な心の状態において、静かにやってきてくれるのです。決して、理性や努力でコントロールできるものではないのですね。

あなたに境界はありますか?

私たちの誰もが、2~3歳のころから自分と身体を同一視するようになってしまいます。そのおかげで、自分は「個」であるという信念を作り出します。

けれども、その信念を一旦脇に置いて、今一度自分に境界があるかどうかを見てください。私にはどうやっても境界らしきものが見えません。

きっとあなたにも同じことが言えるはずです。誰にも、自分とはここまでだという境界などないことは明々白々です。

そして境界がないということは、自分というものは「ない(無限小)」か、あるいは「全体(無限大)」であるという結論にならざるをえません。

昨日のブログで書いた全体性とはこのことです。自分という意識、あるいは思考に注意を向け続けていると、どうしてもそこへ到達してしまうのです。

「自分の頭の中にある思考」という表現を普通にしますが、これほどおかしなことはありません。思考そのものには、境界がないのですから。

境界のないものが、頭の中などという狭い空間に閉じ込められているはずはありません。私たちは本来、全体性でありながらその思考の中で「個」であると信じて生きているのです。

これほど不思議で不条理なことはないと思いませんか?大海原が、海面に無数に起きては消えていく波の一つと自分を同一視して、自分は波だと言い張っているのと同じです。

あなたに境界がないということを、もしかしたら否定したい気持ちがやってくるかもしれませんが、そんなものはそのままにしておいてください。

どんな気持ちになろうと、あなたに境界がないことは明らかなのですから。あなたの本質は波ではなくて海そのものだと認めると楽になりますよ。

私の中で本質が顔を覗かせてる

私たちの誰もが、今自分がここにいるということを知っています。けれども、それが単なる思考であるということに気づいている人は少ないかもしれません。

単に思考の中身として、そうした解説をしているということと、それが事実だということとの間には無限のひらきがあります。つまり、まったく違うことなのです。

私の場合ですが、自分がここにいるという感覚をそのままにして、そうした感覚を持っているこの自分とは?というのを突き詰めてみたところ、いきなりそれが広がったのです。

自分は実はここにいるのではなくて全体だったという、どうやっても抵抗することのできない感覚がやってきたということですね。

それは勿論いやな感覚ではなく、なおかつ全くそれまで知らなかったわけでもなかったと思ったのです。つまり、どこかでいつも感じていたんだと…。

この感覚は絶対に誰でも持っているものに違いないということも感じました。そして、全体性というのは無二のものなので、すべての人の本質は唯一だと気づいたのです。

更に言えば、これは私という個人が気づいたというよりも、その本質そのものがそれ自体に気づいたということに違いありません。

なぜなら、個人としての私には無限とか全体性を本当には理解する力がないからです。一人称としての自己が「在る」という気づき、これは人間のものではありません。

一般には、人間としての自我がその気づきを邪魔してしまうのですが、その間隙をぬって本質がほんの少しだけ顔を覗かせているんだろうなと思うのです。

私たちは誰も覚醒できない

厳密な言い方をしてしまうと、私たちの誰も覚醒することはできません。どれほどの難行苦行を行い、崇高な精神を持つようになったとしても、それを行っている本人が覚醒することはないのです。

以前奇跡のコースを読み始めたときには、私自身がこの教えに従って根気強く自分を改善していけば、いずれは神の子に戻る、つまり覚醒することができると思っていました。

けれども、それは違うということに気づいたのです。歴史上誰もが知っているイエスキリスト、あるいは仏陀(釈迦)といった聖人についてはどうなのでしょうか?

実は、一人の人物としての彼らにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなかったのです。個人という自我は、どれほど鍛え上げたとしても覚醒するわけにはいかないのです。

個人という人物の中で、私たちの本質自体がそれ自身に気づいたとき、それが覚醒ということになるのです。

このことを残念なこととして受け止めるのか、それともかえってスッキリ爽やかな気持ちで受け止めるのか、人によって様々かもしれませんね。

私は、とてもスッキリしたのです。なぜなら、もう自己改造プログラムに興味が失せてしまったからです。観念したというのか、とにかく個人という自我はどこまでいったって自我のままだと分かったのです。

そして、更に嬉しいことに自我のままでいながらにして、同時にこの人生のすべてを貫通して常に在り続けている本質にも気づいていられると分かったのです。

このことについてだけは、本当に誰にも平等に与えられているのです。それこそが本当の救いですね。

すべての人生は唯一のもの

人類の今まですべての歴史の中で、同じ人生というのは勿論一つもありません。今この瞬間の70億人の人生にしても、70億通りの人生があります。

それはこの先人類が滅んでしまうまでの遥か彼方の未来にいたるまで変わることはありません。あなたの人生はこの宇宙の中で唯一なのです。

そしてどんな人生についても言えることですが、これが正しい人生だという決まったものはないということです。

どの人生における経験も、とても貴重なものです。なぜなら、一つひとつの人生が唯一のものであるだけではなく、一つの人生のどの一瞬一瞬も唯一だからです。

この宇宙にはまったく同じというものが存在しないのです。すべてが互いに異なるのです。もしも、思考を脇に置いてそれをみれば、人生は存在せずに一瞬の体験がただあるだけです。

それを評価したり判断することはできません。あなたにとっては、あなたの一瞬一瞬の体験がすべてであって、それはただそうあるのです。

快楽も悲嘆も、歓喜や絶望も、すべてはただそうあるだけです。それらすべての人生の、すべての一瞬が唯一である私たちの本質からやってくるのです。

あなたの人生はそのうちのごく一部かもしれませんが、あなたの中でそれが自分自身に気づきたくて、うずうずしていることは間違いありませんよ。

自分に対して徹底的に正直でいる

自分に対して正直でいるという、こんな当たり前なことがなかなかできないのが、私たち人間の本性かもしれません。

自分の心の奥からの声に正直に耳を傾ける、あるいは自分に対して正直にものを言う、どんな自分であってもそのままを見てあげること。

誰かに甘えたいと思っている未熟な自分、誰かを打ち負かして勝ち誇りたい自分、人を見下して安心したい自分、貪欲に自分本位に生きようとする自分。

些細なことに傷ついてしまう情けない自分、他人のことを思いやる気持ちができない薄情な自分、いつも寝ていたい怠け者の自分。

数え上げたら全くきりがありません。上記したことはすべて私自身に当てはまることですが、そんな自分を丸ごと受け止めてあげればいいだけです。

自分に正直になるとは、ただ本当のことを言えばいいということではありません。訴えたい気持ちを真正面から見てあげると、隠されていた本音を吐露することになるのです。

それは訴えることではなくて、独り言をいうようなニュアンスです。誰かに聞いて欲しい気持ちを充分受け止めてあげれば、告白のように正直な言葉が出てくるのです。

そのとき初めて、心を開くことができます。どこまでも徹底的に正直でいることができるなら、私たちはただそれだけで苦しみから解放されるはずです。

なぜなら、苦悩の根源とは自分に対して不正直になったり、隠し事をすることだからですね。正直な気持ちで自分と一緒にいる時間を作ってみることをお勧めします。

真に知るということ

真に知るということ、あるいは真に所有するということ、それはそれ自身であるということと同じ意味を持ちます。

それは、自分以外の何物も本当には知ることができないからです。勿論、知ったつもりになることはできますが、それはただ思考がそう解釈しているに過ぎません。

あるいは、自分以外の何物も本当には所有することなどできません。私たちが所有しているつもりになっているのは、ただの約束ごとに過ぎません。

みんなが、揃ってあの家はあなたのものだと言ってくれるからこそ、それはあなたの所有物と言う取り決めになっているだけです。

あなたが本当に所有できるのは、あなたそのものしかありません。私たちの知覚は自分以外の何かを対象として機能するのですから、知覚そのものが真実ではないことは明らかです。

真に見ることができるもの、真に聞くことができるもの、真に触れることができるもの、それは自分自身しかありえません。

私たちが最も頼りにしている知覚、それはその奥に純粋な意識としての気づきがあるのです。けれども、あまりにも知覚に力を与えてしまったために、そのことに気づけなくなってしまっています。

知覚のずっとずっと奥にある気づき、そこに意識を向けていれば、あなたが知覚しているすべてのものが、本当はあなた自身なのだと気づくことができるはずです。

肉体の目で見るのではなく、肉体の耳で聴くのでもなく、ただ一人称の自己に気づいていることこそ、真に知るということなのです。

今日の独り言

大分古くなって動作がすっかり鈍くなってしまった、我が愛するパソコンの前にすわって、今日は何を書こうかと心を静かにすると、しばらくしていつもの「あれ」がやってきてくれます。

「あれ」をどう表現すればいいのか、言葉ではどうにも言い表すことができないのは分かっているのですが、敢えて言うと…。

はちきれんばかりの、それでいてとても冷静な悦びとでも言えばいいのか、それを感じているというよりも、自分がそれ自体だということが分かるのです。

それは、今日という一日に自分がどんな経験をして、どんな反応をしたのかということから完全に分離した、別次元のものなのです。

心のどこかに、この世界に対していいようのない怒りのようなものを持っている自分の部分を感じることもできます。それは本当にあらゆるものを呪っているようです。

それはこの人生のほとんどの間、ずっと心の中で影ながら活躍していて、物理的な私の人生を描き続けてきました。

その想いの描くままの人生が今この瞬間も起きています。そんなものがあるにも関わらず、やっぱりその奥でこの世界を愛している自分もいるのです。

この世界は大きくもなければ小さくもありません。ただ本質の自己が現象化して顕れているに過ぎないのですから。

あなたの夢に大きさがないのと同じです。あなたが自分の夢を愛しく感じるのと同じように、私はこの世界で何が起ころうともとても愛しいのです。