不可能こそが本当の自由

人は誰でも自由を求めています。セラピストのところへいらっしゃるクライアントさんと向き合っていれば、それは明らかだと分かります。

つまり、悩みや苦しみなどを抱えて、不自由さの中でもがいているからこそ、それを何とかしたいと思ってセラピーにいらっしゃるわけです。

不自由とは、自分の意のままに、思ったようにいかないということ、自分のコントロールが思い通りに利かないことの苦しみです。

だからこそ、自由を獲得してその苦悩から開放されたいと願っているわけです。けれども、この場合の自由とは、単に不自由さとの比較の上に成り立つものだとも言えます。

人が一般的に求めている自由さとはそうしたものです。あくまでも不自由さとの相対によって表現されるようなものでしかありません。

それでは、真の自由、あるいは絶対的な自由とは一体どんなものなのでしょうか?私が自己探求を始めた目的は、その本当の自由への渇望からでした。

不自由さとの比較ではない完全なる自由とは何かというと、それはある種100%の否定的な表現の中にこそ見出されるものなのです。

つまり、完全にコントロールできないこと、あるいは完全なる不可能性において、おのずと気づくことができるもの、それが本当の自由なのです。

私たちは、自分のことや他人のこと、あるいはこの世界のことを自分の力で改善していくことができると信じきっています。

もっとましな自分になれるはずだと信じて、日々頑張っているのですから。多くの賢者たちは、そうしたコントロールを手放しなさいと昔から言ってきました。

その真意は、コントロールは不可能だということに気づくこと、そこに完全なる信頼を持つことができたなら、そのときこそ本当の自由を得ることができるといいたかったのです。

コントロールとは、そもそも思考が生み出した幻想です。ただ起きていることを解説して、そこに勝手な意味づけをすることで、行為者と行為という概念を作ったのです。

その行為者がなければ、コントロールなどというものはありません。本当のこの世界というものは、結果として完全なる自由の国なのだということです。

「人間は考える葦である」というけれど…

「人間は考える葦である」という有名な言葉が示すとおり、私たち人間の大きな特徴は考えることができるということですね。

他の動物でも非常に単純な思考なら可能かもしれませんが、人間だけが複雑な計算や理論的なことを思考する、つまり理性を持っているわけです。

そして、誰もが思考を非常に高いところに位置づけているのです。考えることができるからこそ、月に人を送り込むことができたし、近代文明や科学の発達を可能にしたと信じているからです。

けれども、よくよくその思考を使ってじっくり考えてみて欲しいことがあります。それは何かというと、思考そのものに何かを行為する能力があるか、ということです。

思考そのものが、ものを見たり、音を聞いたりすることができないことは明白です。私がコップを見ているというのは、事実ではなくて思考の内容です。

誰かがすばらしい音楽を聴いている、というのも単なる思考です。思考とは、起きていることをただただ「解説」しているに過ぎないのです。

そしてもう一つ、思考はどこからやってくるのかということを考えてみたいと思います。私たちは、何かを考えているときに、また別のことに考えが及ぶという経験を常にしています。

言ってみれば、思考の連鎖とでも表現できるかもしれません。何かの思考は別の思考からやってくるということがあるのです。

それなら、ある思考を作り出した大元の思考を作ったのは一体なんだろうかという疑問が涌いてきます。

私たちは何気なく、気楽にその大元の思考を作り出したのは自分に決まってると信じています。それなら、その自分とは何だろうかというところに行き着いてしまうのです。

実は、大元の「私」というもの自体も思考でしかありません。ということは、思考が一体どこから発生するのかということは謎なのです。

まとめると、思考がどこからやってくるかは謎であって、なおかつその思考そのものには何かを行為する力などはなく、起きていることをただ「解説」するのみだということです。

さて、困りました。あれほど、考えるということが私たち人間の優れた能力だと信じていたことが、すべてひっくり返ってしまったのですから。

では一体誰が、文明や科学を発達させて、あらゆる芸術を創造してきたのでしょうか?それは、「ただ起きた」ことだったのです。

思考でさえ、ただ起きただけだったのです。その思考を使わなければ、起きていることに意味はありません。これを信頼することができたら、私たちは本当に自由になるはずです。

思考から純粋な意識へ

意識の本質はただ鏡であることだ。
鏡自身にはどんな選択もない。
何であれ、前に来たものが映される。
善いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも、どんなものでもだ。
鏡に好き嫌いはない。
それは判断をしない。
それは非難をしない。

意識の本質は、その源においては、まさに鏡に似ている。
子供が生まれると、その子は自分の前に来るものを何でも映し出す。
赤ん坊は何も言わない。
赤ん坊は解釈しない。

解釈が入ってきた瞬間、鏡は鏡の本性を失う。
もう純粋ではない。
今やそれは意見でいっぱいになり、かき乱されている。
分割され、細分されたたくさんの断片だ。
分裂病になったのだ。

意識が分割され、鏡のようではなくなった時、それは思考(マインド)になる。
思考(マインド)とは割れた鏡だ。
根元では、思考(マインド)とは意識だ。

人が分け隔てするのをやめたら、二つに分割するのをやめたら……
あれに反対し、これを選んだり、これが好きで、あれが嫌いだったり…
もし人がこれらの分割から抜け出したら、
思考(マインド)は再び一枚の鏡に、純粋な意識になる。
だから、求道者にとっての努力のすべては、
どうやって意見を、哲学を、好みを、判断を、選択を落とすかにある。

by osho

正しさへのしがみつきをやめる

精神的な癒しを進めていくということは、ある意味、自分自身の内にある正しさを手放していくという果てしない道であるとも言えます。

誰もが自分が作り上げてきた自分の正しさに凝り固まっているからです。それは、何を信じているかということでもあるし、信念体系と表現してもいいのです。

自分の正しさに見切りをつけることは、それほど簡単なことではありません。なにしろ、その正しさに唯一の価値があると思い込んでいるのですから。

本当はそれ自体に価値があるのではなくて、自分を防衛するための強力なツールとして、その正しさに依存し、しがみついているだけなのです。

このしがみつきによって、本質が見えなくなってしまうのです。溺れそうになっている人に、手足をバタつかせるのをやめさえすれば、自然に浮いてくると叫んでも、効果がないのと同じです。

溺れかけている人は、強引に助けてしまうに限ります。けれども、それほどのパニック状態ではないときには、自らの力で、正しさによって自分を幸せにすることができたのかどうかを顧みることは可能です。

繰り返しますが、正しさとは単なる防衛手段でしかないので、それは幸福感とは全く縁のないものだと理解することです。

逆に言えば、正しさから遠ざかればそれだけ、苦しみからも遠ざかることができるのです。ただし、それは必ず痛みを伴うものです。

しかし、その痛みこそ逃げずに、自己防衛せずに見ることができれば、おのずと本質が見えてくるはずです。

自分にとって、なぜ正しさがそれほど大切なのかということを、避けずによくよく見ることです。そうすれば、自分のしがみつきに気がつくことができます。

気がつけば、そこに必ず突破口がやさしく開いて待っていてくれます。正しさを脇に置いてその中に入っていけばいいのです。その先には、先などなかったことに気づくはずです。

行くところなどはどこにもないし、進むべき道もなかったと本当に気づくことができるのではないかと思うのです。

恐怖が先か、逃避が先か

ライオンに追われたシマウマは、当然のごとく命をかけて逃げ回ります。それは、すべての動物が持っている自己防衛本能が発動するからですね。

勿論そのことは、人間であっても変わりありません。自分の命を守るために、危険を察知して、恐怖という感情を用いてその危険から逃げようとするのです。

こうした本能的な行動というのは、初めに危険による恐怖がきて、その結果として逃げるという行為が起こるのです。

ところが、人間だけがそうした恐怖を何倍にも膨らませて、実際には命の危険には至らないということが明白なのにも係わらず、逃げ続けるのです。

それは言わば精神的な恐怖と表現することができます。そしてそうした実体の伴わない恐怖というのは、自ら作り出しているということに気づくことが出来ません。

なぜなら、その恐怖とは、精神的な逃避によって自動的に作られてしまうものだからです。こうなると、恐怖が先にあるのか、それとも逃避が先なのかがはっきりしなくなってしまうのです。

逃げる心が恐怖心を生み出し、その恐怖から更に逃げようとするために、また恐怖が生み出されるという具合に、あっという間に恐怖と逃避の無限ループに陥ることになるのです。

そうなったら、もうその日を生きるエネルギーの大半をそのループをグルグル回ることだけに費やすことになってしまうでしょうね。

きっといつも疲労して、何もやる気が起きない状態になってしまうはずです。ウツ症状などもこうしたことが原因であると言うこともできます。

そこから撤退する方法はただ一つ、その悪循環にはまり込んでいることに気づくことです。そして、自分がこしらえた実体の伴わない恐怖から逃げなくすることです。

恐くても、恐くても逃げずに立ち止まり、そこにただいることです。たったそれだけでも、追ってきていた恐怖は、エネルギーを失うはずです。

とことんまで、その悪循環に嵌ってにっちもさっちもいかなくなった人は、自動的にそうした経験をしているはずです。

けれども、そこまで苦しむ必要などないのです。今この瞬間でも、逃げることをやめることは可能なのです。それを信頼して、実践することです。

「自分」という中心人物

このブログでも、もうすでに何度も繰り返して書いていることなのですが、来る日も来る日も毎日の人生はすべて、自分を中心に回っているといえます。

自分が喜んで、自分が退屈して、自分が考えて、自分が感じて、自分が決意して、自分が苦しんで、自分がどうしようと悩むのです。

とにもかくにも、自分、自分、自分なのです。どんなすばらしい本と出会って、その内容に感動しても、そこに感動している自分がいるのです。

仲良しだった友達と仲たがいをして、裏切られて、ひどく落ち込むことがあっても、その落ち込んでいるのは自分なのです。

大切な人の理不尽過ぎる体験を聞いて、猛烈に怒りを感じても、やっぱりそこに怒りを露わにしている自分がいるのです。

すばらしい経典や聖典などを読んで、これこそが真理なのだと理解したつもりでも、そこには真理を理解したと思っている自分がいるのです。

いついかなる時にでも、その中心に自分がいます。そして、自分には必ず何らかの物語が係わっているのです。

どんな物語とも関係のない、独立した自分というのはありえません。自分が何かを経験し続けることこそが人生なのですから。

けれども、この分かりきった決して変わることのない、物語の中心人物である「自分」がいなくなるときもあるのです。

それは、思考が停止するとき。あるいは、何かに没頭しているとき。何かのために無我夢中になっているときにも自分は消えうせます。

そのときに、愛が発動するのです。であれば、もっとも邪魔なのは自分ということになりはしませんか?それは本当に皮肉なものですね。

でもこれが本当のことなのです。個人としての「自分」は相当にしぶとい奴ですが、それでも自分が希薄になる経験をすれば、それがどれほど清々しい体験なのか理解することができます。

きっと誰もがそれを経験しているのですが、「自分」はそのことをなるべく悟られないようにして、次第にそれを忘れていくように仕向けるのです。

それを忘れないようにしておくことは可能です。自分を大切にすることは、自分がいる限りは大事なことですが、いない状態もあるのだということをいつも覚えておくことですね。

人間性と神性は不連続ではない

私たち人間の心には、考えられる限りのあらゆる種類の思考や感情が渦巻いています。もっとも神聖なものから、悪魔のようなものまで選り取り見取りです。

人間が天使になることはできませんし、悪魔になることもできません。でもどちらの要素も含んでいることは間違いありません。

凶悪犯罪を犯したばかりの犯人が、その犯行現場から逃げようとするときに、ふいに道路に飛び出した子猫を自分の命を顧みることもなく、助けることだってあり得るのです。

薬物やアルコール中毒に陥って、どうしようもなく堕落した人生を送っている人がいたとしても、我が身を守る事を忘れて、誰かのために奔走することもいくらでもあり得ます。

一人ひとりの個人のその瞬間を切り取って、表面的に見るのであれば、それは当然その人物の様々な要素のごく一部だけをみて全人格を判断してしまうことになるのです。

誰もが認める賢人がいれば、多くの人は尊敬と崇拝の対象として見るかもしれません。しかし、ある人にとっては鼻持ちならない苦手な人だと感じる場合もあるでしょう。

多くの宗教においては、私たちのエゴを徹底的に否定して、それを解体することこそが真実への道だと指導するのです。

エゴと神聖さは確かに相反するものですが、両者は決して不連続ではありません。つまり、エゴを持った人間でも、誠実にその内奥に入っていけば、そのまま神聖さへと繋がっているということです。

エゴと神聖さとを行ったり来たりして生活しているのが日常的な人間の姿なのです。その二つは一瞬にして入れ替わることもできるのです。

今、目の前の人がエゴを中心に据えているのか、神聖さに触れるような生き方をしているのかは、ただその瞬間に起きているだけです。

そしてきっと究極的には、誰もが自分自身から一切逃げずに、奥深くへ正直に突き進むときがやってきて、神聖さの中に留まるときがくると思うのです。

すべてを喪失する覚悟をする

自分の中には、相反する両極にあるものは等しいということを、何となく知っているという感覚があります。

それは例えば、自分自身は広大無辺の宇宙と比べれば、砂粒よりも小さい存在だと分かるのですが、でもそれが一つに繋がっていることを感じます。

つまり、極大と極小は同じものであるということです。ところが、この世界というのは、明らかにすべて中途半端な状態として存在しています。

両極こそが真実であって、その間に挟まれたこの世界は、その真実から生まれ出てきたものだと言うことができるかもしれません。

自分は、ある程度の大きさの肉体を持って、ある程度の何かしらを所有して、ある程度の時間の長さだけ生きるというわけです。

この中間的な人生の真実を知るためには、本当は両極にこそ自分の本質が隠されているのだと気づくことが必要なのだと思うのです。

つまり、中途半端に所有して、出来る限りそれを奪われないように注意し、そしてより欲するものを手に入れようとする人生を見直すのです。

もしも、すべてを手に入れようとするなら、その対極にあるものを見ることです。つまり、手に入れる代わりに、あらゆるものを失うこと。

すべてを所有することが不可能であるなら、すべてを喪失すること。これなら、可能なのです。すべてを失えば、自分こそがすべてだということになるはずだからです。

何もかも失う決意を今すぐにでもする必要がありそうです。勇気がいることではありますが、でもそれを選択することが可能なのです。

同様にして、すべてを知りたいと思うのなら、中途半端に知っているという状態をよく見つめて、本当は何も知らないということに目覚めることです。

そして、私が無であることに気づけば、自分の全体性に目覚めることになるのですね。どちらも同じことだからです。

一番怪しいのは「私」という想念

バーチャルリアリティを題材にした映画を観ました。ネタバレするといけないので、内容を詳しく書くつもりはありませんが、なかなか考えさせられる映画でしたね。

超スーパーコンピューターによって構築された仮想現実の世界に、生身の人間をダウンロードできるようにするシステムが開発されるのです。

その仮想現実の世界で生きている人々は、彼らがコンピューターによって構築された世界の住人だということには勿論気づいていないのです。

現実の世界に戻ってきたり、また仮想現実の世界に入ってみたりを繰り返しているうちに大変ショッキングな事実に気づくことになるのです。

それは、仮想現実のシステムを作りだしたこの世界も、実はそうしたシステムによって構築された仮想の世界だったということです。

これを観ていて、奇跡のコースを読み出した頃のことを思い出していました。コースでは、この世界は幻想であると断定しています。

こうしたことをどこかで感じている人たちがいるからこそ、きっとこのような映画を製作しようと考えたに違いありません。

しかし、最近ではこの世界は幻想だということに殊更こだわることがなくなってしまいました。その理由は簡単です。

この世界が幻想だという想いは、ただの想念(思考)であるし、その想念を抱いていると信じているこの「私」こそが最大の幻想だと気づいたからです。

この世界は…、と言い出した「私」がここにいるという自覚こそが、言ってみれば幻想であるということですから、世界がどうであれそんなことはどうでもいいのです。

一つだけ確かなことは、「私」とは何としぶとい奴なんだろうということです。今、この世界を構築した誰かがニヤッと笑ったような気がします。

どんな邪悪な妄想でも罪ではない

確か、モーゼの十戒に、「汝、姦淫することなかれ」というのがありますね。詳しくは知りませんが、きっと現代用語で言えば不倫のようなものをするなということだと思います。

それだけでしたら、現代の一般常識とさほど違いがないように感じますが、どこかで聞きかじったことですが、それは行為に及ばなくても考えただけでも罪だということも含まれるらしいです。

つまり、心のなかで想像したり、妄想するだけでも実際の行為と同じだけの罪深さがあるということのようですね。

そこは、確かに宗教的な色彩が強い部分だと思われます。現実のこの世界では、例えば殺人を犯したら罪を問われますが、殺人をどれほどリアルに想像したところで、罪にはなりません。

それは、他人の心の中は当人以外の何ものも覗いて、その想像の内容を見極めることができないからでしょう。

証拠のないものを、本人の自白だけで罰することができないので、それは罪にはならないということですね。

ところで、長い間膨大な数のクライアントさんとのセッションを通して気づかされたことがあるのですが、それは想像しただけで罪悪感を持つ人が沢山いらっしゃるということです。

私にしてみれば、人間は可能な限りのあらゆる想像をめぐらすことができて当然なのですが、人によってはこんなことを妄想している自分は許せないと思うことがあるらしいのです。

一番いい例が、幼い子供の場合に多いのですが、親の言動に対して本当は否定しているのに、それをなかったことにしようとする心の傾向が強いのです。

いやなことを言われても、それに対する怒りや憎しみのような感情を感じてはいけないとして、それを無視したりするということです。

勿論こうしたことは、大人になっても継続する場合もあるでしょう。自分は誰かのことをこんなふうに否定しようする邪悪な心があるとして、それに罪悪感を感じたりするのです。

けれども、心の中に巻き起こるどんな妄想でも、それに付随するいかなる感情であっても、それをあるがままにしっかり見ることです。

そうしたものに対して、誇張したり脚色したりせずに、そのままを逃避せずに見ることです。それができたときには、罪悪感も一緒に消えうせるはずなのです。