起きていることを喜ぶ心

私達の身の周りでは毎日様々なことが起き続けています。そうして起こったことに対して、イライラしたり、悲しんでみたり、喜んでみたり、あらゆる反応をするわけです。

それが私たち人間の習性でもあるわけです。そしてそのことに何の疑いも持ってはいません。つまり、悲しいことが起きれば悲しいと思うし、嬉しいことが起きるから嬉しくなると信じています。

しかし、このことはよくよく見つめてみると、本当ではありません。何が本当ではないかというと、○○なことが起きるから○○な気持ちになるという因果関係です。

これは正確に表現すると、次のようになるはずです。ある事象が起きて、それを○○な出来事として解釈したために○○な気持ちになったということです。

つまり、私たちはある事象が起きてそれを○○な出来事だと解釈するという手順を、しっかり把握せずに単に○○な出来事が起きたとしてしまっているのです。

自分の解釈によってある出来事を○○な出来事であると決め付けているということに気づいていません。このことはあらゆる場面について例外なく言えることなのです。

したがって、本当はどんな出来事が起きてもそれをどう解釈するかによって、○○な気持ちになったり、××な気持ちになったりすることができるということです。

だとすると、自分がいつも喜んでいたいと思うのなら、ある事象が起きたときに喜ぶべき出来事が起きたと解釈することができれば、必ず自分は喜ぶことができるということになります。

この世界ではありとあらゆる出来事が自分の身の回りで起きていますが、その中でできるだけ多くの出来事に対して喜ぶべきことだとの解釈をするようになれば、それだけ喜びの多い人生にしていけるということです。

あなたは自分の人生で遭遇するさまざまな出来事に対して、どんな解釈をしてどんな気持ちになることが多いでしょうか?

何であれ起きていることを喜んで迎え入れるような解釈ができるようになれたら、本当に喜びにあふれる人生を手に入れることができるということです。

起きていることそれ自体には何の意味もありません。それに意味づけをしているのはほかでもない自分の解釈なのです。

それなら、できる限り肯定的な解釈、楽しい解釈、嬉しい解釈、喜びの解釈ができるようにすれば、すばらしい人生になるはずです。試してみる価値がおおいにあると思います。

講演会に行って来ました

普段まったくと言っていいくらい人の書いたブログなどを読むような習慣もないのですが、どうしたことかある人のブログを読むことになったのです。

そしてその人のブログを読んでいるうちにいつも自分が伝えていることとほとんど違いがないような事柄がより分かりやすい言葉で綴られていることにびっくりしたのです。

少し読んでいるうちに本当にその内容がご本人の正直な気持ちから出ているのだろうなということが伝わってきて、ああこの人はホンモノだと感じました。

その人は、自分とほとんど同じ年齢の男性なのですが、コースで説明されている「聖なる瞬間」を経験したのだろうと思える人でした。

阿部敏郎という人なのですが、つい数日前までまったく知らない人だったはずが、そのブログを読んだことによってとても身近な存在に感じるようになりました。

そして、その人が書いた本が出版されたのを期に、講演会があるというのを知って昨日の夜出かけてきました。

講演会では、質疑応答も含めて二時間くらいの時間だったのですが、あっという間に終わってしまうくらい、短い感じがしました。

この人はきっとコースを読んではいないということがお話の内容からして分かるのですが、その真髄はコースの内容と何も違いがないのです。

自分がいつも伝えているような内容について、まったく知らない人からただ聞くという体験をしたわけですが、それがとても新鮮な体験でした。

もしも、彼のブログに興味があるのでしたら是非読んでみることをお勧めします。「いまここ」という題名のブログです。この意味にも深い意味が込められています。

たまには、オフィスから抜け出して違う空気を吸いに出かけるのもいいものですね。彼の言葉の中で、すべてをイエスと受け取るというのがとても心に残っています。

心の平安を願う その2

昨日のつづきです。

心の平安を求めているつもりでいても、結局人と争いを続けているというお話をしました。私たちが求めている平安というのは、戦争に勝って、次の戦争に突入するまでのほんの一瞬の安堵なのです。

日本が戦争を放棄した国であるとしても、どこかの国から戦争をしかけられたら防衛はするということです。これでは心の平安は得られません。

私たちの求めている平安もこうした種類のものだということを理解することです。決して本当の意味の戦いの放棄ではないのです。

自分からは攻撃しないですよという約束はできるのですが、もしも攻撃されたらもちろん攻撃し返すことになりますから注意して下さいねという状態なのです。

本当の心の平安とは、今日の平安な思いは一時のものではなくて、今後もずっと続くということを確信している場合のことを言います。

それは、自分はもう何があったとしても攻撃はしませんという決意をすること以外に方法はありません。この決意を真にすることができたら、実は絶対に攻撃されることはないとわかるのです。

なぜそんなことが言えるのかというと、相手は全部自分の投影に過ぎないからです。自分は攻撃しないという決意は白旗を揚げることと同じです。

戦うくらいなら殺されてもいいという思いです。身を投げ出した状態になるということです。犬で言えば腹を上にして横になるようなものです。

つまり無防備になるということです。本当に無防備な心はどんな状態におかれても攻撃されるということはありません。

防衛するから攻撃を受けることになるのですから。何があっても攻撃することを正当化することはできないのです。そのことが分かったときに、ようやく本当の心の平安、つまり真の幸せを感じることができるのです。

心の平安を願う

余程心が捻じ曲がってしまった人以外は戦争を望むということはありません。誰だって人と人が血を流して殺しあうことを好ましいとは思わないのです。

そのくせ、いつまでたっても人類の歴史はそのまま戦争の歴史と言ってもいいくらいに地球のどこかで日常的に戦禍の中で生きてる人たちがいるのです。

日本のように戦争を放棄した国にいても、私達は自覚のあるなしに関わらず周りの人たちとある種の戦いを続けています。

それは健康的なスポーツでの勝負や試験や成績での争い、会社間の熾烈な戦いや同僚との出世争いなど、数え上げたらきりがありません。

家族などのごく親しい間柄同士であっても、何かしらそこには争っている意識というものがあるのです。相手に負けたくない、何かで相手を負かしたいと思っています。

怒りという感情によって攻撃的になってしまうということも誰でも経験していることですが、そうした状態というのも誰かを相手に戦っているのと同じです。

もう分っていただけたと思いますが、私達は戦いが好きなのです。争いごとに巻き込まれたくないと思っているものの、実は無意識のうちに好んでそうした場所に行くのです。

誰もが心の平安を願っていると自覚しているその裏では、こうした心の働きというものがあるということです。

私達は根っから争いごとが好きでたまらないのです。戦いで勝つこと、相手と比べて自分の方が優位にあると思って安心したいということです。

そうした一過性の安心が心の平安だと思ってしまっているのです。だから、それ欲しさに争うということです。

しかし心の平安を得るために戦わねばならないというのは理不尽な話だと思いませんか?ここに気が付かなければ、いつまでも戦い続けることになってしまいます。

つづく

1+1=1の世界

私達のこの世界では様々な法則があります。宇宙全体に行き渡る法則を見つけることがある意味で科学の発展を支えてきたともいえます。

地球上のどの国に行っても、1+1=2になります。スケールを大きくすると、エネルギー保存の法則、ニュートンの万有引力の法則、そしてアインシュタインの相対性理論。

まさに人類はそうした宇宙に満ちている法則を見つけ出すことに躍起になってきました。しかし、一方では奇跡という言葉があります。

絶対に助からないと思われていた末期ガンの患者さんの病気が完治してしまったり、そのほか何も飲まず食わずで何十年も生きている人。

この世界の法則から逸脱した現象のことを奇跡と呼ぶわけです。こうした奇跡を見つけ出すと、科学の目はまだ発見されてない法則があるのだと思うのです。

その法則さえ見つかれば、奇跡は奇跡ではなくなると思い込んでいるのです。つまり、この世界は必ずやなんらかの法則の元で現象が起きていると思っているのです。

そうやって、自分たちの能力ですべてを理解し解明できる、もしくは解明したいと常に思い込んでいるということです。

これこそがエゴの思考なのです。そして、この世界はエゴの思考体系で成り立っているのです。本当の法則とはそれなのです。

ということは、エゴの思考体系から抜けることができたなら、それこそが奇跡となるのです。奇跡のコースによると、この世界は幻想であり、実在は別にあると言う事が分ります。

つまり、奇跡というのは真実の世界を証明するものなのです。エゴの思考体系の中にいる私達からみると、実在は奇跡のように見えてしまうのです。

1+1=1にもなるのです。なぜなら、真実の世界には足し算というものがありません。もしも無理やり1+1というのをやったとしても、すべては元々一つなので答えはやはり1になるのです。

エゴから離れて愛に生きる人はエゴの思考体系から逸脱した世界を見るので、奇跡がごく普通に起こるようになるということです。

レースゲーム

先日レースゲームを買いました。実はずっと以前からその種類のゲームが大好きだったのですが、ゲーム機に付属しているコントローラでの運転に面白みを感じることができなくてやめていました。

それがネット上で比較的安価にゲームセンターにあるようなハンドルとペダルとシートが手に入ることを知って、購入してみました。

いきなり、自分の部屋がゲームセンターになってしまいました。そのゲームに嵌り込んでいると、これがエゴ満載になっている自分に気づきます。

繰り返し訓練してハンドル操作や微妙なアクセルの加減やドリフト走行ができるようになると、無上の喜びを感じたりできるのです。

つまり、自分の能力を向上して行って、 結果を出す。タイムトライアルを何度も繰り返して世界記録を破ってみたり、レースで他のレーサーとぶつかり合いながら勝利してみたり。

明らかにエゴど真ん中な感じになることが簡単にできます。エゴの集中力というのもなかなかなものだなと思ったりします。

しかし、そんな中でもよ~く自分の心の状態を見つめてみると、そこには巨大なエゴの意識に隠れたようになってはいるものの、ちゃんと愛の部分もあるということに気づくのです。

それは、サーキットやオフロードを走っているときに感じる、道は友達という感覚です。道路は自分の前に優雅にカーブを描いて待っていてくれるという愛おしさです。

丁寧に敷かれた絨毯の上を愛を込めて走り抜けるような感謝の気持ちになることがあります。それは、コーナーを責めてタイムを縮めるというよりも、コーナーはすばらしいと感じるのです。

前方に果てしなく続く道が自分をウエルカムしてくれているような、そんな嬉しい気持ちを味わうこともできます。

どんな殺伐とした世界であったとしても、そこに愛の要素を感じ取ることはできるんだということですね。

やらねばならない事はない その2

昨日のつづきです。

本当にやらねばならないという事は実は意外に少ないというお話をしました。やらねばならないという意気込みが強すぎて、やらなくてもいいことでもその仲間に入れてしまうからです。

例えば、最初はただやりたいからやっているということでも、知らぬうちにやらなければになってしまうこともあります。

気持ちのいい汗を流したくてスポーツクラブに入会したのはいいけれど、いざ出かけるときには今日はスポーツクラブに行かなきゃという思いに変換してしまったりするのです。

ある意味、そうした言い方が癖になってしまっているのかもしれませんが、そういう表現を使うということ自体が気持ちを変えてしまっている証拠だとも言えるのです。

朝起きなきゃ、会社に行かなきゃ、食事をしなきゃ、家に帰らなきゃ、映画を見に行かなきゃ、もう何から何まで~しなきゃという具合に変えてしまうのです。

そうやって元々はただそうしたいという気持ちだけだったものを、義務化してしまうということです。義務化してしまうと、人は徐々に気が重くなってくるのです。

そうすると、せっかく入会したスポーツクラブにも足が遠のくことになってしまうかもしれません。しかし、なぜただしたいことをするということを、しなければという義務に変換してしまうのでしょうか?

それは義務を果たすことで安心しようとする心の働きがあるのです。ただ好きなことをするというのは自由でいいですが、どうもそこには価値が見出せないという思いがあるのです。

義務化してそれを遂行することにしてしまうと、そこには何となく達成したという思いが生まれ、それによって自分を責めることから遠ざかることができるのです。

それが安心に繋がるということです。このことに気づいたら、出来る限り日頃やらねばと思い込んでいることを洗い出して、義務化していないかチェックしてみることです。

そうやって、本当にやるべきことだけを実行するようにしていくことで、より自由な生活を手に入れることができるのです。

そうして心が癒されていけばいくほど、本当にやらねばならない事など一つもないということにも気づいていけるのです。

やらねばならない事はない

私達は毎日あれもやらなければ、これもやらなければならないという事を沢山抱えて生きています。幼い頃に比べて大人になるに連れて、そういったことが増えているようにも感じます。

確かに、子供の頃というのは考えなければならないことが少ないために、当然やらねばならないと思うことも少なかったのでしょう。

大人になると、子供の時と違って自分のことだけではなくて、家族のことや仕事のこと、その他様々なことをケアしなければいけないと感じているのです。

しかし、一度冷静になってそうしたしなければならないことについて、じっくり見つめ直してみると本当にしなければならないのかと疑問が出てきます。

例えば、主婦の場合には毎日家の中を掃除しなければならないとか、家族のために毎日手料理を作ってあげなければならないという思いがあるかもしれません。

それをしないならば、自分の主婦としての役目をまっとうできなくなってしまうと考えるのかもしれません。しかし、主婦の役目と自分の心が穏やかでいられることのどちらが大切なことかを考えてみれば、結果は明らかです。

無理して、主婦の義務と責任を果たすことに執着する必要はないのです。疲れていたら今日は掃除するのやめよう、食材がなければ今日は出来合いのもので済まそうでいいのです。

一番大切なのは、自分の心の平安です。無理をして心が乱されてしまっては役目を果たしたところで何の得にもなりません。

心の平安をいつも第一の目標にしている人は、やらねばならないことはそれほど多くはないはずなのです。なぜなら、たくさんの義務と責任を持っていたら、それだけで心の平安を得ることは難しくなってしまうと知っているからです。

つづく

自己概念を手放す その2

昨日のつづきです。

嫌いなものは嫌いなままでいいという気持ちが、今まで培ってきた自己概念を変えたくないという思いだというお話しをしました。

このお話しはとても大切なので、このブログでも今までに何度となくお伝えしてきたつもりです。そして、本当の癒しとは、そうした宝物のように自分が守り続けている自己概念、自己イメージを手放して新しい自己というものを確立していくことなのです。

もっとも大切なことは、そのようにしていくことを除いては幸せへの道は閉ざされたままになってしまうということをしっかり理解することなのです。

今この瞬間の自分という自己像、この私というものが自分自身を癒していきたいと思っているわけです。ところが、それは自己概念を変えずにということを前提としているのです。

だから表面的に癒しが進んでいっているように見えたとしても、実は本質的な癒しは進んでいないと思ったほうがいいのです。

自分を癒したいという気持ちはすべての基本ですが、自分自身の力ではそれは無理なのだということを悟ることが重要なのです。

自分の力を使おうとすれば、それはすでに自己概念の中で癒しを進めようとしてしまっているということになるからです。

ここでお伝えしていることは、半端な気持ちではなかなか受け入れることは難しいはずです。相当に思い切りのいい決意を必要とするはずです。

そしてこの自己概念を亡き者にするのではなく、その代わりになる新しい自己を育てていくということです。

その結果、本来の選択をするという状況に持っていくことができるのです。二つの選択肢ができるということです。そして、その先にこそ自分を本当に幸せにするための癒しの道が続いているのです。

自己概念を手放す

時々みなさんにお話しすることなのですが、大抵の人が嫌いだと思っているゴキブリを例にあげたお話しです。

ゴキブリなんて見るのもいやだと思っている人は沢山います。そんな人たちに、心の底からそのゴキブリを頬擦りするくらい好きになる方法があるとしたらどうしますか、と聞きます。

そうすると、ほとんどの人がそんなことは必要ないと答えてくれます。たった一錠の薬を飲むだけでいいと言われても確実に断ると思います。

あんな気持ちの悪いゴキブリを好きにならなくてもいいという気持ちが強いということです。でもよく考えてみると、何かを恐れたり嫌ったりするより好きでいる方が気持ちよく生きれますね。

だったらなぜ嫌いなままでいいと思うのでしょうか?ゴキブリに限らず、周りにいる人の中で絶対に好きになんかならなくていいと思えるような人はいませんか?

嫌いというのは拒絶からきます。拒絶は恐怖からくるのです。好きという感覚は勿論愛ですね。つまり、嫌いなままでいいと言うのは、愛よりも恐怖を取ると言っていることになるのです。

そうまでして嫌いなままを選ぶ本当の理由は、それが嫌いだという自分の気持ちを大事にしたいということなのです。

ゴキブリを嫌いという気持ちを正当化しておきたいということです。あんな気味悪い生き物を好きになんてなったら自分が可愛そうだくらいに感じているのです。

自分の中にある自然な好き嫌いの感覚、あるいは正不正、善悪、その他様々な信念信条、ルール、考え方などそういうものを変えたくないのです。

自分を作り上げているそうした諸々の要素を変えるつもりはないと思っているのです。その中心にあるものが自己概念、自己イメージというものです。

私達は誰であれ生まれてから長い時間をかけて培ってきた自己概念が正しいと思いたいのです。だから、それを手放そうとなど全く考えも及ばないわけです。

ゴキブリが嫌いという自分の感覚のままでいいというのはそういうことなのです。しかし、本当の心の癒しというのはそうした自己概念を手放すことがどうしても必要なのです。

つづく