痛みを作り出す心

痛みには心の痛みと身体の痛みとがありますね。その痛みというのはさまざまな理由によって起きるのですが、実は最も深いところではそれを感じている心自体が起こしていると言えるのです。

身体の痛みといえども同じです。身体の痛みも心が起こし、それを感じているのです。つまり心は自作自演をしていることになります。

そこに身体が入り込む余地などありません。ではなぜ心はそんなことをしでかすのでしょうか?誰の心も痛みを好んでいるとは思えません。

だから痛みを感じる時には、どうしても痛みを被るという具合に受身で捉えてしまいたくなるのも当然なのです。ただよく考えてみると、例外的に痛みを望む場合がなくもありません。

それはたとえば、ある痛みを別の痛みで分からなくしたいと思うときなどです。元々自分がでっち上げた痛みであったとしても、その痛みがひどすぎて耐えられないと言う場合に別の痛みを起こしてそちらに意識を向けようとするのです。

しかし、この方法は何の解決にもならないのは自明の理ですね。新たに作った痛みでさえまた耐え難くなれば、さらにそれを紛らすための別の痛みが必要になるのですから。

そうやって再現なく痛みを連鎖させて作り続けていくことになってしまいます。これは想像するのもいやな毎日になってしまいそうです。

それともう一つ、心が痛みを望むケースがあるのです。私たちは自分の苦しさや辛さを自分以外の誰かに分かって受け止めてもらいたいという本能的な欲求を持っていますね。

自分の心が分裂している場合には、それと同じことが心の中で起きる可能性があります。つまり、分裂した片割れの心が痛みを感じていて、もう一つの心がそれを無視している場合です。

痛みを感じている心はもう一つの片割れに自分の痛みを感じさそうとするのです。元々痛みを感じていた心の部分が抑圧されていると、この現象が起きたときには今まで何でもなかったのに、何の理由もないのに急に痛みを感じるようになったりします。

それは隠されていた心の痛みがもう一方の心にそれと同じような痛みを感じてくれるようにと望んだ結果だと言えるのです。

このような場合には、なるべく痛みから逃げずに痛みを発生させた元となった心の本音を探ってあげる必要があるのです。しかし激痛の渦中にいると、そんなことはとても無理に感じるでしょうね。

ですから、痛みに対する心の余裕があると思えるときにだけでも、こうしたことをじっくり腰を据えて自分の心を見つめてみることが必要です。

身体の痛みと思えるものはすべて心の痛みを変化させたものと言って間違いありません。身体の痛みが激しいほど、激しい憎しみを心の中に隠し持っている可能性がとても高いのです。