目をつぶれば世界が消える

普段独りで部屋で過ごしている時には、目をつぶっていることがとても多くなってきています。これは、もう一年くらいまえから自覚がありました。

それが、ここへ来て益々目を閉じている時間が長くなっていることを感じます。明確に目を開けているときというのは、パソコンに向かって何かを書いているときか、本を読んでいるときです。

それ以外の時には、かなりの割合で目を閉じて生活をしているようです。それはつまり、何もしないでいる時間が多いということにもなりますね。

だからといって、瞑想のような状態になっているというわけでもないのですが、ただ自分へ意識を向け続けているということです。

子供の頃には、どういうわけか怖いことのベスト3に目が見えなくなるということが入っていたと記憶しています。

確か、夜寝るときに部屋を真っ暗にするのが若干怖かったために、そんなことを考えるようになったのかもしれません。

このまま、明日朝が来て目を開けても真っ暗なままだったらどうしよう、というような幼い恐怖感を独りで感じていたのだと思います。

勿論今でも、目が見えなくなったとしたらと考えると、それはとても恐ろしいことであることには違いないはずなのです。

それにもかかわらず、目を閉じていることが多いというのは、「目をつぶれば世界が消える」ということを体験しているのだろうと思うのです。

通常、目を閉じたってこの世界が消えるなどということはなく、目を開ければまたいつもの世界が自分の周りに広がっているはずと信じています。

でも真実は、「目をつぶれば世界は消滅する」のです。ただ音だけの世界に変化するということに気が付いたのです。

そして、目をつぶっていると、何か目に入るものに心を奪われずに済むということが自分にとってとても大きなメリットとなっているのです。

瞑想するとかしないとかではなくて、目をつぶる時間を増やしてみませんか?きっと、今まで以上に心を静かにすることができるはずです。

楽しみが消えていく

昨日の日曜日は待ちに待ったF1第15戦目、日本グランプリの決勝の日でした。昨年の鈴鹿サーキットでの我が小林可夢偉選手の走りには、本当に感動をしたのでした。

今年も同じように期待してしまうのが人間の常なのでしょうね。心の中では、こうしたことに巻き込まれていくのは御免だという思いもあるものの、その魅力には勝てずに、はやる気持ちを抑えつつのテレビ観戦となったのです。

テレビでのレースに意識が向かいそうになるのを、その都度自分の意識へと戻しつつ見ていると、何だか心がしっくりこないというか、興奮しないのです。

おまけに、期待していたような結果にはならずに、残念な気持ちでテレビ観戦を終えたのでした。その残念な気持ちさえ、あまり大きなものにはならずじまいでした。

なんだか、もうF1を見ながら興奮するといったことも、自分にはなくなってしまうのかもしれないと思うと、やや寂しさを感じてしまいます。

そういえば、あれほど熱狂していたレースゲームもここのところ全くやらなくなってしまっています。老後の楽しみだとさえ思っていたはずなのに…。

そして、F1が終わったあと、食事をはさんで久しぶりに別のテレビ番組を見ていたのですが、どうも見終わったときに疲れているような気がしたのです。

テレビを見ることも、自分にはそぐわないようになってきたのかなと。自分へ意識を向け続けることをやりだしてから、どうやら今まで楽しみだったことが軒並みそれほど楽しくなくなってきたようなのです。

体調が回復したので、少しずつワインも飲んでいるのですが、以前のような感覚で飲むことができてないように思うのです。量も格段に減ってしまいました。

今までの自分にとっての数少ない楽しみが、自分から奪われていってるような、そんなちょっと悲しい気分になっています。

それでも、自分に意識を向ける練習を続けるつもりなのかと、どうやらテストされているような感じがしています。

固く決意したのですから、たとえ楽しみが消えていこうとも、この先のことを考えることをやめて、練習を続けることしかないと今思い直しているところです。

私とは誰か?

私とは時間の中で生きている人まとまりの存在。私とは広大な宇宙空間の中に、ほんの一握りにも満たない自分だけの空間をその身体として占有しているもの。

私とは固有の外観を持っている。私とは、様々な記憶を基に形作られている心を持っている。記憶とは、過去の体験から得られた情報の束である。

その体験とは、それまでの私が行為した結果である。私の行為とは、能動的なものと受動的なものがあり、また意識的なものと無意識的なものとが混在している。

私とは、その他の人から個人だと識別される一人の存在であり、それは人物としてのカテゴリーに入る。

行為者としての私をコントロールしているのは、私の心であり、その心で固有の思考や感情、その他あらゆる想念を作り出す。

したがって、私とは身体だとも言えるし、心だとも言える。そして、それらを使って常に何らかの行為者として生きている。

私は、自分の身は自分で守らなければならない。そのために、必要なものを手にいれれば安心し、奪われれば苦悩する。言い換えれば、欲望と恐怖の中で生きている。快楽への欲望と、苦悩への恐怖である。

私は、こうしたことをすべて真実に違いないと頑なに信じているのだ。そして、手に入れたものはすべて私と同一化され、私が強化されたと錯覚する。それは財産や知識、その他あらゆるものに対して。

このような、私に対する大きな欺きに気づかなければならない。しかし、これを言っている私自身も騙された本人であり、これを解決するのは、深く洗脳された人が自分自身でその洗脳をはずしていくことと同じように難しいこと。

だからこそ、何か目には見えない大きな力が必要なのだろうと思う。

私は身体だという思い込み

目をつぶり、ただ静かに横たわっているとき、自分の中の何ものかが必死に自分の身体のイメージを作り続けていることに気づくことができます。

目を閉じてしまうと、自分で自分の身体を見ることができなくなってしまうために、そうしたことが意識の奥で行われているようです。

ここに頭があって、両肩から手が伸びていて、首から下に胴体がこんなふうに横たわっていて、そして足が二本くっ付いている、といった具合に。

何かがそれを絶え間なく伝えてきているように感じます。これを忘れてはならないぞというような、そのくらいの力強さを感じてしまいます。

何でそれほど頑張らなければならないのかを考えれば、それは簡単に説明がつきます。それは、本当のことではないからです。

本当のこと、あるがままのことはただ何もせずともそのままでいられるはずですが、何かを偽っている場合には絶えずそれを正当化しようとする努力が必要になるのです。

そして、一つ騙したらそれを存続させるために、次々と騙し続けなければならないものが増えてきます。その大元が自分は身体だという想念なのです。

しかし、この思い込みを続けようとする力は、とてつもなく深い部分でがっちりと固められているために、普段の生活の中では気づくこともありません。

だから私たちはそうしたことを疑おうともしなくなってしまうのです。思い込んでしまったときが幼児の頃だったということもとても大きい要因となっています。

幼いころは防衛する方法を知らないので、騙されていくことに気づくことができなかったと言うことなのでしょう。

それでも、冒頭書いたように心を鎮めてただ感じていると、強烈なパワーで自分は身体であり、それはこうなっているというイメージで自分を縛り付けているものを感じます。

でも、「私はただ在る」と繰り返すことで、私の身体の輪郭は薄れていき、それとは対照的な無限の広がりであることを感じることができるのです。

それこそがコースで言う真の自己、ダグラスさんが言う本当の本当の自分、ヒンドゥー教などで言うところの真我なのでしょう。

どんな呼び名でも構わないのです。ただ、自分は個人だと思っている心、身体と自分を同一視している心を取っ払えば、元々の自分自身に気づくだけなのですね。

違和感を受容する

大学生の時に初めてコンタクトレンズを使い出したことがありました。メガネ屋さんで、最初にソフトコンタクトを目の中に入れてもらったときに痛みがないことに気をよくしたのです。

勿論、敏感体質の自分には相当な違和感があったのですが、それでもこれでメガネをかけずに済むというありがたさが勝ったために、それからは愛用することとなりました。

使い始めてまもなく、その目の中の違和感が少なくなっていることに気が付きました。そして、何かに夢中になっているときなどは、全く気にならないくらいになってくれたのです。

あれほど違和感があったのに、考えて見るとあっという間にごく普通に使えるようになったことに、自分ながら驚きがありました。

そしてその後、違和感というのは慣れることによって解消していくものだということに気づいたのです。先日も、ほんの少し歯医者さんで歯をいじられただけで、ものすごく口の中の違和感がありました。

それでも、一晩寝て起きたときには、もうかなりその違和感はなくなってしまっていました。最初はどうなることかと思ったのですが、あっけなく慣れてしまうんですね。

私たちは、自分にとって違和感のあるものは正常な状態ではないと考える癖を持っています。逆に馴染んでいるものは正常だと感じるのです。

それが、正しいか正しくないかというところまで発展することも多々あります。自分が日頃思っていることと違う考え方には違和感を感じます。

そうすると、それを正しくないものとして見てしまう傾向があるということです。それは、自分に馴染んでいる考え方、その自分が正しいのだからその考え方も正しいと思いたいという気持ちが根底にあるのです。

しかし、先ほども言ったように違和感があることは、何であれ時間とともに馴染んでくる可能性があって、そうなったら正常だと思えるようになるということです。

このことを覚えておくと、違和感を感じるものに反発することをやめていけるようになります。違和感は違和感として否定せずにただ感じてあげるのです。

大抵自分にとって本当に大切なことというのは、初めのうちは違和感を感じるものだからです。なぜなら、自分のワールドの外から来るものだからです。

どんな違和感にも、それをあるがままに見てあげて感じてあげることです。それが、多くの気づきを得ることにとても貢献してくれるのですから。

本当の安心

私たちの願望が受動的になったとき、多くの人は安心したいと思うようになるものです。しかし、たとえ安心することができたとしても、それは一過性のものにすぎません。

なぜなら、安心することができた裏には、外的なあるいは物質的なものがその根拠となっていることがほとんどだからです。

お金が沢山溜まったからとか、素敵なパートナーが見つかったから、有名な会社に就職できたから、いい学校に入学できたからなど。

こうしたものをいくら手に入れることができたとしても、それもいつまで続くものか、そして明日はどうなるのか全く分からないのです。

この世界の何かを頼りにしても、それは必ず変化するものばかりです。だからこそ、その安心とは未来にはどうなるか分からないようなものになってしまいます。

これは、本当に安心することができたとは言えないのです。あるときは人と同じであると認識する事で安心することもあるし、またあるときは人と違うということで安心することもあるのです。

自分はごく平均的な人間だと思うことで安心したり、自分は特別な存在なのだと思うことで安心したりすることもあります。

このように、安心できる根拠というのは実に怪しいものです。それなのに、私たちはこの不安定な安心こそが幸せなのだと勘違いしています。

だからいつまでたっても幸せを手にすることができないでいるのです。真の安心とは、この世的な根拠のないものです。

それは自分が一個人として生きていると思い込んでいる限りは、やってくることはありません。なぜなら、個人としての人物は時間の中で生きているからです。

変化することのない、時空を超えた純粋な意識としての自分を思い出すことでしか、本当の安心を見出すことはできないということです。

期待に応えたい!

誰でも心の底では人の期待に応えたいと強く望んでいます。期待に応えられる自分でありたいと願っているわけです。

それは幼い子供でもまったく同じなのです。というより、幼い子供ほどその気持ちが強いと言った方が当たっているかもしれません。

特に幼児は両親や周りの大人たちの寵愛を一身に受けて育っていくのですが、そのときに周囲から強烈な期待のエネルギーを感じてしまうのです。

それは幼児にしてはとても荷の重いものに感じるはずです。期待の根っこは愛なのですが、それが大人たちにとっての願望や欲望と結びつくと、重くのしかかる期待へと変化してしまいます。

それはまるで津波のように子供の心へと押し寄せてきます。子供は正直、とてもそんな期待には応えることはできないと感じます。

そうすると、そうした自分を責めてしまう心が成長することになります。それが、自己否定感へと発展していくことになるのです。

周りからの期待のエネルギーが強ければ強いほど、そしてそれを本人が敏感に感じる体質であればあるほど、期待に応えられないという罪の意識も大きくなってしまいます。

それがあまりにも苦しすぎると、子供の心の中にそれを感じないようにする防衛機構が作られます。それは、感覚を麻痺させて分からなくさせるというやり方をとります。

そしてまだ先があるのです。自分のままでは期待に応えられないと思えば思うほど、期待に応えようと頑張る意識も成長するのです。

それは社会的に見れば立派な大人へと成長させるのに役立つのですが、その原動力は期待に応えられない自分を応えられるようにするという意志なので、その他のことが犠牲になってしまいます。

つまり、頑張れば頑張るほど自己犠牲を積むことになり、それは必ず怒りへと変換されます。また、ある程度成長すると、相手の期待に反することになりそうな、いかなる言動もストップをかける必要も出てきます。

それは、先ほどの感覚を麻痺させるメカニズムが処理することになります。それは結局、自己表現を抑えるということにつながります。

頭を真っ白にさせたり、何かを言おうとしたときに喉をつまらせて言葉が出ないようにしたりします。こうしたことをずっと心の中で循環させ続けることになります。

もしも思い当たることがあると感じる場合には、次の三つの意識をよく見つめて理解し、受け止めてあげることです。

1.期待に応えたい意識
2.期待に応えられないと思っている意識→駄目な自分
3.期待に反することを止める意識→感覚麻痺、頭を真っ白、喉を詰まらす

そしてそれらの意識は、自分そのものではなくて、受け止めてあげるべき対象であるということがはっきり分かるようになれば、そこから脱出することができるようになるはずです。

『私とは本当に何かを見る会』

私たちが自分が想像した物語の中で生活していることは以前にも書きました。住み慣れた街の道路や公園、家族や友人たち、生まれてから今に至るまでに起きた様々な出来事。

たとえ、UFOが現れて、その中から宇宙人たちがやってこようと、彼らもその物語の一部であることには変わりありません。

誰かの寿命が尽きて去っていくことも、そして自分自身がいずれそうなることさえも、この物語の中での出来事に過ぎません。

自分が一個人として、一人の人物としてこの人生を生きているつもりになっている限りにおいては、この物語から抜けることはありません。

しかし、ひとたび本当の自分、真の自己としての純粋な意識からこの世界を眺めるとき、明らかに物語から外れてそれを見ていることに気づくことになるのです。

その意識にとっては、あらゆるモノや出来事がすべて自己の内側にあることを知っています。その物語の中でどんなことが起きていようと、その自己に影響を与えることはありません。

気づきとしての真の自己にとっては、あらゆるものが対象物としてあるのではなく、それ自身が身につける外観であるということ。

それはまさに宇宙規模の愛であるということができます。そこには、個人的な欲望も恐れも何もありません。マインドの申し子である思考や感情すらありません。

何一つないということこそが、完全なる救いであり、それに到達することは不可能なのです。なぜなら、真の自己とはそれ自体であるからです。

こうしたことは、言葉の上では観念なのですが、ダグラス・ハーディングさんの考案した実験によって、一瞬にして誰もが真の自己に気づく体験をすることができます。

10月29日(土)に『私とは本当に何かを見る会』を開催し、実験を通してそのことをみなさんと分かち合いたいと思っています。参加ご希望の方は、HPのセミナー・講座等のページをご覧下さい。

人生は往復運動

私たちは少しでも自分の人生をよりよい方向へと向かわそうとして頑張るのです。そして、頑張って成果を出せた人は希望のものを手に入れられるかもしれません。

それはとても嬉しいひと時ですね。今までの努力が報われたという思いが来て、頑張り続けて本当によかったと思うものです。

どこかのスポーツメーカーのコマーシャルにもありましたが、「すべての汗は報われる」というちょっと感動的な言葉があったと思います。

ところが、人生はいいことばかりが続くわけではありませんね。山あれば谷ありで、いろいろな事でつまづいてしまうことも起きてきます。

そこがまた我慢のしどころということで、やけになったり落ち込んだりせずに、また前を向いて目標を叶えるために立ち上がるのです。

そんなに立派な志しを持った人ばかりではないかもしれませんが、でもそれが理想とされていることは確かだと思います。

そうしてまた谷から山へと登っていくことができます。今度はもっとすばらしいことがきっとあるに違いないと期待するのです。

そしてまた、谷を迎えることになります。残念ながら、人生とはこの山と谷の往復運動であるとも言えるのです。

それは決して終わることがありません。勿論人生の最期を山と見るのか谷と見るのかは人それぞれかもしれませんが、いずれにしてもそれで終止符が打たれてしまうのです。

自分を個人と同一視している限りは、この運動を止めることは不可能なことです。しかし、そこからまったく違う意識に戻ることもできると歴史上の賢人たちは教えています。

私の残り少ない人生をそのことの探求にのみ使いたいと心から思うのです。

完璧な舞台装置

私たちは自分で作り上げた物語ばかりに熱心で、その舞台装置の完璧さに気づいていない。もしも、少しでも気づくことができると感謝で胸がいっぱいになる。

以前、初めてダグラス・ハーディングさんの本を読んだときに、その感覚がやってきてびっくりしたのを覚えている。

クルマを運転していて、流れる外の景色や他のクルマや通行人たちをながめているときに、はっきりとこれすべてがプレゼントだという実感がやってきた。

そのときは、しばらくその感覚が続いたが、結局いつまでも続くことはなくとても残念な思いをしたものだ。

それは私たちのマインドがそこに気づかないように、物語の方に巻き込まれていくようにと常に促してくるからだ。

それが思考であり、感情だ。思考は常に洪水のように押し寄せてきては、この完璧な舞台装置に目がいかないようにしてくる。

このことに気づいたときに、まずあらゆる体験が邪魔していると感じた。それは何もしないでいるときのほうが、確実にあの感覚に近づいていることができるからだ。

しかし、実際は体験が悪いわけではない。物語の中でその体験を作っては巻き込んで行こうとするマインドのなせる業なのだ。

だから練習次第では、どんな体験をしていても完璧な舞台装置に気づいていることができるようになるはずだ。

そしていずれは、その完璧な舞台装置こそ本当の自己なのだと気づくことになる。いや舞台装置を生み出している源泉だと分かるはずなのだ。