意識とは自覚しているということ

あらゆる動物や人間の赤ちゃんは、無意識の状態で生きています。これは、動物に限らず植物や鉱物にも当てはまることなのです。

ところが、人間だけが2~3歳くらいのときに、周りからの刷り込みによって、どうやら自分というものがここにいるという思いを持つようになるのです。

それは、自分を身体と同化することによって起こるのです。身体を自分だと信じ込むことは、人類が作ったこの世界の中では、誰もが通過する儀式なのです。

身体は非常に分かりやすい対象ですから、それと同化することによって、ここに自分がいるという自覚が出来上がるのです。それがきっかけとなって、我々人間だけに意識というものが起こるのです。

つまり、意識とは自分がここにいるという自覚なのです。自分を身体と同化させたあと、私たちはより自分を深く自覚するために、マインドと自分を同化するようになるのです。

そうやって、外側でも内側でも自分がここにいるという自覚を常に持てるようになるわけです。それこそが、私たちが意識と呼ぶものに違いありません。

これは無意識ばかりだった地球上においては、まさに奇跡的なことが起こったと言えるわけで、これ以上画期的なことは他にないかもしれません。

ところが、意識を得ることはできたのですが、固体としての自分を本当の自分と思い込んでしまったために、あらゆる苦しみがやってくることになってしまったのです。

これは、科学的に見れば当然のことだということが分かります。固体、個人というのは本当に危うい存在だし、自分を守らなければならない危険な状態なのです。

けれども、私たち人間が意識を手に入れた理由は、このまま苦しい人生を生きるためではありません。すべての無意識を意識に変えて、自分の真実に気づくためなのです。

意識を手に入れるために被った代償はとても大きいものだったのですが、ここからもっともっと意識的になっていくことができるなら、意識を持ったまま私たちの本当の姿に気づくことができるのです。

それこそが、生まれてきた本当の理由です。誰もがそのチャンスを持って生まれてきているのですね。

意識的に死にゆく

事故死などの特別な場合を除いて、怪我や病気などで人が亡くなる前には、いわゆる危篤状態というものになりますね。まもなく死が必ずやってくる状態です。

そのときに、死にゆく人の意識があるのかないのかは定かではありませんが、本当に死ぬときには大抵が無意識となるはずです。そういう意味からすれば、危篤状態とは意識がなくなっている状態を言うと考えてもいいかもしれません。

なぜ、人が死にゆくときには意識がなくなってしまうのか、本当のところは分かりませんが、生きている間に鍛錬をして意識的に死にゆくことができるなら、それはとても稀有な体験となるはずです。

自分の身体が死んでいくのを、意識的に見ていることができるのですから。そして、これは聞いた話ですが、意識的に死んで行けた人は、次の人生を始めるときにもすべての記憶を持ったままであるということです。

つまり、一般的には輪廻の際にはそれまでの人生の記憶を失くした状態で、生まれ変わるというのがごく普通なのですが、意識的に亡くなった場合には、意識的に生まれることができるというわけです。

真偽のほどは分かりませんが、ソクラテスは毒殺されたことになっていますが、そのときに自分が死にゆく状態を克明に周りの者に話したそうです。

だから、意識的に死んでいった人はいるのです。そして、これも聞いた話しですが、意識的に生まれ変わることができた人は、その生において覚醒することが約束されているということです。

それは当然そういうことになると想像できますね。なぜなら、人生のからくりを知りつつ生まれてくるわけですから、同じようなことを繰り返さずに人生から脱出することができるのです。

死にゆくときに意識的であるためには、夜寝入るときに意識的でなければならないでしょうね。純粋な意識というのは、寝ることはありませんので、意識と思考を分離することができるなら、眠りが訪れても意識を失くさずにいることは可能なのです。

そんな練習を気がつけばもう半年もやっているのですが、なかなか難しいですね。意識をなくして、ぐっすり眠りたい自分が強くいるようです。

でもいつか、できるようになれればいいなと思って、今日も眠りにつくことにします。みなさんは、こんな馬鹿げたことは、真似しないで下さいね。

問題の源は自分自身

誰であれ、今現在の自分を基準にして、いろいろなことを考えているのです。そして、解決しなければならない問題がいくつかあって、それをどうしたら解決できるだろうと真剣に考えるのです。

けれども、実はその問題というのはこれまであなたが生きてきたその結果として、生み出されたものだということに気づかねばなりません。

あなたが抱えている問題は、偶然にそれが出来上がったわけではないということです。当然の結果として、起きるべくして起きてきた問題なのです。

したがって、まず初めに考えねばならないことは、問題自体を眺めるのではなく、これまで生きてきた自分の生き方や考え方、そういったものを点検することが必須なのです。

その際に、人間というのは都合よく自分を見る習慣を持っているので、公平な目を持って点検することがとても難しいのです。

自分に正直に自分を見ることのできる人であれば、自分一人でうまく点検することができるかもしれませんが、最も的確なのは第三者というか、専門家に自分のことをさらけ出して見てもらうことです。

あなたの生き方や考え方、独自の正しさなどをクールに見てもらうことができれば、それが問題解決に対する一番の近道になるのは間違いありません。

そして、問題を解決しようとダイレクトにするのではなく、その大元となった自分自身を癒して行くことで問題は自然と解決するか、小さくなっていくことになるのです。

当然、見たくないものを見ることになるはずですが、その苦しみを避けて通ることはできません。痛みを伴うことを覚悟すれば、恐れは小さくなっていき、直面すれば恐れは消えて行くものです。

そこにこそ、大きな成長があるのですね。

思考の虜にならない

私たちが普段、如何に思考に囚われているかということについて、少し書いてみようと思いますね。

仮に、あなたの目の前に一本の白いバラと、もう一本の赤いバラがあるとします。この白いバラと赤いバラの色が違うことは、誰にでも分かる当たり前の事実ですね。

けれども、「この二本のバラの色は違う」と思った瞬間、それは思考なのです。いやいや、自分がそう思っても思わなくても、それは事実だと感じるはずですね。

しかし、同じとか違うということは比較であって、比較は思考の中でしかすることができないものです。思考の外にでたら、二つのバラの色が違うということは、消えてしまうのです。

勿論同じ色だというわけでもなく、ただそうした事実が消えるということです。もっと言えば、ここに二本のバラがあるということすら、思考によるものです。思考の外に出ると、バラというものが消えてしまうのですから。

こうしたことが分からないと、あるがままを見るということを本当には理解することができないことになるのです。

もしもあなたが、バラという言葉を使わなかったとしても、この花は何て綺麗なんだろう!と思った瞬間に、思考の中に入ったことになるのです。

その綺麗という感覚を、そのままにハートで感じているだけであれば問題ないのですが、綺麗だと思った瞬間、ハートからマインドへと移ってしまうということです。

たとえば、今あなたの周りにあるものを、ただただ見てみて下さい。もしもあなたが部屋の中にいるのなら、壁があったり、机やベッドなどが見えるでしょう。

けれども、そのように一旦確認してしまえば、もうすでに思考の虜になっていることになるのです。コツは、「ただ」見るのです。

その練習をすることです。ただし、ボーっとするということではありません。その逆に、見ている自分をしっかりと意識することです。

しつこい思考はそうやって、落としていくことができるのです。その先には、何も無さである虚空としての自己があるのですね。

じっと自分を見る

普段やっている瞑想とは違って、目を開けたままだったり、身体を横たえたりして、つまりもっと自由に自分を見るということをしていると、いろいろな気づきがやってきてくれます。

自分の身体を見て、身体からやってくる無数の感覚を見、マインドの中の思考を見、ハートにある感情や気分を見て、そういうきわだったものをまず見ていくのです。

そうしていくうちに、言葉では表現するのが難しい何らかのものが見えてきます。もちろん、見えるといっても知覚ではない何かで見ているのですが。

そうすると、まず間違いなく自分は身体では決してないということが、分かってきます。それはいつもよりも、より明確に分かるのです。自分は誰の目からも見ることのできない存在なのだということがはっきりするのです。

それなら、自分の身体を他人に見られても不快に感じる必要はないはずなのですが、それでもやはり他人が自分のことをこの身体と同一視して見ているということが分かるので、結局同じことになるのだということもわかりました。

また、じっと自分を見ていると、自分の本質が、自分が普段イメージしているような人物でもないということも感じることができます。無理に人物としての自分を見ようとすると、過去を紐解かなければならないことに気づくのです。

つまり、人物というものは、これまでの過去の体験から作り上げられたものであり、そのデータはパソコンで言えば外部記憶装置の中に蓄積されたものなのです。また、人物を作る上で身近な情報はより短時間にアクセスできるように、メインメモリ上に常駐してあるのです。

そのあたりは、本当にコンピューターと違わないのですね。だからこそ、ただただ自分を見ていれば、今この瞬間の自分だけが見えるわけで、そこには人物としての自分や人格のようなものまでないということがわかります。

思考を見ている自分は一体何だろうと見ていると、二つの場合があるのかもしれません。一つは、まだ思考によって見ているということ。残念ながら、ものすごく奥の方にも思考とは捉えられないような思考があるような気がするのです。

もしも、この思考さえも突き抜けて、自分を見ることができるなら、そのときこそは、自分を見ていることが自分に戻ってきて、それから先がなくなるのです。それは表現することのできない、純粋な何かです。それこそが、本当の自分の姿なのですね。

いつもそこまで見通すことができるようになれたらいいのですが…。

見られる居心地の悪さ

小学一年生のときのことです。近所の友達と自宅で遊んでいたときに、急に気分が悪くなって、どうしようもなくてトイレに行こうとしている途中の廊下で、吐いてしまったことがありました。

ちょうどそのときに、母親は留守だったのでその友達が彼の親に言いに行ってくれて、後始末などをしてくれたのです。その後、親が帰って来るまでのことは忘れてしまったのですが、一つ覚えていることがあるのです。

それは、その頃母親が留守にすることが多くて、心のどこかで寂しい想いをしていたのだろうということです。勿論それを口に出したことはありませんでしたが。

親が帰ってきた後、行きつけの医者のところに行くと、虫垂炎(そのころは盲腸と呼んでいました)と診断され、その日のうちに手術ということになったのです。

その夜遅く、少し大きめの病院へと父親のクルマで連れて行かれたのです。クルマの中から、窓の外に路面電車(昭和の匂いがしますね)の線路が鈍く光っていたのをよく覚えています。

内心寂しかった自分は、一週間の入院生活を通して、ずっと母親と一緒にいることができたので、結果希望が叶ったわけなのですが、病室ではそれほど満足していませんでした。

その逆に、ベッドに寝たままの自分は母親に対して、そばに寄るなとか、音を立てるなとか、意味不明のことを叫んでいたのを覚えています。

今思うと、その不満は心配の目でじっと見られることの苦しみを訴えていたのではないかという気がするのです。普段言えなかった鬱憤をその時に爆発させていたとも言えますね。

虫垂炎になったのは、明らかに問題行動だと言えます。それによって、日頃密かに感じていた不満を訴えようとしたのでしょうが、それが仇となって、見られることの苦痛を味わうことになったのです。

そしてなかなかしぶといと言わざるを得ないのですが、いまだに誰かに見られることが苦手なのです。相手からの好意の視線でもダメなのです。

その視線の力に、あたかも自分の自由が奪われてしまうという感覚がいつまでも残っているのです。最近それを強く感じているので、自分の中でしっかりその居心地の悪さ、恐怖を見てみようと思っています。

弱さと繊細さ

敏感な体質で生まれた子供は、何かと否定的な言葉で揶揄されることが多いものです。特に、それが男の子の場合にはひどくなる傾向があります。

たとえば、泣き虫だとか、弱虫、痛がり、怖がり、意気地なしなど、家族の中でも末っ子だったりすると、そうした蔑みの言葉は更に増すのです。

こうした表現をされるのには、それなりの理由があるわけですが、それは決して本人が弱いからではなく、繊細だからなのです。

弱さと繊細さは往々にして一緒くたにされてしまいがちですね。繊細さとは、脆さのようにも見えてしまうので、どうしても弱い者として烙印を押されてしまうのです。

そうなると、当の本人は元々幼くて非力であり、大人や目上の兄弟からすれば無力なわけですから、周りからのそうした否定的な、あるいはバカにしたような態度にやられてしまうのです。

そして、きっと自分は弱虫でダメな情けない奴なんだと信じ込んでしまうのです。更に、繊細な子供は他人の気持ちを敏感にキャッチする能力が高いので、相手の心の状態をいつも気にすることになるのです。

そのために、どうしても「ノー」が言いづらいという状況が起きてくるのです。相手の期待に応えてあげて、嫌な気持ちにさせたくないという思いから、服従の「イエス」が起きてくるのです。

本人としては、それでなくても自分は弱い奴なんだと思い込んでいるところに、相手にはっきりと言いたいことを言えない自分に対して、更なるダメ出しをするようになってしまうのです。

成長して、自分を客観的に見ることができるようになれば、理性では自分は別にダメではないはず、ということに気づくようにはなるのですが、幼い頃の自己否定は厳然と残ったままなのです。

そして、大人の自己肯定感と子供の頃の自己否定感が共存し、ほとんどの場合に自己否定感が圧勝することになるのです。

だから本人は、自分はダメじゃないという証明をするための人生を生きるようになってしまうのです。その生き方は明らかに不毛ですね。

なぜなら、本当は自分はダメではないからです。そして、頑張って頑張ってどれほどの成果を上げることができたとしても、かつての自己否定感は消えることがありません。

だから、癒しが必要となるのです。癒しのプロセスによって、間違った過去の自分への思い込みを小さくすることで、生き方が自然と変化するはずです。

もしも思い当たるようなことがあれば、自分で癒しを進めて行くか、セラピストの力を借りることをお勧めします。

人との関わりについて

ほとんどの人が、自分以外の誰かとの関わりの中で生きています。この社会の一員として生活しているということです。

どこかの山奥にでも独りで籠って、世間と断絶した生活をするのでない限りは、どんな仕事をしようと、どんな毎日を生きようとも、誰かとの関わりがそこにはありますね。

ただ、その関わり方にはいろいろあるわけで、私のように深い関わりを持たずに生きている人もいるでしょうし、その逆に何にでも首を突っ込んで、深く関わろうとする人もいるはずです。

私はこの仕事をするようになる前まで、ほとんど自分のことしか見ていませんでした。自分に都合の悪い人たちとは関わらないようにしていたということです。

自分が我慢をしてまで、誰かと一緒にいたくないとずっと思ってきたからです。だから、いわゆる人間関係というもので困ったという経験がなかったのです。

それは当然ですね、困らないように、面倒なことに巻き込まれたりしないように気を付けて、苦しむような関係を作らないようにしていたのですから。

だからこそ、セラピストになって多くのクライアントさんから、人間関係について困っているというお話を聞いて、本当にびっくりしたのです。

最初に感じた正直な想いは、いやならその関係をやめてしまえばいいのに、でした。勿論、このシンプルさは今でも大事だと思っています。

ただし、やめてばかりでは、いつまでたっても人との関わりの中から大切なものを受け取るという体験ができなくなってしまうということにも気づきました。

誰とでも深く関わってしまう人は、それだけ葛藤を抱えたり、人との軋轢の中で苦しんだりすることが多くなるのは事実ですね。

けれども、そうしたことも一つの体験としては貴重であって、決して間違ったことではないと感じるようになったのです。

クライアントさんから、どんな話しをお聞きしても、根本的なところでは決して間違ってはいないということが分かるのです。

何でもやり過ぎれば、生がそれを正してくれます。自然とほどほどのところに戻されるものです。私のようにやらな過ぎでも、しっかりとほどほどのところへと持っていかれるのですから。

だから私は、今沢山の方々の人生を深いところまでご一緒に見る機会を与えてもらっているのだろうと思うのです。ありがたいことです!

存在への信頼

東日本を襲ったあの未曾有の大災害である3.11の後、日本人の意識が何となく変化したなあと感じているのは、私だけではないはずです。

起こるはずのない大事故が原発に起こり、誰もがあの災害は他人事ではないということを感じたからなのかもしれません。

私たちは、気づかぬうちに日頃は安全な場所で生活していると思い込んでいるのです。本当は、安全な生というものはありません。

いつでも危険と隣り合わせなのです。いつも死が生のすぐ近くにあるという事実を、自分のこととして体験することができたのだと思います。

極端な出来事、体験したくない惨(むご)たらしいこと、そういった災難というものは、いつも大切な気づきを与えてくれるのです。

誰もが、できることならいやなことに遭遇したくない、酷い目には遭いたくないと思っているのですが、起きることは起きるという意識をより養うことが必要なのでしょう。

素敵な osho の言葉を見つけましたので、プレゼントします…

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存在は、どんな個人よりも賢い。なぜなら、個人が持っているのは小さな意識だからだ。たとえ光明を得ていたとしても、彼はやはり広大な存在の海の中のほんの一滴に過ぎない。

だから、存在が感じていることが正しいのだ。もし存在がアルヒラジ・マンスールが殺されるべきだと感じているのだとしたら、それが正しい。

もし存在が、イエスは十字架に架けられるべきだと感じているのだとしたら、それが正しいのだ。

信頼とは、何が起ころうとも、喜びに満ち、いやいやながらではなく、しぶしぶではなく――そうだったら、要点の全てを見逃している――そうではなく、踊りながら、歌と共に、笑いと共に、愛を持って、起こることと共にあるということだ。起こることは全て、何かのためだ。

存在には間違えようがない。もし存在が私たちの願望を満たさないのなら、それはただ、私たちの願望が間違っていたということだ。

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無意識に感情を抑圧する

私たちは、幼い頃から無意識的に自分にとって都合の悪い感情から逃れようとする習性のようなものを持っています。

生きていれば、誰でも感じる恐怖や怒り、罪悪感や孤独感など、こうしたいわゆるネガティブな感情は必ずやってくるものです。

幼い無防備なころは、それへの対処法を知らないために、直接そういった感情を味わうことになるのですが、何度か経験をするうちに、防衛力が養われてくるのです。

そうすると、自分でも気づかぬうちにネガティブな感情を抑圧する術を学んで行くことになるのです。その方法は、それこそ無数にあるのかもしれません。

そのうちの代表的なものとしては、マインド(思考)を活発にすることで、つまり理屈をあれこれと考えることで、感情を抑えてしまうという方法がありますね。

そのほかにも、何か熱心に打ち込むものに意識を集中する方法、気を逸らすという意味ではいろいろなバリエーションがあるでしょう。

また、自分を責める、つまり自己否定感を作り出すことで、他のあらゆる感情が出て来れないようにするといった凄い技もありますね。

子供の頃に作ったこうした防衛策は、大人になってもそのまま使い続けている場合がとても多いのです。あなたはどんな方法を持っていますか?

自分が日頃無意識に続けている防衛策にまず気づくことが先決ですね。その上で、そうした防衛を少しずつ手放していくことで多くの問題が解決していくものです。

心当たりがあるなら、是非チャレンジしてみることをお勧めします。