あるがままが美しい

以前セッションの中で、よく信頼について話す機会があったのを思い出しました。セミナーやこのブログでも、信じることと信頼とはまったく違うということを言ってきたと思います。

誰かを信じるという場合には、信じる対象となる人の方に、信じるに足る何かがあるのです。しかも、自分にとってその人は信用できるということですね。

だから、他の人にとってはその人はもしかしたら信用することができないということだってあるかもしれません。つまり、信用するためにはそれなりの理由があるということです。

一方、信頼というのは対象となる人が持っている属性ではないのです。信頼する主体側の何かなのです。対象となる人に何か説明できる信頼の要素など必要ありません。

というよりも、信頼にはこれといった理由や原因となるものもないのです。だからこそ、言葉で信頼について上手に説明することが難しいのですね。

私の個人的な体験として言えることでしかないのですが、この仕事をするようになって初めて、私はどうやら人を信頼するという経験ができるようになったのではないかと思うのです。

私のどこかで、クライアントさんに対して信頼しているところがあるのです。当初ははっきりとは気づけていなかったのですが、今ならよく分かるのです。

出来る限り、その人のあるがままの姿を見ようとすると、それに伴ってその人への信頼が湧き上がってくるように感じるのです。だから、信頼にはどんな努力も必要ありません。

あるがままがどんなものであろうとも、そのあるがままということ自体が素晴らしいという思いがあり、それが信頼と結びついているような気がするのです。

本当にあるがままの姿というのは、人を感動させる何かを持っているし、それはこちらの心構えによって見えて来るものなのですね。

思考は今と関われない

あなたは今この瞬間、自分自身の状態に気づいているでしょうか?たとえば、今どんな気持ちでいるのか、あるいはどんな感情を感じているのか、またどんな気分でいるのか?などです。

もしもこうしたことに、しっかりと気づいていないとしたら、それは意識的ではないということ、つまりほとんど無意識で生きているということになってしまいますね。

それは、人間で言えば赤ちゃんや幼児と同じですし、動物と同じだと言ってもいいのです。あなたが今生でどんな人生を送ろうと、動物に生まれ変わるということはあり得ません。

けれども、人間として生まれて来て、あたかも動物のように自分に対して無意識的に生きているということはいくらでもあり得るということです。

人間である証しとは、何はなくとも意識的であるということに尽きるのです。セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、自分の怒りにほとんど気づかずに生活している人もいます。

人から何かを言われても、そのときには何も感じずにいて、一晩経ってからようやく、自分は腹が立っていたのだと気づくということだってあるのです。

常に今の自分に意識を向け続けることができたら、無意識的な生き方から脱却することができるのです。街を歩いているなら、歩いていることに注意を向けるということです。

誰かと会話を楽しんでいるなら、会話を楽しんでいる自分に意識を向けているということです。これは、実は簡単なようでいて、なかなかどうして難しいことなのです。

なぜなら、私たちのマインドというのは決して今にいることができないからです。常に、過去や未来へと飛んで行ってしまっているのですから。

マインドに今現在を知ることは不可能なことなのです。このことは、何度でも自分に思い知らせる必要がありますね。言葉を変えれば、思考は今と関わることができないのです。

いつも、あなたの身体の様子、身体からやってくる感覚、自分の気持ち、感情、気分、そうしたことをありのままに気づいていることです。

あなたが注意深くいることができるなら、もう自分を騙すこともできなくなり、自分に対して正直でいるように自然となって行くのです。

へそ曲がりの場合

ピンチはチャンスと言う言葉がありますね。私自身も癌を患うことをきっかけとして、人生の生き方が大きく変化したという経験があります。

人間は、ともすると楽な方へと近づきがちなのですが、たまに苦しみがやってきたり、困った事態に陥ると、それをテコにして大切な気づきを得ることができたりするのです。

私たちが自分と身体を同一視してしまっているということは、このブログで何度も書いてきました。そのために、身体の痛みを自分自身が痛い思いをしていると、見てしまうのです。

そこから脱却するためには、自分と身体の間にすき間を見出すことが必要なのです。そして、身体が気持ちいいときには、その身体と一体となっていたいと思うし、身体が苦しいときには反対に身体から逃れたいと思うものですね。

そのために、ある賢者に言わせると、身体の苦痛を感じている時のほうが、はるかに身体との間にすき間を見つけるチャンスがあるということです。これこそが、ピンチはチャンスということですね。

確かにそうなのだろうとは思うのですが、どういうわけかへそ曲がりの私の場合には、実際真逆の状態になっていることを感じています。

つまり、身体の苦痛を感じているときには、その苦しみと一体化してしまう傾向が強くて、反対に身体が気持ちいい状態の時の方が、その快感をただ見ている自分がいると分かるのです。

例えば、何とも気持ちのいいマッサージを受けている時、その快感を全身で感じていればいいはずなのに、そのマッサージを受けていない自分がいると分かるのです。

ただそれを見ている自分を強く感じることができるのです。もしも、それと同じことが苦痛のさなかに感じることができるなら、きっと身体の苦痛は半減してしまうかもしれません。

思ったようにはいかないのが、現実というものですね。それでも、勿論めげずに「ただ見ていること」の実践を続けて行くのみです。これこそが、禅なのですね。

どちらを選んでもOK

人生を長く生きていれば、必ずや大切な人生の分岐点のようなものに差し掛かることがありますね。一体どちらを選んだらいいのだろうかと、深く思い悩むこともあるはずです。

セッションでどちらを選択すべきでしょうか?と問われることも時々はありますが、そんな時私は正直にどちらでもいいのですとお答えします。

これはいい加減でも不正直に答えているわけでもありません。心からそう思っているからそのように答えるのです。なぜなら、私たちが心豊かに生きて行けるかどうかは、岐路においてどちらを選ぶかということには関わっていないからです。

外側で起きる様々な事象というものは、確かに嬉しいことがあれば辛いこともやってきます。でもそうしたことは、いつでも一過性のものと決まっているのです。

決して永遠なものというのはありません。一瞬だけは、外側で起きている事柄に影響させられてしまうことがあっても、早晩そういったものは消えてなくなることになっているのです。

もしもその影響が消えずに残るとしたら、それはあなた自身がその傷に執着していることがすべての原因だと理解することですね。

結局、分岐点においてあなたの人生がどちらを進むことになったとしても、あなたにとって最も大切なことは少しも影響されることはないのです。

それはあなたの内側にこそあるからです。もしもあなたが、あなたの内側により深く入って行くなら、それだけ周りの影響を受けにくくなっていくはずです。

あなたの奥深くでくつろぎ、安らぐ場所があると分かれば、それだけで大変な救いになると分かるはずです。そして、人物にあった自分の中心が、奥深くへと移って来るのです。

人物としてのあなたは、次第に自分の表層に過ぎないということが分かって来るのです。そうなったら、真に深刻になることはもはや不可能なこととなるのです。

あとは、人物としてのあなたが生きる人生を、できるだけ物語として楽しめばいいのです。

内側での戯れ

私たちは、誰もが自分は独りだということを知っています。それは必ずしも孤独であるということではありません。ただ単に独りであるということです。

外側の世界に目を向ければ、そこには大勢の人々がいるし、様々なモノが溢れていて、そこに目をやっている限りは自分はみんなと共に生きていると感じることができるのです。

けれども、ひとたび内側へと目を向ければ、そこには自分以外の誰もいないことは明白です。私たちは、何と不思議な内側を持っているのでしょうか?

もっと不思議なことがあるのですが、それは誰もが自分の内側について本当の意味では知らずにいるということです。自分のことを内側から見るということに、慣れていないのです。

たとえばセッションの中で、他人に対してはっきり「ノー!」と言えないのであれば、その理由は何だと思いますか?というこんなシンプルな質問についても、よく分からないと答える人もいます。

あまりにも自分のことを知らずに生きているとしか言いようがありません。もっともっと自分に興味を持ってもいいはずなのに、自分そのものへの興味の代わりに、自分が外側からどう見えるのかということに強い関心を持っているのです。

そのことも不思議なことと言えばそう言えるかもしれませんね。ずっと以前から私の中で非常に不思議なこととして、解決できずにいたことがあったのです。

それは、自分自身に興味を抱いている人と、そうでない人の二種類の人々がいるということです。自分の内側、自分の本質を深く探っていきたいという欲求がないことが、不思議なのです。

私があまり他人に興味を示さない人生を生きてきたのは、他人の内側を探求することができないからです。それは自分にしか当てはまらないことなのですね。

どれほど愛している人のことであっても、自分の内側を見るようには相手の内面を見ることはできません。それは、類推できるというレベルが限度なのです。

だからやはり、探求のターゲットは自分に限られてしまうのです。そして、内側を見ようとすると、そこは果てしなく広大な宇宙のような気がしてきます。

宇宙と違って、内側には無限の深みを感じることができます。そこには一体何が在るのか?自分は本当にそこにいるのか?いるとしたら、どんなものなのか?

今までのところ、私の探求結果としては、私の内側には誰もいないということです。内側でのこうした遊びが好きだったことは、とてもラッキーでした。

この遊びはお金も労力もいらないし、遊びながら深く寛げる自分だけのスペースを見つけることもできて、本当にお勧めなのです。

執着は手放せない

この仕事を始める少し前の頃に、あるワークショップで「執着を手放すワーク」というものをやらされたことがあったのですが、講師の人に言われるがままに挑戦したものの、まったく効果がありませんでした。

そもそもが、そんなことで自分の執着がなくなるなどとは思えなかったし、個人的には執着があることにそれほどの否定感を持ってもいなかったのです。

執着があるなら、執着があるがままにさせておこうくらいに内心思っていたからです。今から思い返すと、それは間違ってはいなかったと分かるのです。

私たちが嵌ってしまう最も典型的な間違いの一つは、自分の意志で執着を手放そうとすることだからです。昔から、「見つめるものは拡大する」という言葉があるのです。

この場合の見つめるとは、都合の悪いこと、身体の痛みや気になること、こうしたものを無くしてしまいたい、何とかできないものか、という思いで見つめているということです。

だからこそ、その対象となるものが拡大するのです。拡大するとは、それにエネルギーを与えてしまうことになるということです。人はこの悪循環になかなか気づかないでいるのです。

闘う人はいつか必ず負けることになるということと同じことですね。闘うという行為そのものが、相手に存在感を与えて、より手ごわい相手へと成長させることになるからです。

あなたが、心の底からもうそれはいらない!と思えたものは、どんな努力もなしにすぐに捨てることができるのです。手放すとは、そういうことを言うのですね。

それは自然にやってくるのです。あなたが手放したいと思っている対象に意識を向ければ向けるほど、あなたはそれを保護することになると気づかねばなりません。

執着という結果を見る代わりに、その元となる暗闇にただ光を当てることによって、それは自然と消えて行くことになるはずです。

生まれ変わる先は?

よく言われることですが、子供は親を選んで生まれて来るというのがありますね。それを聞いて、とんでもない、こんな親を自分が選ぶはずがないと反論したいという人もいるでしょう。

誰が好き好んでこんな理不尽な人生を選ぶんだ!と怒りを感じる場合もあると思います。子供の側からすれば、親の悪いところばかり似てしまって、本当にいやになってしまうと愚痴りたくなるかもしれません。

一体全体本当のところはどうなっているのでしょうか?あらゆることは偶然なのでしょうか?それとも、やはり何かの力が働いてどの家庭に生まれるかが決定してしまうのでしょうか?

誰も本当のことは分かりませんね。とはいうものの、実際の過去生退行のセッションによって少しは類推できることもあるのです。

それは、セッションの中で見えたいくつかの過去世での当人が抱えていた問題と、現在のご本人の抱えている問題が非常に類似しているということが多いのです。

それは偶然とか、たまたまそうなったというには、かなり無理があると思えるのです。生まれ変わって来る当人は、意識がないので意志を持って子宮を選択するということではないかもしれません。

それでも、いわゆるその魂なるものが、まったく異なるエネルギー、相容れない傾向の子宮に入れるはずはないと考えるのが妥当のようです。

つまり、子供が遺伝子をもらった親に似るというのは結果としてそう見えるだけで、実は元々その親のマインドレベルが自分のそれに近いものだったから、その子宮に入ることになった、と考える方が無理がありません。

あなたが一つ前の過去世において、どんな生き方、どんな人生を送って来たか、どんな思いを残して死を迎えたかということが、次なる子宮が選ばれる最大の要因となるわけです。

今回の人生で、あなたが闘いながら死んで行くなら、次の人生でも同じように戦わねばならない苦しい人生が待ち受けているということですね。

あるいは、今生においてなるべく戦わず無防備に、最大限の意識を持ちつつ生きて死ぬなら、次の生では更にそれが花開くすばらしいものへとなるはずです。

死は不可能なこと

今年もあと半月ほどを残すだけとなりましたね。あっという間に年が明けて、来年がスタートし、きっと今年よりも更に走り去るように一年が過ぎて行くのでしょうね。

すぐに死がやってくるなと最近よく思うのです。それは別に否定的に思っているわけではありませんが、とにかく肉体的に残された時間内で、必ずやってくる死をどう見るようになるかが自分の中での最大の関心事なのです。

それほどの年寄でもないのに、変なことを考えている超ネガティブな人もいるものだと思われても仕方がないかもしれませんね。

けれども、人はどう生きるかという以前に、どう死ぬかということが大切なのだということがやっとわかってきたのです。そして、生きている間にこそ、死について真剣に向き合うことができて初めて、本当に生きることができるのだと分かってきたのです。

生きている間に死に直面するためには、瞑想するしか方法はありません。瞑想とは、これが私だと思っている人物を消滅させることだからです。

それは勿論力づくでやることではなく、自我が自然とそして自ずから落ちて行くところまで、瞑想し続けて行くことですね。

そして、完全に落ちないまでも、意識をもって無意識を照らし続けて、自分への注意を怠ることなく続けて行くことができるなら、意識的に死を迎えることができるかもしれません。

その時にこそ、私たちは死というものはそもそもが不可能なことなのだということに気づくということです。肉体は古くなれば、服と同じように新しいものに着替えるように、肉体も着替える必要があるだけです。

在るものは在る、ただそれだけなのです。

催眠療法のこと

一口に催眠療法(ヒプノセラピー)と言っても、大きく分けて暗示療法的なものと退行催眠との二つに分類されます。暗示療法というのは、ご存じのとおり、催眠状態において暗示を与えてある問題を解決するというものです。

私の経験では、例えば飛行機に乗るときに、非常に緊張してしまって旅行が台無しになってしまうので、それを何とかしたいというものとか、学生になっても学校で行われる注射が怖くて、激しい心労に見舞われるなど…。

それぞれに、ご本人でないと本当の苦しみは分からないような、繊細な問題が多いのです。催眠状態において繰り返し暗示を与えることで、それが潜在意識の中にある程度浸透していくのです。

そうやって、一時的に症状を緩和することによって、実体験でいい印象を持つと、次第に自信がついていき、結果として問題を克服できるようになるということです。

一方、退行催眠については、年齢退行と過去生(前世)退行という二種類があります。年齢退行は、今生の過去に時間を戻して再体験するのです。

そして勿論過去世退行の方は、いわゆるあなたの魂と呼ばれるものが生きた、過去の人生を再体験するというものです。

どちらも、キーとなるのは単に思い出すというよりは、再体験するということ。この違いを理解して欲しいのです。つまり、思い出すのは現在の自分が過去の記憶を思い出すということであり、再体験とは今の自分が過去の自分になったうえで、その時代の生を再体験するということです。

なぜそんなことができるのかというと、実はあなたのマインドの中にはその時々のあなたがそのまま残っているのです。あなたが何をしたかという記憶だけでなく、その時のあなた自身のマインド自体が残っていると思えばいいのです。

ただし、催眠状態になったとしても、あなたのマインドの中に、見てはいけないという強烈なブレーキがあるなら、それを乗り越えて過去を再体験することはできません。

たとえば、どうしても過去生を見たいと望んでいらっしゃるクライアントさんであっても、ご本人のマインドの奥深くにそれを見ることを許さないブレーキがあると、残念ながら見ることは叶わないのです。

単にうっすらと思い出すというレベルであれば、それほど問題なく見ることができるとしても、真に再体験するとなると、実は相当の覚悟が必要となります。

なぜなら、忘れて葬り去りたいと願っていた忌まわしい過去を再体験してしまうということもあるからです。あなたが、真の意味で過去生を再体験するなら、あなたはきっと死の恐怖から解放されることになるでしょうね。

不安から逃げない

セッションに訪れるクライアントさんの多くが、心の中に漠然とした不安を感じているのです。そして、その不安は物心がついたときからずっと続いているのです。

ある程度気楽な学生時代から、社会人になると、それなりの責任の重みを感じるようになって、より強い不安感を抱くようになってしまうという場合もあるでしょうね。

自分はそれほど不安を感じないで生きているという人もいるかもしれませんが、実はそういう人の場合であっても心の奥には不安が必ず沈殿しているのです。

不安を強く感じるかどうかというのは、幼い頃に家庭内で安心させてもらうチャンスに恵まれたかどうかということが一つ大きく関わっているのも事実です。

しっかりと気持ちをうけとめてもらえていれば、自分という存在はこれでいいのだというドシッとした安心感を得ることもできるし、逆に何かと否定されたり気持ちを分かってもらえない状態が続けば、不安は増大するのです。

けれども、どんな境遇で育とうと、その人がどんな感覚で生きていようと、誰にも共通して不安はあるのです。その不安がどこからやってくるのかを理解すれば、その理由は明白です。

それは、全体として生まれてきたはずが、数年後には個人として生きて行く羽目になってしまうからです。幼い子供が、自分以外はすべて外側の世界だと認識してしまうのですから、それはとてつもなく不安になるはずなのです。

こうした存在の本質に関連した大元の不安と、より成長していく段階でやってくる種々の不安とがあり、私たちは自然とその不安から遠ざかりたいと思うようになり、つまり安心を求めるようになるのです。

そして、安心を求めれば求めるほど、間違いなく100%安心は遠のき、不安が居座ることになってしまうのです。なぜなら、不安を拒絶して安心にしがみつこうとする、そのエネルギー自体が不安そのものだからですね。

不安が消えるには、不安を敵対視せず、不安から遠ざかろうともせずに、不安の中にいてそれをしっかり感じることなのです。不安とともにいることを、そのままに受け止めれば不安は消えずとも小さくなっていくのです。

そしてあなたが、瞑想によって自分の本質へと近づくことができるなら、そこにはどんな不安も寄り付かなくなるはずなのです。不安を生み出す正体は、身体やマインドとの同化にあるからです。