私」という思考の特別さ

もしもあなたがテレビを見ていて、おいしそうなスウィーツの紹介をしているのを知って、そうだ、明日私もそれを買って食べることにしよう!と思い立ったとします。

その思い立った内容というのは、思考であるということは明白なことですね。きっかけが何であれ、そのことを考えたわけですから。

で、瞑想というのは、そうした様々な思考(雑念などとも言いますが)を落としていくことなのです。たとえ、そうした雑念が浮かんできたとしても、それに捉われないでいようとするわけです。

毎日コツコツと瞑想を続けて行くうちに、気が付くとそうした雑念が湧いてこなくなるようになります。そうなると、マインドの中は本当に静かになってくれますね。

ところが、そんな感じでマインドが静かになったとしても、そこにはやっぱり私がいるのです。「私」という思考だけは、しぶとく残ってしまうのです。

瞑想に究極の目的があるとするならば、その「私」という思考も落ちて行くことなのです。ではなぜ、「私」という思考はそれほどまでに他のどの思考とも違うのでしょうか?

これは、私自身が感じていることなので正しいかどうかは定かではないのですが、「私」という思考が作られたときには、まだそれが充分に言葉と繋がっていなかったからではないかと思うのです。

ご存じのように、通常思考というのは100%言葉と連携しています。私たちが思考するときには、間違いなく言葉を使っているという事実があるのです。

思考は言葉であり、言葉は思考なのです。ところが、「私」がでっち上げられる頃の人間の状態では、まだ言葉を上手に使いこなすレベルにまで成長していないのです。

それが、「私」という思考がそれ以外の思考との大きな違いなのだと思うのです。だからこそ、「私」という思考はただ考えているというような感覚とは異なるのですね。

どちらかというと、考えることというよりも、「私」がここにいるという感覚になってしまっているはずです。だから、思考が静かになるというレベルでは、「私」はなくならないのです。

こうなったら、「私」を根こそぎにするためには、すべての希望、あらゆる欲望を落とすしか方法はないようですね。「私」が一過性に消えるような体験では、ほとんど何の変化も起きません。

かえって、「私」の防衛が厳しくなってしまうように感じています。切ないですね~。