スマホの病院、初体験

二年前に事務所を移転してから、とても手狭になってしまったためにそれまで使っていたパソコンを置くスペースがなくなってしまい、クライアントさんからの予約のメールはスマホに頼るようになったのです。

そういうわけで、今の私にとってスマホは仕事に欠くことのできないアイテムとなったのです。メールの授受だけでなく、カレンダーの更新その他なんでもスマホが必要になったのです。

それがとても便利なだけに、不具合が生じたときの打撃はとても大きなものだろうというのは、想像にかたくなかったのですが、実は数日前にそれが現実となってしまいました。

OSに付属のメールアプリが立ち上がらなくなってしまったのです。そうなると、考えられるどんな手段を試してみたところで、どうにかなるものでもありません。

仕方なく、生まれてはじめてスマホの病院のようなところに行ってきました。OSを再インストすることでどうにか問題は解消できたのですが、治るまでのドキドキ感は結構なものがありましたね。

スマホの病院で待ち時間40分ですと伝えられて、その時間スマホでもいじって待っていればいいやと思ったのですが、そのスマホを持っていかれてしまったときには、何もすることがなく、さりとて瞑想するような気分でもなく。

自分が毎日いかにスマホに頼って生活しているのかが分かって、ちょっと面白かったですね。これだけ頼っているのですから、普段からもう少しスマホに対して感謝の念を伝えておくことも大切なのかなと思ったのです。

人は何か問題が生じたときに、初めてその大切さを身に染みて味わうことができますね。日ごろ、いろいろな人に、そしていろいろなものにも支えられて、生活ができているということを再確認できました。

スマホを治してくれたお兄さんにも、ありがとう!

「桁外れな何か」を見る

注意深く、今この瞬間をとらえようとしていると、それに比べて普段のごく当たり前の過ごし方が非常に粗いものだということが分かります。

粗いというのは、意識レベルが低いということです。とても雑に瞬間瞬間を生きているということが如実に分かってくるのです。ああ、勿体ないなあと。

そうやって反省するのですが、またすぐにいつもの自分に逆戻りしてしまうんですね。そこには、無限とも言える言い訳が横たわっているのです。

誰かと一緒にいなければならないし、仕事をしなければならないし、食事をしなければならないし、運動をしなければならない等々、いくらでも出て来るのです。

だからこそ、一人静かにいられるときには全力を上げて、今この瞬間にいられるようにしなければいけないということです。意識は、私たちが思っている以上にもっともっと鋭敏に研ぎ澄ますことができるのです。

身体のあらゆる感覚を感じつつ、マインドの動きを監視しつつ、周りからやってくるあらゆる音に耳を澄まし、自分の呼吸のリズムを体感し、虚空を見つめるのです。

そうすると、周囲に見えているものの奥底に、隠された何かを感じるようになるはずです。それは、大きさも位置も形もなく、ただ在るという桁外れな何かなのです。

そこが目立ってくるのです。目の前に実際に見えているものはそのままにして、ただ在る何かにしっかりと注意を向けていると、粗雑な意識から何とも精細な意識へと遷移します。

瞑想するのとは違う、こうした方法もたまにはいいですよ。興味があれば是非試してみて下さいね。

自分の中心が降りて行く

確定申告の季節がやってきました。毎年一回、書類を作るという慣れない作業をした後は、どうも調子がおかしくなってしまうのです。

きっと、普段使わない頭の回路を使うせいで、瞑想もあまり心地いいものにはならないようなのです。だから、こうしたことに毎日携わっている方が、もしも瞑想ができないという状態であっても当然だと感じます。

エンジニアとして会社で働いていた時には、頭が論理的なものにフィットしていて、少し難しい文章でもそれほど苦労することなく読むことができたはずなのです。

ところが、会社員を辞めてすでに15年が経ってしまった今、自分の頭が論理に向かなくなってきているのをヒシヒシと感じるのです。

ちょっとした文章でも、読んでも読んでも理解できなくなっていて唖然とさせられるのです。どんどん白痴のようになってきてしまったと感じます。

普通に生きていくには特別不自由はないはず?なのですが、以前と比べた場合にはちょっと自分でも驚いてしまいます。

ルシッドというのは、実は頭脳明晰という意味もあるのですが、名前負けしてしまっているんです。その分、ハートは以前と比べて随分と開いた感じは確かにありますね。

クライアントさんとお話ししていても、ご本人はニコニコしていたとしても、何かが伝わって来て思わず涙が出て来ることもあるくらいなので。何?って顔されてしまうのですが…。

思考からハートへ、そしてもっともっとハートが開けば、瞬時に真のセンターへと落ちて行くはずです。それはちょうどお臍の辺りにあるようですよ。

つまり、頭から胸へ、そして胸から下腹部へと自分の中心が降りて行くということです。どんどんバカになり、どんどん無邪気になり、無垢でしかも意識的な状態へと遷移するのが理想なんですね。

自己イメージを見直す

先日のブログで自己イメージについて書きました。どのようにして、自己イメージというものがでっち上げられるのかということについて書いたつもりです。

それは、自己イメージが他者によって勝手に作られたという事実が分かると、それに必要以上に囚われなくなっていくことができるからなのです。

ところで、あなたは自分の自己イメージについて、普段どれだけのことを把握しているでしょうか?あるいはどんなニュアンスを持っているのか、感じてみたことはあるでしょうか?

きっと多くの人が、何となく分かっているけれども、自己イメージについて深く探求してみたことはないのではないかと思うのです。

なぜなら、それは往々にして自分にとって都合の悪い、目を背けたくなるような自己イメージがあったりするからなのです。極端な場合、自己イメージから完全にソッポを向いている人だっているのです。

先日も書いたように、自己イメージというのは非常に理不尽とも言えるような、実体とはかけ離れたイメージを他者から与えられるものですので、できる限りその自己イメージを手放すことが得策なのです。

それは悪いイメージに限らず、たとえ善いイメージであったとしてもです。なぜなら、どちらにしても実在のあなたをありのままに表しているのではないからです。

そのためには、ソッポを向く代わりに、できるだけ自分に正直に内側にある自己イメージと向き合ってみることです。そして、箇条書きでもいいのでノートなどに書いてみるのです。

それがしっかりできた時点で、半分は終わっています。残りの半分は、その自分が書いた自己イメージを何度も繰り返して見て、客観視できるようになるまで続けるのです。

他人の自己イメージを見ているくらいにまでなれたら、もうそのときにはそんなくだらない自己イメージはもういらないという気持ちになっているはずです。

その結果、自然としつこく自分を縛ってきた偽りの自己イメージからめでたく解放されることになるはずです。そうしたらどうなるか?あなたは自分が何者でもないという真実に気づくことになるかもしれません。

それが本当の自由ですね。

教師と導師の違いは?

みなさんは、教師と導師の違いをご存じでしょうか?今この世界で教師は沢山いるものの、導師を捜すのは大変なことになるでしょうね。

最もシンプルに表現すると、教師とは知識を伝える人のことであり、導師とはその知識を手放すように導く人のことなのです。驚きましたか?

同じ「師」の字が使われているにも関わらず、実は両者は真反対のことをする人たちなのです。だから教師は溢れていますが、真の導師は見つけることがとても難しいのです。

教師のように知識を伝えるためには、彼自身が知識をより多く持つようになればいいわけですね。だから、教師は勉強して外側にある知識をできるだけ獲得する必要があるのです。

そしてその得た知識は、思考と言葉をフル活用することによって生徒たちに伝達するわけです。それは一般的な人同士のコミュニケーションと大差はありません。

一方、導師がしようとすることは、残念ながら思考と言葉を使っていては、実現することができません。だから、導師によってはひたすら沈黙している場合もあるかもしれません。

詰め込んでしまったガラクタのような知識が、真理を見るためには邪魔であるということを、言葉を使わずに伝えるのですから、誰にでもできることではないのです。

知識が邪魔だということだって、言葉で伝わってしまえばそれ自体が新しい知識となって弟子に伝わってしまうからです。では導師は一体何をしているのでしょうか?

彼らは自らの静寂というエネルギー場に弟子を巻き込んで、そこに同調させるようにしてくれるのです。だから、見た目で判断する部外者には、導師が何をしているのか理解することはできないのです。

一日中沈黙したまま、導師と弟子たちがじっとしている場に出くわしたら、きっと面喰うのは当り前かもしれませんね。でも目に見えないところで、途方もなく素晴らしいことが起きているのです。

そんな導師を求めてやまない最近の私でした。

真の宗教とは…

現在世界中に、何百種類とも言われるくらいの多くの宗教があると言われていますね。誰もが知っている超有名な宗教もあれば、それほど知られていないものもあるでしょう。

私のところにセッションに来られるクライアントさんにおいても、親がずっと宗教に嵌っていたケースとか、あるいはご本人が何等かの宗教に入信している場合など、さまざまです。

そしてその宗教がらみのお話しを聞いていて、それがご自身の本当の支えになっていたり、人生を豊かにする方向に助けてもらえているということがとても少ないのです。

その逆に、気づかぬうちにご本人の癒しを妨害していることの方が圧倒的に多いという事実があるのです。私の個人的な考えですが、宗教とは宗教団体のことではありません。

本当の宗教とはまったくもって個人的なものだということです。もしもあなたが、何等かの宗教と関連のある人生を送っているのでしたら、次の点を点検してみて欲しいのです。

あなたが属している宗教、あるいは宗教団体があなたの社会での生き方やルール、それは具体的にはどのように他人と接していくべきかということについての教えがあるのなら、それは要注意です。

それは言葉を変えれば倫理や道徳の範疇ですね。どのようにして、この社会の中で他人と間違いを犯すことなく関係していけばいいのかということです。

それは宗教の本質とは全く違います。本当の宗教とは、あなたがあなた自身とどのように間違うことなく付き合っていくことができるかという点についてのものなのです。

だから個人的なものだと言ったのです。他人がそこに入って来る余地はありません。物事の善悪や正不正などを話題にするなら、その宗教は真理から逸脱していると思って間違いありません。

控えめに言っても、宗教がらみの何らかのトラウマを抱えているクライアントさんの場合は、癒すのにとても時間と労力が必要になるということを経験から知りました。

あらゆる教えをできる限り手放していくことこそが、真の宗教のあるべき姿なのです。

自己イメージを脇へ置く

あなたという人物の中心にあるものとは何でしょうか?それはあなたが感じている自己イメージに違いありません。どんな人でも、自分の自己イメージというものを持っています。

その自己イメージを固く信じて生きてきたし、これからもそれは続いていくのです。そうだとしたら、その自己イメージが本物のあなたを正確に表していなければ、とても理不尽なことになりますね。

もしもあなたが、何となく自分に自信がないと感じているとするなら、それもあなたの自己イメージからやってくるということです。その場合の自己イメージとはどんなものか、考えたことはありますか?

自分以外の人物から、へたをすると否定される可能性が大であるという自己イメージなのです。本当の自分が暴かれたら、きっとよく思われないに違いないという自己イメージです。

だからこそ自信がないのです。ここで大切なことは、その自己イメージは正しいあなたを反映しているのかということと、その自己イメージが一体どこからやってきたのかということですね。

実は、自己イメージの何と100%が幼い頃の周囲の人たちの反応によって作られたということです。純粋無垢なころのあなたは、周りからどんな反応をされたとしてもそれを拒否できなかったのです。

可愛いと言われれば、それをそのまま自己イメージに追加するし、のろまと言われればそれもそのまま自己イメージへと追加されると言う具合だったのです。

そしてその周囲の反応というのは、当然その人たちの内面の投影に他ならないのですから、どれもこれもあなたという実体をそのままに映した反応ではなかったのです。

まとめると、あなたの自己イメージとは、幼いあなたが周囲からどんな言葉やどんな表情、あるいはどんな態度、どんなエネルギーで反応されたかの総合計だということです。

そんな反応は相手によってまちまちだったろうし、たとえば常に一緒にいたであろう母親の機嫌一つで、反応は変化したはずなのです。

あなたの自己イメージとは、真っ白なキャンパスのような心の頃に、周囲から手あたり次第に勝手な絵の具、勝手なやり方で殴り描きされた結果、でっち上げられたものだということです。

そんないい加減極まりない自己イメージに翻弄される人生なんて、もうやめにしませんか?今この瞬間にどんな自己イメージがあろうとも、そんなものは脇へ置いておきましょう。

そしてどんな自己イメージも作らずに、できるだけ自分と正直に付き合うようにすることです。しつこい自己イメージなど、放っておくことにしましょう!

そうすれば、きっとより自由で豊かな毎日がやってくるはずです。

パラドックスは美しい

この世界で、「私」はいない!ということを見出すことくらい、究極的なパラドックスはありませんね。だって、一体誰が「私」はいないということを見出そうとしているのか、「私」以外にそんなことを考える者は他にいないのですから。

この「私」とは一体何かということを、探求して追究して行って、どうにも見つけられずにとうとう力尽きそうになったその時、追究している側の「私」が消えるのです。

そうやって本当に追究が終わるのです。その成り行きとして、追究のターゲットであった「私」は居なかったと気づくのですから、これ以上のパラドックスなんてないでしょう。

もしも追究している側の「私」がまだまだ元気いっぱいのうちに、唐突に「私」はいないということがやってくるとしたら、早晩「私」に戻されることになるでしょう。

経験者は語るです。だから探求はとことんやり続ける必要があるのかもしれませんね。一過性の「私」の不在は、本当に「私」が落ちたことにはならないからです。

実際に、「私」がいないことをどれほど深く思考によって理解できたとしても、それは単に非二元を論理的に解釈することができたということでしかありませんね。

それでは非二元に1ミリも触れたことにはならないでしょう。ところで、「私」が落ちた瞬間、それを確かに感得しているナニモノかが在るのは間違いありません。

それこそが真の自己なんでしょうね。私の体験としては、今の自分とそれほどの違いがあるようには感じませんでした。ただ、「無」を直接体験している自覚はありましたが…。

何かを理解しよう、把握しようとすることを放っておくことです。その欲望が「私」の餌になるからです。探求の真の目的とは、探求が無駄であることを悟るためなんです。これもパラドックスですよね!

唯一存在しないもの

誰だって人間を数年でもやってりゃあ、いろんな問題を抱えるようになるってもんです。それでも何とかやり繰りしながら、人生を続けて行くわけなんですね。

そこで、はたと気づくか気づかないのかが大きな分かれ道になるんです。一人でやり繰りできなくなってきたなあと思った人の内の何割かが、例えばセラピーのようなものを受けてみようと思うのでしょうね。

あるいは、お寺に行って座禅でもしてみようと考えるかもしれません。どんな形であろうとも、抱えている問題を無視せずに、向き合おうとする姿勢があればいいのです。

例えば私の場合、10歳くらいのころから何かが変だと明示的に感じるようになっていたと思うのです。記憶では、疲れが取れなくなった感じだとか、やる気が自分にはない!という感覚がありましたね。

今で言えばある種の鬱症状が出だしていたんだろうと思うのです。そしてそれは、今だに続いているようです。やりたいことが一つも見つからないのがいい証拠ですね。

自分の問題とは一体どこから来るんだろうと考えることから、気づきは起こるのです。それが無ければ、この社会でどれほど成功して活躍しても、それは無駄なことだと言えちゃうのです。

そして最終的には、この「私」こそがあらゆる苦しみの原因だったと気づくことになるのです。そういう意味で、今回の人生は私にとってはとても幸運でした。

これ以上大切なことはないというところに意識が向くようになったからです。そして、「私」の根っこを捕まえようとして探求してきましたが、決して捕まえることはできないということにも気づいたのです。

それはきっと一生捕まえることはできないでしょう。どれほど、せっちんづめのようにして追い込んでも、すぐにスルリと身をかわすのですから。

そして本当は、身をかわすのではなく、それは存在しないんです!ちょうど影のようなものと同じ。在ると言えばあるし、ないと言えばない。

この存在の中で、唯一存在しないもの、それが「私」だったのですね。

「私」が存在の中へ溶けて、行かない!

これまで自分なりの瞑想をしてきて、それなりに興味深い体験もあったりして、面白くてやめられないと感じていたり、いつかは「私感覚」も消えてくれるものと思っていました。

けれども、これまでの瞑想中のどんな体験にも、ほとんど興味がなくなってしまいました。所詮は、「私感覚」がズシッと在り続けていると分かったからです。

他の人がどうなのかは定かではありませんが、私自身の「私感覚」というのはあまりにも自然過ぎて、まるでないかのように感じてしまうのです。

敢えて言えば、自分の思考なり気分なりを全く静かにただ見ているだけの存在のようなのです。自分が怒り狂ったとしても、注意深くいればそれはあたかも背景のように在るのです。

それは決して表立った主張をしないし、ちょっと勘違いされてしまうかもしれませんが、ある種のハイアーセルフ的な存在といった趣すらあるのです。

それが自分ワールドをすべて取り仕切っているというのが、よく分かるようになったのです。これが自分にとっては、ちょっとしたショックでして…。

「私感覚」がなくなった時のことを思い出しては、もう二度と同じ過ちはさせないというように、鉄壁の防波堤を新たに作ってしまったようにも感じるのです。

本当に面倒なことになってしまったものです。あの「私」が存在の中へと溶ける感覚を、「私」自身が封印してしまいましたよ。奴は学ぶんですね。それも素早く。

最近ブログで恨み節のようなことを書くことが多くなってしまいました。具合の悪い時もあれば、またいい時も来るといういつもの調子で乗り切れるといいのですが…。