自称守護霊からのアドバイス

長年催眠のセッションをしていると、時としてなかなか不思議なことが起きたりもするものです。たとえば、催眠療法中に、クライアントさんの守護霊と称する存在が出て来ることがあります。

私のこれまでの記憶では、4~5回はあったように憶えています。セッションの数からいえば、ものすごく稀なことだとも言えるのですが、結構憶えています。

興味深いので、私はそのときにはその存在の言葉をじっくり聞くようにしています。よ~く聞いていると、かなり的を得たことを言っていて、みな本人に伝えたいのだけれど聞いてくれないと訴えてきます。

だから、催眠のセッションで表舞台に出ることができて、嬉しがっているのです。本人にもバッチリ伝えることができるので、あっという間に30分~1時間もしゃべり続けることもあります。

その存在が、本当に守護霊なのかどうかは別として、私自身がクライアントさんに伝えたいと感じることと同じようなことを大抵は言ってくれるので、それもあって喋りたいだけ喋らせてあげるのです。

場合によっては、クライアントさんご本人も決して知り得ないような、ご家族の一人ひとりの潜在意識の中身について、話してくれるようなこともあって、結構参考になるのです。

ただし、その存在が私たちのマインドと同レベルであるということも明らかなのです。なぜなら、話す内容がやはりこの世的なことばかりだからです。

私たちの存在の本質について、気づいて欲しいといったことを訴えてくることがないのです。それに、自称守護霊という存在が抱えている、人格のようなものを感じてしまうのです。

とはいうものの、何であれクライアントさんのその時点での癒しの力になってくれるのなら、大歓迎であることは間違いのないところですね。

心の拠り所が消える?

クライアントさんとお話ししていると、「落ち込む」という表現が出て来ることがよくあります。あの時期は、ひどく落ち込んでいた、などという具合に使われるのです。

勿論、私も落ち込むという意味は分かってはいるのですが、ただ本当にはそれらしき体験をしたことがないのです。気分が悪いというのはあるのですが、落ち込むということがない。

機嫌が悪くなるということもあるのですが、ことこの落ち込むということになると、どうにも経験不足は否めないのです。ところが、この数日なのですが、もしかしたらこれがそうなのかもしれないと感じることがありました。

ただし、それはフワッとやってきたかと思うと、あっという間にどこかへ消えて行ってしまうのですが、それでもこれまであまり味わったことのない感覚がやってきたのです。

それは言葉で表現するなら、心の拠り所がなくなってしまったというのか、基盤が消えてしまって何とも心もとない感じとでも言えばいいのか…。

その状態が長く続くなら、それはもう十二分に落ち込んだ状態になるであろうと分かるのです。そんなの絶対にいやだし、二度と経験もしたくないと思うのです。

だからこそ、あっという間に消えてしまうのかもしれないのですが。今自分のマインドの中で、確実に何かが起きているということは分かるのですが、実体がつかめないのでもどかしいのです。

そして、その気分が沈む理由が皆目見当たらないのです。マインドの内側深いところでは、もしかしたら孤独ではいられない幼い自分がまだまだしっかりと居座っているのかもしれません。

どういう理由かは分からないのですが、今頃それが騒ぎ出してきているのかなと。それなら、せっかくですから思い切り表舞台に出して光を当ててあげたいなと思うのです。

<存在>を信頼する

究極の生き方があるとすると、それは<存在>を信頼するという生き方。<存在>とは、この現象界を支えている背景、あるいは私たちの本質としての純粋な意識とも言えます。

<存在>を信頼するなら、自分に何が起きようと、それをあるがままに受け入れるということです。ところが、残念ながら私たちは起きていることを必ず思考によって解釈してしまうのです。

解釈すれば、それは自分にとって都合のいいこと、悪いこと、善悪、正不正などの評価をしてしまって、ただあるがままを見ることができなくなってしまうのです。

3.11で起きたことは、人の感性としては悲しいことだし、酷(むご)いことだと感じるのは当然のことです。それはそのままにしておいて、でも一方ではただそれを受け止めるのです。

この一週間くらいの間に、実は私自身にとってはあまり好ましいと感じないことが、連発で起きています。それも不思議なほどに重なってやってきます。まだ続いています。

勿論それが一過性のものであるということは分かっているのですが、早く好転して欲しいと思ってしまうのです。それも当然のことですが、その一方でそれをただ見ているという態度があればいいのです。

自分の内面がいつになく騒がしくなっているのですが、それを愛を持って放っておくことを忘れずにいれば、巻き込まれてしまうことがなくなります。

不都合な出来事には、そういった練習ができるという利点もありますね。ちょっと強がって聞こえてしまうかもしれませんが(笑)…。

超意識への道を見出す

by osho

東洋では一万年も前から――精神分析は百年の歴史もない――精神分析に似ても似つかぬ、誰一人したこともないような方法でマインドに働きかけてきたのは、驚きに値する。

彼らは全く異なる方法で試みた。彼らは決して、無意識層にかまわなかった。無意識層に注目するのは、終わりのない森に入るようなものだからだ。戻る道を見つけられなくなるだろう。

東洋は、反対方向に試みてきた。上昇して、土台のことなど忘れることだ。あなたの意識の上にも三つ階層がある。意識を活用して超意識に入りなさい。超意識を使って集団的超意識に入り、それを宇宙的意識に入るために使いなさい。秘訣は、この三つの意識に入る瞬間に、多くの光を得る。カビールはこれを、「幾千もの太陽が突然昇ったよう」と表現した。光があまりに強いので、無意識の抱えるものはすべて燃えてしまう。無意識層の闇は、消滅してしまう。

もし長い道のりを行きたいなら、無意識を掘り下げなさい。道は長く、ゴールに至ることもない――誰も至ったことはあるまい。

だが二番目の、存在のより意識的な領域に入っていくなら、事はとてもシンプルだ。それこそ私が教えてきたものだ。

瞑想はあなたを、より意識的な領域に連れて行く。あなたの全存在が目覚めたとき、そのまさに臨在が幾千もの生で溜め込んできた闇を消し去る。

単純な事実だ。部屋が暗いなら、闇と戦うのをやめて明かりを持ち込みなさい。たった一本のろうそくで闇は消え去るだろう。もし闇と争い闘い始めたら、複雑骨折で勝利すらおぼつかない。

最も簡単で知的な方法は、超意識への道を見出すことだ。それはより高いドアを開く鍵を、あなたに与えるだろう。

思考が現実を作り出す

よく言われる言葉ですが、「思考が現実を作り出す」というものがありますね。こうなったら困ると強く思っていると、実際そのようになってしまった、という経験を誰もがしているはずです。

仕事というのは、楽しいものじゃなくて、辛く苦しいものだという先入観を持っていると、本当にそうした現実がやってきて、職を変えたところでやっぱりそうなってしまうのです。

こうしたことを何となく私たちは経験上知っているので、「思考が現実を作り出す」というのも、うなずけるわけです。けれども、宝くじが当たる、という思いをどれだけ強く念じても、実際には当たらないのはなぜ?と疑問になりますね。

実は、それは意識的なマインドで考えていることと、無意識のマインドで考えていることの二つがあって、どちらかパワーの強い方の想いが現実となるということです。

だから、いくら強く念じても、心の奥底では当たるはずなど無いと思っていれば、やはり宝くじは当たらないという現実がやってくることになるのです。

比較的思い通りの現実が起きるという人生を生きている人と、そうでない人の違いは実は無意識のマインドにこそその違いがあるのです。

ポジティブなことをいくら思考したところで、無意識の中にネガティブな思考が渦巻いているなら、それは間違いなく否定的な現実が起きる可能性が高いということになるのですね。

無意識のマインドから、ネガティブな思考をなくしていくためには、癒しが必要なのです。通常の頑張りと努力だけでは、無意識に働きかけることはできないからです。

無意識のマインドを直接変えることはできません。その代わりに、間接的な方法、つまり徹底的に受け止めるということを繰り返すことによって、徐々に無意識層のネガティブな思考、エネルギーはそのパワーを失っていくことになるのです。

存在を信頼する

誰でも、できることなら都合のいいこと、嬉しいこと、幸運に恵まれたと感じられるようなことが起きて欲しいと思っています。そして、そういうことが起きたら自分は幸せなのだと感じるのです。

ところが、残念なことに、人生とはそうそう願い通りには行かないものですね。そればかりか、都合の悪いこと、辛く苦しいこと、いやなこと、不運だなと感じるようなこともやっぱり起きてきます。

ところで、自分のこれまでのそうした経験をあるがままに見るときに、都合のいいことと都合の悪いことで、本当に大切な気づきを得るきっかけをくれたのは、一体どちらなのかを考えてみるのです。

そうすると、驚いたことに、都合のいいことが起きているときは、ただそれが過ぎ去るだけで、自分にはこれといったものが残ることはあまりないと分かります。

一方、都合の悪い出来事、もう二度とあんな目には遭いたくないと思えるようなことは、自分がそのことから逃げないでいた場合には、必ず何かの気づきを得ることができたのです。

私にとってそれが最も顕著だったことがあるのですが、それは15年前に癌を患ったことです。それが発覚したときには、人生で最悪の事態になってしまったと考えたはずです。

けれども、自分の命がかかっていると思うと、人は追い詰められた分だけ気づきを得ることができるのですね。それがきっかけで、今の仕事を始めることができたのです。

人は嬉しくて有頂天になっている間には、貴重な気づきを逃してしまいます。その反面、もがいて苦しんで、なぜこんなことになってしまったのかと天を恨んだりしても、そこから逃げずにいることができるなら、必ず光が見えてきます。

だから人生は捨てたものではないのですね。でもでも、やっぱりもう二度と辛い目には遭いたくないと思ってしまうのは、人情というものですね。

今、出口が見えなくて辛くて絶望していると感じているあなた、どんな事態であろうとそれは一過性のものであるということと、いずれはそこにこそ大きな気づきのチャンスがあるのだということを忘れずにいて下さい。

存在を信頼するなら、あなたはその瞬間に苦しみから解放されるのですから。

インナーチャイルドに会える!

みなさんは、インナーチャイルドと聞いて、誰だか知らないけれどそれらしい言葉をよくぞ作ったものだと思うかもしれませんね。内なる子供がいかにも実在するかのような感覚になる響きを持った言葉なので。

けれども、それは比喩に違いないと思っているはずですね。大人になった人間の心の中に、子供が棲んでいるわけはないのですから。

とろこがです。数限りないセラピーを通じて分かったことは、インナーチャイルドは実在するということです。勿論、肉体を持っているわけではありませんが…。

思考や感情を伴った、記憶システムの中にしっかりと居残っているのです。そして、上手に隠されてはいるものの、何かの拍子に表面化したりするのです。

催眠療法の中では、場合によってインナーチャイルドはあたかも、ここにいるかのように、言葉や態度として現れてくれます。それはもう凄まじいものです。

一番驚くのはご本人かもしれませんね。私はそばにいて、できるだけ出てきてもらえるようにと促すのですが、そんなことは飛び越えて、当時のままの子供の自我が現れてきてくれたりします。

「自分は苦しくて仕方ないので、死んだふりをしていた!」と教えてくれた子もいます。クライアントさんの大人の部分が助けに来てくれたことを知って、喜んでくれることもあったりします。

インナーチャイルドがいない人は一人もいません。誰のマインドの中にも、しっかりと居残って、何等かの形で未来の自分へメッセージを与え続けているのです。

そのことに気づいたなら、決して放っておくなどということはできないでしょう。その子を救ってあげたくなるはずですから。

インナーチャイルドがそこそこ癒された暁には、瞑想も無理なくできるようになるはずです。そこからが、本当の癒しの始まりでもあるのです。

無意識はマインドの地下室だ

欧米ならいざ知らず、まだこの日本では地下室のある民家というのは、きっと少ないのだろうと思います。それとも、あなたの家には地下室がありますか?

10代の若い頃、ロックなどの音楽が大好きだったこともあって、周囲を気にせずに大音量でロックを聞いたり、ギターを弾けるような地下室のようなものがあったらなあ、と思ったものです。

光が差し込む窓などには全然興味がなくて、真っ暗でいいので遮音してくれて、狭くてもいいから完全に干渉されずに孤独でいられる部屋が欲しい!と思っていました。

いつのまにか、そういう穴倉生活は性に合わないという感じがしてきて、今では真逆になって、できる限り多く光の差し込むだだっ広い部屋が欲しいと思うようになりましたね。

もしもあなたの住居に便利な地下室があったとしたら、どんな使い道を考えるでしょうか?きっと、あなたの個性に合った有効な使い方を考え付くはずですね。

ところで、私たち一人ひとりのマインドの中にも、地下室が装備されています。それがマインドの無意識部分なのです。マインドがそれをどのように使うかは、知っておいて損はありません。

あなたのマインドは、都合の悪い記憶、都合の悪い感情、その他あらゆる都合の悪いモノを無意識という地下室へと放りこむのです。

そうやって、都合のいい部分だけを光の当たる部屋の中に残しておくのです。あたかも、それだけが「私」なのだと見せかけようとして…。

あなたの両親も、この社会も、余計なものはみんなマインドの地下室に投げこんで、一生なかったかのようにするようにと仕向けたのですから。

けれども、地下室に投げこまれたガラクタは、残念なことにいつかは勝手にその存在を知らしめようとして、地下室から出てこようとするのです。

何十年も前に、しかも無自覚のままに放り込んだものが、出てこようとするのですから、一番驚くのは本人でしょうね。そしてそれは、止められるようなものではないのです。

あなたのマインドの地下室に光を当てて、一体どんなものが放り込まれているのか、見てあげることです。そのためには、できるだけ自分に正直になることが必要です。

ことマインドに関して言えば、地下室がない方がいいのです。地下室に降りて行って、それをつぶさに観ようとすることこそが、催眠療法でやろうとすることですね。

何も知らないという自由

世のなかには、意外性のある人っていますよね。たとえば、筋骨隆々の逞しい感じの格闘家が、小さな虫が怖いとか、光明を得た人の身体が不健康だったり…。

なぜそうしたことを意外なことと感じるかと言えば、それは私たちがある先入観を持って物事を見ているからにちがいありませんね。

そしてその先入観が何処から来るかというと、それはこれまで私たちが経験した情報の中から、最もありそうなことを勝手に想定してしまうのです。

さらに、なぜそのような想定をしてしまうかと言うと、私たちのマインドはなるべく物事を知っていることにしたいという特徴を持っているからです。

そのことなら、きっとこうに違いないと思うほうが、恐怖が小さくなるのです。マインドにとって、知らないという状態は危険なことと感じるということです。

ところで、瞑想をしていると、自分は何も知らないということに気づくときがやってきます。それは本当に驚くべきことなのですが、そして最初は恐怖も感じるかもしれません。

けれども、そのうちには、その何も知らないということに、何とも言えない深い安堵を感じるようになってきます。本当は、何も分からないのだということに気づくと、心の平安を感じるのです。

そして完全に何も知らないということを受け容れると、これまで獲得した知識とは全く別のもの、手に入れることのできないもの、ずっと在り続けているものに気づくことになるのです。

それは知識のような対象物ではなく、主体である我々自身なのですね。何も知らないということを徹底的に体験すれば、マインドはもたないでしょう。

そのうち、崩れ落ちて行くことになるはずです。それこそが本当の自由ということですね。