私の意見→ただ意見が在る

今日もシンプルに…

自分の考え

あなたの気持ち

私の意見

彼女のドレス

「誰かの○○」の「誰かの」をやめてみる!

すると、そこにはただあるがままの世界が

広がっていることに気づく

以上

自由に生きよう!

今日もシンプルに…

あなたが思っているほど

人はあなたのことを見ていません

誰もが自分のことで精一杯なので…

だから人の目を気にすることなく

自由に生きることですね!

以上

「自己主張してはいけない」という防衛

セッションをしていて、なかなか難しいなと感じることがあるのですが、その中でも自己表現、自己主張をしてはいけないという自己防衛に乗っ取られているクライアントさんの場合は特に困ったなと感じるのです。

セラピストができることなど、本当にたかが知れているわけで、クライアントさんが本音を言ってくれるようにできるだけ促すのですが、それがほとんど通用しない。

なぜなら、「自己表現してはいけない」が鉄壁のガードをするからです。たとえば、右と言うと、そのすぐ後に左だと言うのです。そうやって、自己表現をどっちつかずの状態へと持っていくのです。

結局、自己表現するべきなにものも自分は持っていない、ということを伝えようとしているかのようなのです。だから、一つも真意が伝わらないのです。

このような場合、類推する以外に手立てはないのですが、きっと幼い頃に自分の言いたいことを言うと、親から期待とは裏腹の反応をされて、痛い思いをしたのでしょう。

それが度重なることで、自分独自の意見というものはないのだというようにして、安心しようとしたのでしょうね。そういう場合、何かを話そうとすると、検閲システムが発動するのです。

検閲システムによって、その言葉を発したならどのようなことになるのかをプリチェックするのです。だから、ご本人は常に言葉を濁したような感覚で生きることになるのです。

結果として、人と一緒にいるとしんどいという状態になり、人間関係を疎ましく思うようになるのでしょう。こうなると、普通のセラピーではどうしようもありません。

自然と感情のままにいるという体験ができるような、そんな瞑想などをするのが適切かもしれません。osho のダイナミック瞑想は、そんな人にはとても適していると思います。

我に返る

今日もシンプルに…

「我に返る」という言葉があるけど

とことんまで我に返ってみようとする

すると、その我は遥か彼方だと気づく

そのくせ、距離ゼロでもあり

思考は路頭に迷うことになる

思考がお手上げすることを覚えると

我こそが至福と気づく

以上

自己の存在に気づく

今日もシンプルに…

よくよく自分を見つめてみると

18歳の頃から何も変わっていない

いや、本当のことを言えば

小学生の頃から基本は同じ感じがする

違いはただ一つ

そんな自分を見ている自己の存在に気づいたこと

以上

誰かに否定されたとしたら…

今日もシンプルに…

もしもあなたが、誰かに否定されたとしたら

それはあなたの問題ではありません

その人は、あなたを否定することで

自分を肯定したかったのです

その理由はその人が

否定的で惨めな自己イメージを隠し持っていて

それを払拭したかったからです

このことを忘れないことですね!

以上

不満足の中に潜む満足感

私たちは、とかく欲しい欲しい、足りない足りない、そう思って生きています。あれが手に入ったらいいのに、あれを実現できたら、きっと満たされるはず、等々。

そして、幸運にもそれが手に入ったとしても、すぐにそれが普通のことになってしまい、また新しい欲望がムクムクと湧いてきてしまうのです。

欲しいものが手に入らないという渇望、それを人は不満ととらえてしまうのですが、その不満感の中に真っ直ぐ入っていくとどうなるのでしょうか?

実は、不満足の中をじっくりと覗いて見てみると、そこには何とも言えないある種の深~い味わいのようなものがあることに気づくはずです。

以前、悲しみをとことん感じてあげると、そこに奥深い何かがあることに気づくということを書いたことがありますが、それと同じなのでしょう。

欲しいものを探しまわるのも「アリ」ですが、時々はその手を休めて、その渇望を存分に味わってみるのです。不思議なことに、そこには言葉では表現できない満たされた何かがあるのです。

是非一度は体験してみることをお勧めします!

慣れって恐ろしい

最近、元気ではあるのですが、ちょっと夏バテ気味な感じがしてどうしようかと思っていたのですが、そういえば今年に入ってからほぼ肉を食べていないことを思い出したのです。

何となく身体がだるいのは、加齢のせいなのか、はたまたこの暑さのせいなのか、とにかく何とかしてこの状態を乗り切ろうと思い、肉を食べよう!と思い立ったのです。

そして、先日久しぶりに四足動物の肉を食べたところ、美味しくいただけたのですが、薄っすらと獣臭のような匂いがしたので驚きました。

気のせいかとも思ったのですが、やはりそれは明らかに獣の匂いでした。口が肉に慣れていないだけで、こんなにも印象が変わるのですね。

でもこの数日で、それもあっという間に消えてしまいました。そうです、もう慣れてしまったようで。自分の身体が慣れを用いて、柔軟に対応することに、驚きを感じました。

「慣れ」はきっとエゴのものなのでしょう。便利ではあるのですが、その「慣れ」によってさまざまな大切な感性が台無しにされていることもあるのかもしれませんよ。

不平等な関係性が伝搬する

もしもあなたのご両親が、互いに対等な関係性を持っていたとしたなら、あなた自身も人と対等な人間関係を自然と作るようになるでしょうね。

幼い頃の経験というものが、その後の人生の基本として活躍するからです。ということは、あなたのご両親が対等ではない関係にあったとしたらどうでしょう?

父親が母親を見下していたり、あるいはその逆に母親が父親よりも上の立場にあったなら、いずれにしてもあなたも結局は対等な人間関係を築けなくなるのです。

仮に父親が母親をコントロールしていたとしたら、その母親はあなたを何等かの方法でコントロールするようになるはずです。人はされたことを仕返すからです。

コントロールされた人は、瞬時にコントローラーへと変貌することができます。なぜなら、その両者は同じエネルギーだからです。

表面的には対極にあるように見えても、エネルギーは一緒なのですね。そのようにして、あなたが母親からコントロールされたなら、今度はあなたは年下の兄弟をコントロールするのです。

そうやって、不平等な関係性がどんどんと世代を超えて伝搬してしまうということです。誰かが、それを止めなければ無限に続いていくことになってしまいます。

対等な人間関係を作るには、互いに受け止め合うという実践が必要なのです。相手の存在を尊重し、気持ちを受け止めることができたなら、相手もきっとあなたに同じことをしてくるはずです。

その時に初めて対等な関係性を持つことができるのです。その時、あなたも相手も互いの存在そのものを意識するようになるということです。