誰もが自分もいつかは死ぬと知っていながらも、まだまだ死なないだろうと思っているのです。いわゆるお年寄りの人であっても、それは同じかもしれません。
けれども、それほど長くはないかもしれないと、死を現実的な感覚で捉えるようになると、生はもっとシンプルなものになるはずなのです。
死をリアルにイメージするだけで、自分の生がシンプルに感じられるようになるのです。ということは、まだまだ死なないはずとして生きることが、どれほど無駄なことか…。
墓地が村のはずれに置かれたのも、死を身近なものとして見たくないという表れかもしれません。あるがままの自分を肯定できずに生きた場合、死は最悪のものとなるでしょう。
なぜなら、自分を肯定することができずに人生が終わってしまうのですから。けれども、肯定するのに一体どんな理由が必要だというのでしょうか?
自己肯定は、今この瞬間にもできるのです。そこに理由は必要ありません。逆に理由が必要であるのなら、それは本来の無条件の受け止めにはなっていないということです。
もしもあるがままの自分をただ受け止めることができるなら、死は決して悪いものではないと分かるはずです。生きてようと、それが終わろうと、なにも問題はないのです。
しっかりと内側を見る練習ができているなら、きっといつ死が目の前にその姿を顕すことになったとしても、慌てずにそれも受け止めることができるはずです。
生が悪いものではないと分かるなら、死も悪いものではないと知るのです。惨めさを隠し持って死に直面するなら、間違いなく輪廻は続いていくでしょうね。