対等な関係性は難しい

人と人が互いに対等な関係性を持つというのは、簡単なようでいて実はなかなか難しいことなのです。私たちは誰でも理性では、誰もが本来対等だということを理解しています。

けれども、幼い頃に親からコントロールされたり、親は絶対と思わされたりして、ある意味見下さた感じで育てられてしまうと、対等に付き合うということを知らぬままに成長してしまうのです。

そうなると、交友関係が増えて行っても、結局は人に対して見上げてしまう関係性を作るようになってしまうのです。それは、相手をして自分を見下すように強いるということにまで発展するのです。

そんな人のそばに行くと、多くの人がその人を馬鹿にしたい気持ちにさせられてしまったり、対等に付き合いたいと思っていたとしても、自然とその人を軽く扱うように仕向けられるのです。

そして、そういう人がひとたび自分よりも劣っている、自分よりも弱いと感じるような人に出会うと、一転して今度は相手を見下すようになってしまうのです。

つまり、見上げることと見下すことは真逆ではあるものの、対等ではないという点で一致しているのです。だから、あっという間にそれはひっくり返ることができるのです。

ある特定の人を見下しておきながら、それ以外の人に対しては見上げるという関係を作るのです。どうしても、対等な関係が分からないまま生きることになるのです。

もしもそのような自覚があるのでしたら、対等な関係性とはどんなものなのかを体験できるようにしていかなければなりません。

その一つの方法としては、相手を常に無条件で受け止めるということをするのです。あなたが相手を受け止めた分だけ、きっと相手もあなたのことを受け止めてくれるのです。

その時に、対等な関係性というものを肌で感じることができるようになるはずです。

無防備の励行

 

端的に言えば、人は不安や孤独から逃れて、何とか安心を手に入れようとして、毎日の人生を励んでいるのです。つまり、自己防衛の日々というわけです。

そのことに気づいて、そのことを潔く認めることができて初めて、人生を変えるスタート地点に立つことになるのです。自己防衛を支えているのは愛ではなく、勿論恐怖や不安です。

だから、そうした否定的な原動力によって生きるのなら、人生が不自由で辛く苦しいものになってしまっても当然のことなのです。

だから作戦は、徹底的に無防備になるように自分を仕向けるということ。傷つくことを恐れて、罪悪感から逃げ惑って、自己表現を抑えることから卒業すること。

表面的には人を優先しているようにして、相手の意向に合わせて自分を安心させようとする生き方から脱却すること。そうした地道な努力が必要なのです。

そうして、人のことを考えている時間をドンドン減らしていくのです。自分はどうしたいのか、自分の気持ちはどうなのか、そのことに全力で取り組むのです。

そうしたら、人のことを考えている余地はありません。無防備になっても、死にはしないということを深く深く理解することです。

そして実は、防衛ガッツリの人よりも、無防備に近い人の方が好かれるのです。当り前ですね、一緒にいて、気持ちがいいからです。

今日から、自分を精神的に守ることをやめましょう!傷ついて、痛!と言って生きればいいのです。その方が生きてる感じがもっとはっきりするはずです。

防衛が小さくなり、無防備になればなるほど、あなたをコントロールしていたエゴは衰えて、生き絶え絶えになってしぼんでいくでしょうね。

そうしたら、あなたの中で眠っていた愛が発動するのです。

目覚めは時代を越える

どうでもいいと言えばどうでもいい話しなのですが、先日めちゃくちゃ UFO っぽい UFO を目撃してしまいました。

夜お風呂に入って、そこそこ暑かったので、涼もうと思ってバルコニーで椅子に座ってまったりと西の空を見ていたのです。

その時、少し明るめの星のような光が、不思議な動きをしているのを発見したのです。なんだ、UFO じゃないかと思っているうちに、雲の中に消えてしまいました。

ああ、残念、もっとじっくりと見ていたかったのにと思ったその時、それはまた顕われてくれたのです。今度は少し長めに、そしてやはり不思議な動きをしているのです。

誰が見ても、典型的なそれこそ教科書通りの、これぞ UFO と言える飛び方で私の目を楽しませてくれた後、最後はやはり雲の中へと消えて行きました。

若干の興奮冷めやらぬ中、UFO を開発するくらいの科学が発達したとしても、きっとあれを操縦している宇宙人は、光明を得てはいないのだろうなと。

人間の真の成長と、文明の進化とは何の関係もないということ。なぜなら、2500年以上も前にブッダが光明を得たのに、今の我々はその頃と何も変わっていないのですから。

文明や科学の進歩というのは、あくまでも外側で起きていることであって、それはある種夢の中での話しなのです。

真に目覚めるためには、それはどうでもいいこと。ただ内側深くへと突き進むこと。これは時代を越えて通用することなのですね。

身体の中に生きる想像上の「私」

いつ頃からのことなのか、気が付くと自分はこの身体の中に住んでいるということになっていたのですね。そして、それは自分だけではなく、家族も友人もみんな同じようにその身体の中に住んでいる。

身体だけが自分だとは決して感じてはいないものの、あまりにもずっと身体と一緒の生活をしているために、身体がまるで自分の一部のようになってしまったのです。

それでもじっくり感じてみれば、自分は身体の中にいるという感覚は動かし難い。けれども、いざ身体の中のどこにいるのだろうと突き詰めれば、どこにもいないことは明々白々ですね。

ただ、この身体の中に住んでいるという感覚を無視することはできません。だから、それはそのように感じているのだとして、一旦脇へ置くことにするのです。

そうして、きょう一日の自分の生活を振り返ってみると、決意が自分からやってきたというのは間違いで、それはどこからともなくやってきたものだと気づくのです。

きょうの生活で、自分が身体の中にいるという証明にはならないと気づくことになるのです。身体の中だろうが、そのほかのどこにも決して見つけることができない自分。

だとしたら、一番素直なのは、自分はどこにもいないということ。身体の中にいるという思考、妄想、想像があまりにも頑なために、それが真実だと思っているだけなのですね。

そしてもっともいいのは、いるとかいないということの思考を持たないことです。

悲しみは根源的な感情

私たち人間には、様々なネガティブな感情がありますね。怒り、恐怖、孤独、不安、そういったものの背後には、悲しみというものがあるように思うのです。

突出した感情の背後には、悲しみが隠されているのです。激怒していた人が、しばらくすると悲しみの涙を流したりするのはそのためです。

実は悲しみとはとても奥深い感情であり、一概にネガティブなものと言い切れないのです。実際、深い悲しみを味わったことがない人は、とても薄っぺらい人生を生きることになるのです。

逆に、深い悲しみの中にどこまでも入っていくのであれば、その人のマインドはある種とても深い味わいのようなものを持つことになるのです。

なぜなら、悲しみというのは自らの本質を忘れたままでいることからやってくるものであって、つまり全体から分離したと思い込んでいる人間としての根源的な感情だからです。

だから、悲しみがやってきたらそのことを悪く思わないことです。悲しみは、この地球上にいるすべての人々の内面深くに必ず隠されているものだからです。

それに気づかずに人生を終えるのではなく、真実を思い出したいという強い渇望こそが悲しみという感情を生み出すものだと気づき、逃げることなく悲しみとともにいることです。

悲しみをたくさん味わった人は、何かどしっとした落ち着きがあり、それだけ真実に近づくことができた人なのではないかと思うのです。

「私」という思考を作ったのは誰?

前置きなしで始めますが、「私がここにいる」というのは、真実でも事実でもなく、単なる思いなのです。思いということは、思考だということです。

そして分かりづらいのは、100歩譲って、「私がここにいる」というのが思考だとしても、そう思うためには「私」がいなければならないと感じるのです。

けれども、自我が生まれるときのことをよく見つめてみると、「私」という思いが作られるときに、「私」はいませんでした。いなかったからこそ、作られたのですから。

最初の最初から、つまりオギャーと産まれたときから「私」がいるのなら、「私がいる」という思いを作り出す必要はなかったはずなのです。

結論として、「私がいる」という思考を生み出すのに、「私」は必要なかったということです。つまり、「私」はいなかったのです。そして、それは今も変わりません。

「私」という思いが作られたからといって、「私」という実在も作られるということではないからです。まわりくどい表現になってしまいましたね。

言いたかったことは、あなたの中にどんな考えが生まれたとしても、そこにあなたという存在は不要だということです。つまり、あなたはいないということ。

思考はエネルギーの一つの顕われた形に過ぎません。私たちの本質は、思考とは何の関係もないということが腑に落ちれば、自然と思考との自己同化は薄れていくはずです。

インドが唯一行けない場所

私たちは年齢と共に、その行動範囲が広がりますね。幼児の頃は、家の中かせいぜい家の近所の公園まで行ければいい方でした。

それが、小学生くらいになって自転車に乗れるようになって、歩いてはなかなか行けないような距離のところまでも行けるようになります。ちょっと冒険だった気もしますが…。

そして、バスや電車に乗れるようになることで、思春期には立派に一人旅に出かけることだって、できるようになるのです。そして、留学でもすれば一気に地球規模の移動が可能となるのです。

今人類は、深海や密林などのごく一部の場所を除けば、地球上のあらゆるところに行くことができるのです。勿論、月に到達してからすでに40年以上経っています。

いずれは火星やその他の惑星へも行動範囲は広がるはずですね。その行動範囲のどこへでも、あなたのマインドを連れていけるのです。

ところが、そのマインドが未だに行けてないところがあるのですが、どこだか分かりますか?どこの職場であろうと、どこの国であろうと、どんな危険なジャングルであろうと、あなたはマインドを連れて行くことができます。

けれども、マインドと共には決して行きつくことができない場所がたった一つだけあるのです。それは、あなたのマインドのもっと奥にある、あなたの本質と出会う場所。

そこへだけは、マインドを持ったままは行くことができません。なぜなら、あなたの本質とあなたのマインドが共存することはあり得ないからです。

本質は真実であり、マインドは虚偽そのものだからですね。

「背景」という真実

聞いた話しですが…、若輩者の魚と年寄りの魚が海の中で会話しているのですが、若い魚が、「どこかにとてつもなく広い海というものがあると聞いたのですが、それは本当ですか?」。

それに対して年寄りの魚が言うには、「わしも聞いたことがあるが、その海とやらは果てしなく広大だが、目には見えないそうじゃ」。

実際のところ、どんな魚であろうと海を見ることはできません。あまりにも近すぎて、あまりにも常にそれに囲まれているために、決して気づくことがないのです。

この逸話は私のお気に入りです。なぜなら、私たちも上の魚たちと同じような立場にいるからです。真実はあまりにも身近で、常に私たちの周りに在り続けているのに、気づくことができないでいるからです。

生まれてからずっと、何がどうあれ常に変わらずに在り続けている目には見えない「何か」に想いを馳せてみると…、どうでしょう?

私の場合、敢えて言葉で表現すると、あらゆるものの「背景」という感覚です。この宇宙、この世界の「背景」は常に在り続けているし、目にも見えない。

「背景」を全体性と呼んでもいいし、神と呼んでもいいし。はたまた、純粋な意識という表現もありますね。本当はどれもしっくりこないのは、所詮言葉だからです。

魚が漁師に釣り上げられたなら、息絶える瞬間に海を見るかもしれません。私たちも同様に、「私」という思いが息絶える瞬間、「背景」しかなかったと気づくのかもしれませんね。

「そんなの知ってる」は危険

私たちのエゴは、物事を知らないよりも知っている方が気持ちがいいのです。知らないということは不安だし、否定的に見られる危険もあるからです。

だからエゴは、知っていることで安心できるのです。そして、知っているということは、もうこれ以上それについて教えを乞う必要はないと判断するのです。

分からないし、知らないから教えて欲しいと願うのは、場合によってはエゴは屈辱的な気持ちになることもあるかもしれません。

けれども、知っているとひとたび思ってしまえば、聞く耳を持つことも難しくなってしまうのです。もう自分は知っているので、それについては聞きたくないと…。

こうなると、非常に気づきの少ない人生になってしまう可能性大ですね。一般常識的な知識、あるいは標準的な社会通念のようなものを妄信して、人生を終えることになるのです。

知っているということの上にあぐらをかいて生きている人には、どんな成長も見込むことができないのです。その一方で、自分は少しは知っているけど、もっと深く知りたい。

あるいは、知っているつもりになっているけれど、本当のところはどうか分からないので、自分の知識を脇に置いたうえで、話しを聴きたい。

こうした態度で聞く耳を持っている人だけが、いつでも新しい気づきを得るチャンスを与えられるのです。それを、謙虚というのかどうかは定かではないですが…。

本当は何も知らないというのが真実です。人生という物語から抜けた瞬間、あらゆる知識はまったく使い物にならなくなるのです。知らないということは、何と清々しく素晴らしいことなんでしょう!

罪悪感と正面から向き合う

クライアントさんとしてセッションを受けにいらして下さる方々のほとんどが、敏感タイプ、繊細で感受性の高い内面を持っていると言って間違いありません。

そして、そういう人たちに概ね共通して言えることは、罪悪感から逃げるという防衛を続けているのです。たとえばその一つに自己表現が苦手というのがあります。

しっかりと自己表現をするためには、相手の気持ちよりも自分の気持ちを優先する勇気がどうしても必要なのです。勿論、人を人とも思っていないような人は例外ですが…。

自分を優先しようとすれば、必ず相手に対して罪悪感を感じてしまうのです。自分の言動によって、相手を不快な気持ちにさせたり、傷つけてしまうと感じることもあるからです。

そうなると、人一倍繊細な人たちは殊更強く罪悪感に苛まれることになるのです。それが辛くて、自由な自己表現、自分を優先した自己表現を抑えるようになってしまうのです。

そのようなタイプの人たちが、罪悪感の奴隷にならないようにするためには、とにもかくにも罪悪感を恐れることなく、自己表現(「ノー」を言う)の練習をすることです。

これを言ったらきっと相手は悲しむに違いないと分かっていても、自分の正直な気持ちとしてそれを言いたいのであれば、罪悪感がやってくることを見越して、自己表現するのです。

罪悪感は間違いなくやってきますね。その時に、慌てずひるまず、落ち着いてその罪悪感と共にいるようにするのです。罪悪感で死ぬことはないのですから。

徹底的に罪悪感を感じるのです。そうすると、ある時不思議なことに起きてることは何も変わっていないのに、罪悪感に対する感覚に変化がやってきます。

罪悪感は決して悪いものではないと気づくのです。罪悪感が悪いのではなく、それから逃げ続けることこそが大問題だと気付けるようになるはずです。

そうなったらしめたものです。そうやって、やってきた罪悪感を一つずつ丹念に感じ尽すことができたなら、もう逃げずに好きなだけ自己表現ができるようになるのです。