親のエネルギーが与える子供への影響

子供がその両親から、いいにつけ悪いにつけ多大な影響を受けてしまうことは、だれでも知っている周知の事実ですね。身体を譲り受けるのですから、当然といえば当然のことです。

また親は、子供がよい人生を生きていけるようにと、できる限りの情報を伝えようとします。それがいわゆる躾けというものかもしれません。

身体をもらうことも、躾けをされることも、どちらもはっきりとした事実として認識することができるのですが、本当はもっと強く影響される隠されたモノがあるのです。

それが、親がまとっているエネルギーなのです。子供は実は、生まれる前から、胎児のころからずっと両親のエネルギーの中で成長するのです。

親が幼いころから溜め込んできた感情のエネルギーや、思考のエネルギーが屋根から丸ごと、その家を包んでいるといってもいいのです。

その家にずっといるのですから、そのエネルギーに慣れてしまうため、それが気持ちのいいものであれ、悪いものであれ当たり前のものになってしまうこともあるはずです。

そうなると、家にいてなんだかスッキリしないとか、気分がよくないとか、疲れて帰宅したのに家の中でも疲れてしまうといったことが起きても、理由が分かるずにいるのです。

場合によっては、海外留学したくなったりするのですが、本人としては家のエネルギーが悪いからということの気付きはないのが普通です。

大人になっても親と同居している限りは、そのエネルギーの影響下にあるということを知っておくべきなのです。
そして、親のエネルギーから離れるだけで、まったく異なる気分で生きることができるようになる可能性すらあるのです。

人のエネルギーの影響力は、逃れることができたときにこそ分かるものなのですね。

自分の存在の大きさについて

あなたにとって、自分の存在ってどのくらい大きなものですか?自分の周りにいる沢山の他人の存在と比べて、どのくらいの大きさでしょうか?

もしもグルジェフの言葉の通り、「人のことは考えない」を実践するなら、他人の存在は限りなく小さくなっていくはずです。ということは、相対的に自分の存在が拡大します。

仮に、自分が半径1メートルの円であるなら、他人は1cmくらいの円になればいいのです。特に、自分の目の前にいない人に対しては、より小さくなって然るべきなのです。

他人の存在に対して自分の存在がそれくらい大きくなるなら、エゴは活躍する場を失っていくはずです。なぜなら、エゴとは人との関わりの中にしか居場所がないからです。

自分が目の前にいる相手と対話している時に、自分と相手の存在が一時的に同じくらいの大きさになるのは当然のことですね。

けれども、ひとたび相手が目の前から去ったなら、自分の存在だけに戻ればいいのです。そうでなければ、いつまでも相手のことを考えているということになるのです。

エゴはそれが狙いなのです。あなたに思考を投げつけて、相手のことにエネルギーを使い続けるように仕向けるのです。そうすれば、エゴは安泰だからですね。

セッションをしていると、自分の存在よりも他人の存在のほうがよほど大きくなってしまっているクライアントさんを多く見かけます。

その状態であれば、エゴがフル回転するのも当然のことです。あなたのマインドの中にいる他人のエネルギーをできるだけ外に投げ捨てることです。

そうやって、次第に自分の存在を大きく育てていくことができれば、それに比例して相手の存在もエゴも共に小さくなっていくはずです。

同一化が外れたら

先日このブログで、自己との同一化を外すということについて書きました。自分は、肉体でも感情でも思考(マインド)でもないということ。

同一化があるところ、必ずエゴがついて回るのです。ということは、すべての同一化が外れたときには、自動的にエゴも消えていくということですね。

では、エゴが消えた自分、同一化が外れたあとの自分に意識を向けてみたらどうなるのか?そのような自己の本質の今日一日を思い返してみようとしたのです。

すると、どのようにしてもそれを思い出すことができないのです。なぜなら、身体であれば、何をしたということを思い出すことができるし、マインドであれば何を考え、どう感じていたかを思い出せばいいのです。

けれども、本質だけは思い出すどんなネタも見当たらないのです。同一化が外れた自分とは、肉体ではないので、大きさも位置もありません。痛みも疲れもないのです。

マインドとの同一化が外れてしまえば、思い悩むことも怒ることも不可能になってしまうのですから、思い出すターゲットがまったくなくなってしまうのです。

それなら、思い出せなくて当然ですね。そもそも思い出すという行為それ自体がマインドのものであるため、マインドではいくら頑張っても自己の本質をとらえることは不可能なのです。

それは時間の中にもいないということがこれでわかります。だから過去や未来というジャンルからも外れているということです。それはきっと真の至福なのでしょうね。

それが至福を感じているのではなく、それ自体が至福そのものだということです。それが私たちの真の姿だということです。

不自然な笑いを根絶させる

たくさんのネガティブな感情がある中で、明るい感情の一つとして笑いというのがありますね。笑うというのは動作ではあるのですが、その原動力はある種のエネルギーなのです。

笑うことは心身にとって、とてもいいものだということをよく聞きます。私自身も、何のわだかまりもなく、屈託なく笑うことができたときには、とても気分がいいものです。

笑いによって、否定的な気持ちや感情なども払しょくされてしまうことを、経験的に私たちはよく知っています。そんな素晴らしい笑いなのですが、メリットはあくまでも自然に笑う場合に限るのです。

意図的に笑うということになると、状況は急変してしまいます。まったく可笑しくないのに、笑うということを続けていると、正直な自分にとっては苦痛になっていくのです。

私たちは、笑いというものをスムーズな社会生活に役立てようとして、無理をしてしまうことが多いのです。いつもにこやかであったり、転げるように笑ってみたり…。

実は、そうした笑いというのは、自分を安心させようとする自己防衛の一つに過ぎないのです。対人関係の中で、すぐに笑顔になったり、笑ってしまう自覚があるのなら、要注意です。

本当に可笑しいとき以外は笑う必要などさらさらありません。笑うことによって、私は明るい人物です、私はあなたに否定的な気持ちを抱いてはいません。

そういうことを表現したいのですね。だから、防衛だというのです。人とのかかわりの中で、笑いたくなければ笑わないでいるというクセをつけることです。

笑うことで、大切な自分の正直な感情を抑圧してしまうということもあり得るのです。必要以上に笑わないという練習をしてみてください。

自分が如何に不要な笑いを使っていたかに気付くはずです。仏頂面でいろ!ということではありません。とりたて
て笑いによって明るく見せる必要もないということなのです。

自分との同一化を見破る

私たちは、肉体と自分を同一化し、感情と自分も同一化して、更に思考と自分をも同一化しています。表面的には、そうではないと感じていても、奥深いところではその同一化は残っているのです。

今日一日の自分を振り返って思い出そうとしたら、自分の肉体が何をしたかということに目が向いていることに気づくはずなのです。

肉体ではない自分の一日を思い出そうとしたら、一体何を思い出すことができるでしょうか?あの時の自分の気持ちだったり、誰かに何かを言われたときの感情だったり。

ここでも、気持ちや感情と同一化していることが分かりますね。あの時には、こういうことを考えていたと思い出すかもしれません。

それが思考との同一化に違いありません。誰かに、「あなたの考えは間違っている!」と言われたら、多くの人は自分の思考が間違っているとは受け取りません。

その代わりに、自分は間違っていると思われたと感じるはずです。自分の考えというよりも、自分そのものが否定されたと受け取ってしまいがちです。

こうして、思考との同一化を見破ることができます。そもそも、如何なるものとも同一化しないでいるときの自分とは何でしょうか?私たちはそれを知らずに生きているのです。

つまり、誰もが自分の本性を知らないまま、あたかも自分のことを知っているかのように騙しながら、平静を装って生きているのです。

それが私たちの最も奥深くに燻る不安感であり、不満感でもあるのです。自分のことを知らずに、どうやって満ち足りることなどできるでしょうか?不可能なことですね。

まずは、自分のことは何も知らないのだということをしっかり認めることから始める必要があるのです。

人のことを考えない!

大抵の人のマインドの中には、常に夥しい数の様々な思考が溢れています。そのことに気づいている人もいれば、気づいていない人もいるかもしれません。

その思考の内で、他人のこと、他人にまつわることを考えている比率はどのくらいだと思いますか?親しい特定の人のことだったり、友人知人だったり、一般大衆のことだったり…。

相手が自分のことをどう思っているのかとか、相手はどんな気持ちなのだろうかとか、人がこう言ったとか、こうしたとかということをどれほど気にしているでしょうか?

あなたが人のことを考えている時は、そのほとんどが自己防衛の為だということに気づくことです。自分と人を比較して、何とかして安心しようとしていたり。

他人が自分のことをどう見ているのかを気にして、ずっと考え込んでみたり。このようにして、あなたのエゴはあなたが人のことを考えてくれさえすれば、安泰なのです。

なぜなら、エゴが生き延びるためには自己防衛が必須だからです。防衛のための原動力は恐怖であり、それがエゴの餌になるからですね。

「人のことを考えない、さもなければ決して成長しない」というグルジェフの言葉を再度噛みしめて、何度でも自分をチェックしてみて下さい。

自分にとって、自分が最も大きな存在でなければ、マインドは他人のことをいつも考えていると思って間違いありません。理想的には、自分がすべてだと言えるようになればいいのです。

それを経由しない限り、決して無私の愛へは至ることができないと知ることですね。

バランスを取る必要のない生き方

 

私たちのマインドは、大きく二つの部分に分裂しています。簡単に言えば、本来の自分と社会的な自分。あるいは、無邪気な自分と理性的な自分です。

その二つの部分が、ある程度いいバランスを保っていられるなら、人生は比較的問題なく推移するはずなのです。適度のストレスと発散のバランスが取れているということです。

一方で、無邪気な自分を抑えて、理性的な部分ばかりが過度に突出した生き方を続けるなら、いつかはそのつけがやってきて、一気に反転してしまうのです。

反転してしまったものは、いずれはまたその反動がやってきて、さらなる反転によって元に戻ることになり、結果としてこうした反転を繰り返すことになってしまうのです。

両者のバランスがとれていれば、勿論反転することもなく、安定した人生を継続することができるのです。けれども、最も理想的な生き方とは、バランスを取る必要のないものなのです。

そもそもなぜバランスを取る必要があるかと言えば、二つに分裂してしまったからなのであって、その分裂が小さくなって、もっと小さくなれば、次第にバランスを取るということすら消えてしまうのです。

それが中道とか中庸と言われる生き方です。マインドの分裂が極端に小さくなって、社会的な部分と無邪気な部分が統合されたような状態です。

この状態では、もうエゴが生き延びる術はありません。エネルギーを失ったエゴはいずれは消えて行くことになるはずです。

「私」が消えて行くとき、「無私」の状態、つまり本来の愛そのものになるのですね。

罪悪感は怖くない

誰にとっても、最もやっかいで避けて通りたい感情の一つに罪悪感があります。罪悪感によって、自分の存在を粉々にしてしまいたい衝動に駆られるかもしれません。

どうにもこうにも堪えることのできない罪悪感、生きていくことにストップをかけられてしまったように感じるくらいにどでかい罪悪感、でも罪は決して消えることがない。

そのように感じていれば、絶望的になってしまうのも無理はありません。けれども、罪悪感と言えども、それ以外のネガティブな感情と同様に、ただの感情なのです。

感情とは、思考によって創り出されるものであるため、その思考に変化が起きれば、その結果である感情にも違いが出て来るのです。

極端に言えば、どんな思考も停止してしまうなら、罪悪感であろうとどんな感情であろうと、発生することはないのです。だから、罪悪感は絶対に拭い去ることができないというものではないのです。

起きた事実は変わらないと思われるかもしれませんが、何が起きたかを定義するのが思考なのです。その思考が変われば、事実も変わるのです。

つまり、事実は決して真実ではないのですから、事実が絶対不変なものではありません。救われる唯一の道は、罪の償いではなく、事実を創作している思考から離れることです。

このことに気づくなら、人生を深刻にとらえる生き方は影を潜めてしまうはずです。

人生の意味、目的は?

クライアントさんの中には、時々「人生の目的を知りたい」とか、「自分が生まれてきた理由は何か?」と言ったようなことに関心を持っておられる方がいらっしゃいます。

社会に順応してごく普通に生きている人であっても、そのような本質的な疑問に意識が向くことはあるかもしれませんね。でも一般的には、現実に忙しくしていれば、自然と忘れてしまうのです。

ということは、そういった疑問を抱えてセッションにいらっしゃるということは、何かしら人生がうまく行っていないという感覚を持っているということです。

自分が生きている意味や目的、人生における価値や意義といったことに意識を向けることは、決して悪いことではありません。

というよりも、自分のことをしっかり見つめているという証拠でもあるのです。けれども、そのような本質的な疑問が持ち上がったなら、気づいて欲しいことがあるのです。

それは、思考が作った物語の中で起きた疑問だということ。ひとたび、思考の世界から抜けることができたなら、そのような疑問は一瞬にして消えてしまうのですから。

目標や目的、意味や意義、価値などの観念にとらわれてしまうのは、そうしたものがこの現実の根っこに常にあるものだからです。

繰り返しますが、そのようなものは単なる観念であり、観念は思考の産物であって、どんな実体もありはしないのです。このことに深く理解できるなら、もう自分の人生の意味や価値を追い求めることもなくなります。

ところが、それではこれまで目標を掲げて頑張ってきた自分は困ってしまうのですね。何の目的もない人生なんて、どんな意味も見出すことのできない人生など、続けていけるはずがないと。

けれども、ここでもう一度気づく必要があるのです。そうやって投げやりな気持ちになるのは、エゴが困り果てて元に戻そうとしているからに違いありません。

そんなエゴの反応をそっと観てて上げることです。そうすれば、あなたはエゴから距離を取ることができるようになるはずです。

真の感謝とは

感謝できない奴はダメだ!という言葉を聞いたことがあります。それはきっと私だけではないはずです。ここだけの話し、この言葉はとても苦手でした。

というのも、自分の心のどこをどう探しても、感謝のかの字も見つからなかったからです。小学生のころから、クラスの女の子が授業中に感謝について先生と討論しているのを聞いて、ピンときませんでした。

大人になっても、まったく感謝とは縁遠い毎日でしたので、本当に冒頭の言葉は自分を暗くさせる響きを持っていたのです。

サラリーマンを辞めて、今の仕事をするようになったときに初めて、セッションに来て下さるクライアントさんに感謝のような気持ちが芽生えたのが嬉しかったのを憶えています。

この仕事でやっていけなかったら、自分の未来はどうなってしまうのだろうと思っていた時でしたので、それはとてもありがたかったのですね。

けれども、私が本当に感謝の気持ちと一つになれたのは、それまでの感謝とはかなり違った体験だったのです。それは、何も理由のない感謝だったからです。

普通は、~してもらったから感謝というように、感謝には明らかな理由があるものですね。ところが、その時の体験は、どんな理由も何もない状態での感謝だったのです。ただただ感謝!

それは自分でも相当に驚いたのですが、でもこれが感謝という言葉以外に表現しようがないとその時にはっきり分かったのです。

その体験以来、同じような体験はなかなか来なくなってしまったのですが、それでも理由のある感謝に対する味方が大分変化してしまったのです。

真の感謝には、何の理由も必要ないということ。一度でも体験したことのある人なら、きっと分かるのだろうと思うのです。感謝は愛の一つの形態だということも。