ただ観ていること

自分の人生に何かが起きれば、すぐにその中へと巻き込まれてしまいます。巻き込まれるのは、自分の身体やマインド、そしてハートも含まれます。

そのときに、巻き込まれていると同時に、まずは自分の身体を監視するのです。たとえば、身体のあらゆる箇所の筋肉がいつもと違ったふうになるのを見るのです。

そして身体以上に影響を受けるのが自分のマインドです。マインドはおそらく、巻き込まれることを生業としているので、その気になればいくらでも巻き込まれ続けることができるくらいです。

そのマインドも監視し続けるのです。身体へと向かっていた意識は、それを外に残してマインドへと向かい、更にそのマインドを外へ残したままで、今度はハートへと向かうのです。

ハートが自分自身だという感覚をしっかり監視するなら、最後にはそのハートさえも外へ残して内へ内へと進んで行くことになるのです。

身体もマインドも、そしてハートも自分ではないと排除し続けることによって、最後の最後にはもう他に何も排除するものが残っていないという地点がやってくるのです。

その時に、そうやって排除してきたものの総体こそが、これまでの自分だったということに気づくことになるのですね。

ただ観るものがすべてなくなったときに、ようやく観ているものを観るということが起きるのです。それは論理では起こり得ないこと。

それでも、真実は論理などものともせずに起こしてしまうのですね。