誰でもなさに寛ぐ

人は誰かになろうと奮闘努力するのです。自分が何者かはっきりしないのでは、この社会で生きていくことは到底不可能だと感じるからです。

勿論社会に出る前の子供の頃から、自分のアイデンティティを確立するべく頑張るわけです。そのためには、どうしても自分と他人を比べることになるのです。

そして必ずや、優劣をつけて比較して、劣の数よりも優の数を少しでも増やそうと努力するのです。それが叶えば少しは安心できるのです。

そうして誰かになろうとしているということにすら、全く気づくことがなくなってしまうのです。なぜ誰かになろうとするのか?

それは当然、元々は誰でもなかったからです。そして本当の私たちは生まれた当初と何も変わらず、特定の誰でもないのです。

そこにあらゆるレッテルを貼り、実績を積むことで自分が他の誰とも同じではないということを証明しようとするのですね。

けれども、瞑想していると自分の誰でもなさが非常に明確になってくるのです。そしてその誰でもなさでいられることが、ことのほか心地いいということに気づくのです。

私たちが本当に寛いでいられるのは、誰でもないままでいられるときだけなのです。そろそろ誰かになろうとか、誰かでいようとするあらゆる努力から解放してあげたいものですね。