自分を掘り下げて行くと…

一口に「自分」と言っても、その自分にじっくり意識を向けていると分かるのですが、様々なレベルの自分がいるということに気づくことができます。

最も表層にいて、他人に直接見てもらえる自分は、たとえば自分の気持ちや意見を周囲に表現している時の自分です。

この自分はよく知っている自分の一部ですが、あまり意識的だとは言えない感じがします。私たちはとかく表面的であることと意識的であることが同じだと勘違いしがちです。

奥にあって隠れている方が、無意識的だろうと思うわけです。けれども、この他人と直接相対する自分は私の中では無意識的な気がします。

そして少し内側に入って行くと、他人からはあまり見えない内省的な自分がいます。黙っている時、あるいは独りでいて気分を感じていたり、思考に絡め取られていたり。

この自分もやっぱり無意識的なことが多いのです。そして更に内側を覗き込んで行くと、そこでようやく意識的な自分に出会うのです。

その自分は、今この瞬間にだけいようと心がけている自分であり、より深い部分にはどんな自分がいるのだろうと探索しています。

マインドが静まっているときには、もっと奥の自分がいることにも気づけるのですが、ここからは大きさが不明な感じがするのです。

そしてそれ自体が自分を覗き込んでいる自分ではないかと疑っているのです。そうやってこの辺まできて、どうも自分が曖昧になってくるのです。

この先は言葉では表現できないところですが、今この瞬間にだけいるのだろうということだけが何となくしっくりくる表現です。

この何層にも続く自分を深い井戸のように掘り下げて行くことを繰り返していると、気分の悪さやなんだかモヤモヤしていた気持ちが、自然と晴れて行くことに気づけます。

ぜひ試して見て欲しいと思います。

ブログは月を指し示す指のようなもの

このブログでは、いつもできるだけ真実の方を向いて書いているつもりなのですが、ふと思うと真実そのものからはほど遠いとも感じるのです。

それは仕方のないことなのですが、どう頑張ったところで言葉という思考によって、真実を表現することなど土台無理なことですから。

ブログを書いた後、思考が止まるまでじっとしていると、文字にした内容がまったくもって見当外れだと分かるのです。

たとえば夜空に浮かんでいる月を見て欲しくて、その月を指差したとします。すると指差された方は、まず初めにその指を見るわけです。

ブログを読んでいただいているのは、ちょうどこの状態と同じなのです。ブログの内容は、月を指し示す指なのです。

指を見ている状態なのですね。本物の月とそれを指し示す指が、どれほどかけ離れたものかは誰でも分かることですね。

だからブログを読んだら、このブログからすぐに離れて欲しいのです。それは月に目を向けるためには絶対に必要なことだからです。

真実という月は、ブログの中にあるのではなくそれを見ようとする一人ひとりの意識の中にこそあるということです。

マインドという牢獄から出るには?

私たちは自分でこしらえたマインドの中にいて、満ち足りた人生を生きようとして精一杯頑張っているのです。

ところがそのマインドというのは、常に闘ったり防衛したりしているために、どこまでいっても楽になることがありません。

そうしてホトホトいやになった人が、自分のいるこのマインドこそが苦悩の元凶だったと気づくようになるのです。

そして何とかしてこの牢獄のようなマインドから抜け出るにはどうしたらいいかと考え出すのですが、残念ながら解決策などありません。

なぜならそう考えている「私」こそが、そのマインドそのものだからです。だから「私」がマインドの外に出るということは原理的に不可能なこと。

真実はと言えば、ありがたいことに私たちの本質は決してマインドの中に在ったことはないのです。マインドとは思考によってでっち上げられた架空の代物だからです。

マインドも、その中で苦しんでいると思い込んでいる「私」も、どちらも同じ架空のものだと気づくだけでどんな問題も初めからなかったと分かるのでしょう。

だから誰でもなく、ただ今ここに在ればいいだけなのですね。

脳には夢と現実の違いがない

私たちのマインドの9割は無意識的な部分であって、残りの1割だけが意識的な部分だということは、このブログでも何度もお伝えしていることですね。

その9割の無意識的マインドにおいては、夢と現実の違いが分からないのです。というよりも、夢と現実という区分けそのものがないのです。

無意識的マインド(脳)とは、思考と感情のエネルギーのるつぼなのです。だからすべてが物語であり、それは私たちが起きて活動している間にも、ずっと夢を見続けているのです。

夜寝ている間だけ夢を見ているわけではないということ。無意識的マインドは、そういう意味で夢の住人なのです。

一方の意識的マインドの部分とは、私たちが日頃自覚を持って生きている部分であり、大多数の人は夢と現実は真反対だと思い込んでいるのです。

なぜなら、その部分とは意識を伴った思考で出来ているからです。意識的ではあるものの、常に思考をともなった生活をしているために、現実は物語だと気づけなくなっているのです。

そしてもしも、意識的マインドから思考を落とすことができるなら、そこでようやく夢と現実は同じ思考の産物だと気づくのです。

そのとき初めて、過去と未来にエネルギーが発散することなく、すべてのエネルギーが今この瞬間へと凝縮するのですね。

誰でもなさに寛ぐ

人は誰かになろうと奮闘努力するのです。自分が何者かはっきりしないのでは、この社会で生きていくことは到底不可能だと感じるからです。

勿論社会に出る前の子供の頃から、自分のアイデンティティを確立するべく頑張るわけです。そのためには、どうしても自分と他人を比べることになるのです。

そして必ずや、優劣をつけて比較して、劣の数よりも優の数を少しでも増やそうと努力するのです。それが叶えば少しは安心できるのです。

そうして誰かになろうとしているということにすら、全く気づくことがなくなってしまうのです。なぜ誰かになろうとするのか?

それは当然、元々は誰でもなかったからです。そして本当の私たちは生まれた当初と何も変わらず、特定の誰でもないのです。

そこにあらゆるレッテルを貼り、実績を積むことで自分が他の誰とも同じではないということを証明しようとするのですね。

けれども、瞑想していると自分の誰でもなさが非常に明確になってくるのです。そしてその誰でもなさでいられることが、ことのほか心地いいということに気づくのです。

私たちが本当に寛いでいられるのは、誰でもないままでいられるときだけなのです。そろそろ誰かになろうとか、誰かでいようとするあらゆる努力から解放してあげたいものですね。

不安と孤独は生来のもの

私たちの根っこにあるものとは、不安と孤独なのです。深いところでは、誰しもが全く同様にその二つを感じていて、そのことに気づいているのです。

ところが、私たちは他人のことについては分からないために、「自分だけ」が不安と孤独に苛まれていると思い込んでしまうのです。

それが惨めさの原因なのです。人生というのは、突き詰めれば自分の惨めさをなんとかして払拭しようとする努力の連続なのです。

自分も周りの人たちと同じように、不安と孤独から逃れて惨めな自分ではなくなろうとするわけですが、実は誰もが不安と孤独の中にいるということに気づけないのです。

他人は不安ではなさそうだし、友達に囲まれて孤独ではなさそうだと見るのです。そうした表面的なことに騙されてしまうのです。

何度も繰り返しますが、私たち(エゴ)の個別性というのは必ず不安と孤独を持たざるを得ないものなのです。これはすべての人に共通のこと。

例外はありません。ただ気づいているかどうかは別ですが…。だからその不安や孤独から逃げることなく、その中へ入っていくことです。

そうして初めて、その奥にある全体性に目覚めることができるのです。それだけが、不安と孤独から本当に解放されることになるのです。

人生には二つの失望しかない

誰もが自分だけは失望したくないと思っているのです。そしてそのために頑張るのですが、本当は人生には失望しかないということを見ようとしません。

実は人生には、二種類の失望だけがあるのです。一つ目の失望とは、望んだものがあって残念ながらそれが手に入らなかった時の失望です。

そして二つ目の失望とは、望んだものが手に入ったときの失望です。一つ目の失望については勿論だれもが気づいているのです。

けれども二つ目の失望については、不思議なことに何度繰り返しても気づくことがないのです。なぜなら、その失望を隠すために次の望みを生み出すからです。

望んだものが手に入ったそのすぐ後に、また別の望みを作り出してそれに向かって邁進するのです。だから本人としてはそこにも失望しかないということが分からないのです。

真に満たされて失望から解放されるなら、もう二度と別の望みを作り出すはずはないのに…。「失望」の意味を改めて見ればいいのです。

読んで字のごとく、望みを失うという意味です。つまり、それが得られたならばそれを得ようとしていた望みは失われるということです。

なぜなら手に入ってしまったものを望むことは不可能だからです。エゴにとっては何であれ未来に向かって望みを持っていないといられないのです。

だからどんな望みが叶ってしまったとしても、そこでその望みを失ってしまうために、新たな望みが必要になるということです。

その結果、エゴがある限りは、人生には失望しかやってこないということに気づけば、今この瞬間に意識を向けられるようになるのですね。

現実と言う名の夢

言葉として「現実」の反対語は、辞書によると「空想」とか「夢想」と言うことになるようです。つまり現実の反対は「夢」ということです。

夢というのは、空想している自分に気づいていない状態で起きることですね。どれほどリアルな夢であっても、作り上げた空想の中の物語だったと気づけば、夢は終わってしまいます。

一方で、現実と夢の類似点を捜すとしたらどうなるでしょうか?どちらも自分が主役で、その物語を体験して、反応している自分がいるということ。

そしてその物語はどちらにしても自分の中の思考がでっち上げているということ。物語は実在ではないということを見抜くと、現実と夢が非常に似たものであると分かるのです。

そしてどちらの物語も、いずれは跡形もなく去って行くものです。継続する時間は問題になりません。永遠からすれば、一分も百年も違いはないのですから。

まったく儚いものです。私たちが生きているこの現実も、結局夢のようなものであると深く理解するなら、何があっても物語の内容がどんなものであっても構わないのです。

だからもっと気楽にいていいのです。勿論、深刻になってしまう夢でもいいのですが、どうせ夢ならしたいようにしたいものですね。

現実という夢の中でどれほど頑張って何を成し遂げたとしても、目覚めてしまえばすべては儚く消え失せるのですから。

思考が分割を生み出す

私たちは通常、全体というのは各部分を集めたものだと思っているのですが、それは真の全体性ではありません。

全体性というのは、決して部分の総和ではないのです。全体性とは分割することのできないものだからです。これとあれとそれをまとめたら全体になるというのは、思考がやっていることです。

思考によってあらゆるものが分割させられているのです。実在にはどんな分割もないのですが、思考の中ではそのことが分からないのです。

あのリンゴとそのリンゴというように見るとき、それはただ見ているのではなく思考を使ってあれとそれを分割しているのです。

それは真実ではないということを見抜くこと。そのためには、表面的にも内面的にも言葉を使わずに見る練習をすることです。

心の中でも完全なる無言の状態でただ見ることができるなら、あれとかそれといった分割が消えていくのが分かります。

目の前に広がる世界を、まるで一枚の絵を見るように一瞬にして全体を見るという方法も役に立ちます。絵のあの部分、この部分というように見ると、そこに思考があり時間が生まれるのです。

もしも分割がなければ、そこに時間が存在することは不可能となるのです。そのときには、どんな物語も消えて、ただ全体性だけが厳然と広がっているのです。

どちらでもないが真実

何か質問をされて、ただ黙っているだけなら相手に変な奴と思われてしまうかもしれませんね。イエスかノーか答えてよと言われてしまうかもしれません。

実際イエスでもノーでもないと答えたら、きっと優柔不断な人物と思われてしまうでしょう。人はいつもどちらかに決めたがるものなのです。

好きなのか嫌いなのか、正しいと思っているのか間違っていると思うのか、信じるのか信じないのか、どちらかはっきりさせたいのは、実のところ思考の特徴なのです。

思考は本来、論理的なものなので曖昧なものが苦手なのです。つまり思考こそが、どちらかにはっきりさせないと次に進まないのです。

けれども科学の進歩とともに解明されたのは、究極まで追い詰めるとあらゆるものは曖昧だということ。たとえば電子はあそこにあるとか、ここにあるということを確率でしか表現できないのです。

この宇宙の一番根っこである量子はすべて、その曖昧さ、不確実性の中にあるのです。ということは、この宇宙の神秘とうまくやっていくためには、「どちらでもない」でいることが必要なのです。

この「どちらでもない」こそが、仏陀が言う中道という生き方なのですね。それが非二元、今流行りの表現を使えばノンデュアリティなのです。