考えないこと ≠ ボーッとすること

意識的に思考を鎮めることができない人に限って、何も考えずにボーッとしていたら馬鹿になってしまうのではないかと心配するのです。

もしかしたら、子供の頃に何か困ったことがあったら自分の頭で考えて解決するようにしなさいと、教わったのかもしれません。

確かに考えて対処することができたという経験は誰にでもあるはずですね。それはそれで結構なことなのですが、だからといって思考に頼りすぎるのはエゴを強化する一方なのです。

もしも常に考え事をしている自覚があったり、心を静かにする時間を持てないでいるのでしたら、思考に乗っ取られてしまっているとみて間違いありません。

思考は決して悪者ではなく、この上なく便利なツールなのですが、あくまでもツールはツールです。思考というツールを使う側でいなければおかしなことになってしまいます。

主従逆転して、思考が主人を乗っ取ってしまうと、思考を鎮めようとしてもそれができなくなってしまうのです。こうなったら赤信号が灯ったと知ることです。

何も考えないということと、ボーッとするということは同じではないと知っていますか?ボーッとしている状態とは確かに思考は鎮まっていますが、無意識的なのです。

本当に大切なことは、思考を鎮めてもボーッとせずに意識的でいることです。それが瞑想状態なのです。頭が馬鹿になるどころか、頭脳明晰になるのです。

ルシッド(lucid) とはこの明晰さのことを意味します。この社会の中で生きていくためには、それなりに考えることは必要なことだと思います。

だから大切なことは、メリハリをつけるということです。1日のうち、たとえ5分でもいいので何も考えずにただ静かにしている時間を持つようにすることです。

練習していくことで、次第に思考が鎮まっていくときのなんとも言えない至福感に気づけるようになり、自分の本質は思考ではなく意識だということにも、気づくようになるはずです。

先延ばしにしたって構わない

人生いろいろあって、都合のいいことが起きれば、逆に都合の悪いこともやってきます。都合の悪いことには、誰だって向き合いたくないものですね。

それから逃げずに向き合う必要があると理解するには、ある程度経験を重ねて学ぶ必要があるのです。だから、子供の時には闘うか逃げるかのどちらかに自然となるのです。

大人になったところで、そうした子供の頃の習慣が馴染んでいて、いつまでたっても向き合わずに先延ばししてしまうことになるのです。

誰のものでもない自分の人生ですから、どのようにしても構わないし、人生の最後まで見ることをしなかったとしても、それも間違いではありません。

また次の人生でもしかしたら向き合うチャンスがやってくるかもしれないのですから。そのくらいに考えて、どんなことをしてもやってやろうと頑張らなくてもいいのです。

私は先延ばしを決して否定しません。バンジージャンプに挑戦しようとして、粘っても結局飛べずに諦める人を見ても、当然だろうと思うのです。

何が何でも向き合ってやろうとすると、それが新たな闘いとなってしまうということにも気づく必要があります。克服しようというニュアンスは、大抵は闘いとなってしまうのです。

向き合うということは克服ではなく、それとの和解です。だからこそ必死で頑張る系ではないということですね。

「誰でもなさ」こそが真の救い

ときとして静かに坐ることがあったら

目を閉じて感じてごらん

自分が誰であり、どこにいるのかを–

深く進んでごらん

すると不安になるかもしれない

なぜなら、深く進めば進むほど

あなたは自分が誰でもなく

ひとつの無であるにすぎないのをより深く感ずるからだ

by osho

 

1日のうちに何度もこの感覚になるのですが、最近ではクライアントさんとのセッション中にも感じるようになったのです。

というよりも、普段よりもセッション中の方がはるかに意識的でいられるのでしょうね。私にとっては、セッションは一種の瞑想のようなものなのです。

セッションを意識して、クライアントさんと対話している自分をただ見ている感覚が、とても強くなるようになったのでしょう。

この誰でもなさを感じていることが、一番の救いかもしれません。そうそう、このブログを書こうと思ってキーボードに手を置いたときにも、似たような感覚がやってきてくれます。

1日に1回、たとえ1分でもいいので、この「誰でもなさ」に浸る時間を作って欲しいと思います。自分が誰かである限り、本当の安らぎがやってくることはないのですから。

不安がないのも不安の要因

私たちはいつも、何らかの不安要素や解決すべき問題を抱えています。これさえこうなってくれたら、あれが片付いたら、この病気、この怪我が治ったら、等々。

とにかく今は途中であって、それには必ず終わりが来ると思っているのです。けれども、その終わりは、また別の懸案事項の始まりでもあるのです。

そうやって、エンドレスにいつもいつも何がしかの処理すべきお題目を持っているのです。そしてそれが解決される未来を見つめていきているのです。

そんなことを延々繰り返していてようやく気づく時がやってきます。ああ、不安を解決したらまた別の不安がやってくるし、不安がないことが不安になるのだと。

人生はどこかに向かっているように見えて、その実どこへも到達するところなどないのです。言って見れば、円周をグルグル回り続けているようなもの。

今この瞬間に満たされていないからこそ、未来への期待を捨てることができないのです。でも、もう未来も今の延長でしかないということを、しっかり受け容れることです。

歳を重ねてくると、そのことがより明確になってきますが、まだ若いうちは難しいかもしれないですね。唯一、思考が停止したときだけ、その円環からはずれてそれを見る側になれるのです。

 

人類全体の最大の勘違い

人類が共通して持っている最大の勘違い、それは自分が全体から分離した個人だという思い込みです。この勘違いが、人生という物語を紡ぎ出しているのです。

この思い込みはマインドの非常に奥深いところにあるために、通常はそれを看破することが困難になってしまっているのです。

また、その思い込みをすべての人がまったく同じようにしているために、決して気づくことなく人類の歴史とともに存続してきたのです。

勿論例外もあって、ごく一部の賢者や覚醒した人たちだけが、このことを悟り、伝え続けてきたという歴史があるのも事実です。

深い思い込みは、本人にとっては完全なる事実、あるいは真実となってしまっているために、死ぬまでこの勘違いには気づかないのです。

ところが最近では、ごく普通の人の間でもこのことが話題になるようになり、人類の意識レベルが大きく変化しようとしている感じがするのです。

どこをどう見ても、やっぱり自分には固有の意志があって、自律的に生きている個人としか感じられないという事実を、無理やり捻じ曲げる必要はないのです。

個人としての感覚を否定するのではなく、それはそれで置いておきながら思考から離れることで、あらゆるところに全体性が充ち満ちていると感じることもできるのです。

所詮この勘違いを思考で取っ払うことはできないのですから、個人を否定する代わりに全体性に意識を向ける練習をすることが大切なのでしょうね。

自我とは蓄積した無知のこと

最初の呼吸は全体によってなされる

そして、もし最初の呼吸が全体によってなされるのだとしたら

ほかのあらゆることも

あなたの行為ではあり得ない

もし自分で息をしていると思ったら

道を踏みはずしているのだ

そしてこの誤ったステップのために

自我が生まれる

自我とは蓄積した無知のことだ

by osho

 

こんな反論が聞こえてきそうです。それは、自分の意志で息を止めたり、深呼吸したりすることができるのだから、それは全体がやっているのではないと。

確かに私たちには自分に固有の意志があると感じていますが、それは事実ではなくただそう感じることができるだけです。

真実は、固有の意志があるという思い込みも含めて、全体がやっていることだという深い理解こそが、大切なのですね。

恩と感謝について

人は恩を感じる生き物ですね。犬などの動物であっても、世話になった恩を覚えているという話を聞いたことがあるので、人間であれば当然のことです。

『一宿一飯の恩(義)』という言葉がありますが、一晩泊めてもらって夕食をご馳走になっただけでも、その恩を忘れるようではいけないということですかね?

そういう戒め的な使い方をするのでしょうけれど、基本的に感謝の気持ちのような自然発生的なものに対しても、訓戒をからめることに、違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

まったく同じ親切を好きな人からされるのと、嫌いな人からされるのとでは、きっと感謝の気持ちにも違いがあるように思いますが、それが人の心というものです。

だから恩とか感謝という気持ちには、注意が必要なのです。恩というのは物理的な事柄であって、それに対して感謝を感じるかどうかということです。

少しも感謝の念を感じていないのに、恩があると認識したところで、そこにいったいどんな意味があるというのでしょう?

大切なのは恩ではなく、感謝の方であるのはいうまでもないことですね。人は時として恩を防衛の手段として利用することがあるのです。

たとえば、嫌悪感を感じている人に対して恩があると思うことで、その嫌悪感を否定もしくは抑圧してしまうのです。

命の恩人にセクハラされても文句が言えないのと同じようなものです。大嫌いな父親だけれど、育ててもらった恩があるから、面倒な話でも聞かなければいけない等々。

こうしたことが続けば、必ず自己犠牲が溜まっていつかは爆発するか、鬱々としてくることになるのです。人に対して、恩があると思っても、その過去を決して引きずらないこと。

恩は恩、それは過去のことだと割り切ること。感謝の気持ちでさえ、「ありがとう!」で終わりにすることです。未来に向けてそれを持ち歩かないことですね。

惨めさから逃げない

どんな感情も悪いものではないのですが、ことさら怒りをいけないものだと思っている人が多いのではないでしょうか?

そのために、怒りを露わにしたすぐその後で、また怒ってしまったけれど、もう金輪際怒らないようにしようと頑張るのです。

けれどもそんな決意を何千回したところで無駄なことは、本人が一番よく知っていることです。決意よりも、深い理解こそが必要なことだと気づくことです。

怒りの下には必ず惨めさが隠れています。見方を変えれば、まず初めに惨めさがやってきて、それを隠す目的で怒りという覆いを被せるのです。

つまりその惨めさから一歩も逃げずに、それを真正面から見ることができれば、怒りは不要なものとなるはずなのです。

だから怒りを悪者扱いすることをまずやめて、怒りを感じたら惨めさから自分を守ろうとしているのだと気づけばいいのです。

それができれば、怒りは自然消滅してしまうでしょう。ただし、今自分が怒りを感じているということに気づくためには、そのときに充分に意識的である必要があるのです。

そしてもう一つ理解しておくべきこと、それは惨めさの原点です。エゴは生まれながらにして惨めさを抱えているということ。

個人として生きることの不安と孤独という惨めさがどこまでいっても付いて回るのです。そのことも合わせて理解しておくことですね。

生には間違いも失敗もない

間違ってはいけない、失敗してはいけないと思えば思うほど慎重になって、場合によってはやりたいことがあるのに二の足を踏むことがあります。

やりたいことをやらずに終わってしまうことほど、つまらないことはありません。それではせっかくの生が台無しになってしまいます。

人生には確かに間違いや失敗がありますが、生にはそんなものは最初からありません。人生というのは、個人がいるという思い込みの上にあるものです。

個人がいなければ、人生もないのですから、間違いや失敗も存在しないことになります。人生は個人のものであり、生は全体性そのものです。

こうしたことを深く理解できれば、人は大胆になり、勇気を使う必要もなく躊躇せずに行動することができるようになるのですね。

17年前にサラリーマンを辞めたときにも、勇気はまったく必要ありませんでした。生は無限ですが、人生には限りがあります。

思い込みであれ、たった一度の人生ですから、好きなようにすればいいのです。夢の中でやりたいことをとことんやって、目覚めとともに夢の結果も完全に無に帰するのですから。

部分よりも全体を信頼する

私たちにとって、最も難しいことであると同時に、最も大切なことでもあること、それは意識的であるということです。

充分に意識的であり続けることができるなら、人は必ず目覚めるからです。目覚めたなら、もう決して闘うことはなくなります。

なぜなら、そのときには個としてのマインドを信じるよりも、全体性を信頼するようになるからです。部分よりも全体、マインドよりも存在を信頼するなら、力が抜けます。

完全にリラックスするようになったら、存在が起こすどんな事柄であっても、それを100%受容することができるようになるのです。

動物までのレベルではまだ無意識のうちにあったものが、人間は自意識を持つようになったのですから、これは革命です。

けれどもこのままでは、まだまだ無意識状態が幅を利かせているために、目覚めているとはとても言い難い状態のままです。

エゴは悪者ではなく、意識的であり続けるための初めのステップなのですね。その意味では、エゴは必要だったのですが、最終目的地ではありません。

エゴが纏っている思考さんに対しても、常に意識的であるならそれは単に有用なツールの一つに過ぎなくなるだけです。

常に意識的であり続けることで、無意識部分に光が当たり、エゴを含めた影は消えて行き、自己の全体性に気づくことになるのでしょうね。それが目覚めた時に起こることです。