「癒しから覚醒へ」の意味

このブログのタイトルである、「癒しから覚醒へ」というのはどういう意味なのですかと、先日あるクライアントさんに聞かれたので、この場を借りて再度明確にしておこうと思います。

セラピストの仕事を長年続けてきて、とても重要なことに気づいたのですが、それは癒しというのは所詮エゴの癒しだということです。エゴというのは、日本語では自我です。

個人としての私たちの中心となっている自我を癒すのですから、それは当然のことなのですが、実は自我は完全に癒されてしまったら消えてしまうという性質を持っているのです。

何かと激しく闘っている時と、ゆったりとくつろいでいる時とで、どちらがより自分の存在を明確に感じることができるでしょうか?もちろんそれは前者の方なのです。深いやすらきの中では、自分は希薄になることを誰もが知っています。

つまり、私たちの自我はゆったりと安心の中にいたいと思う反面、消えたくもないと思っているので、癒しを消えていかないレベルでストップさせてしまうのです。だから、癒しても癒してもきりがないのです。

自我は自分が消えないようにと、どこかで踏ん張っていなければならないというわけです。不安や苦しみ、不足感などがけっしてなくならないのはそういう裏事情があったのです。

だからといって、癒しそのものを否定するつもりはもちろんありません。癒しというのは、自我が活動している物語を、より生きやすいようにすると同時に、自我そのものは救われることはないと気づくためにあるのです。

そして真の救いは真実を見据えること、私たちの本質は個人という自我などではないと気づいていくこと。それ以外にはないのです。覚醒とは、自分の本質に目覚めるという意味です。

癒しは覚醒するための助走なのです。地上をどれだけ走ったところで飛び立てなければ、そこに救いはないということです。目覚めるということは、物語から垂直に飛び立つということですね。