「癒しから覚醒へ」の意味

このブログのタイトルである、「癒しから覚醒へ」というのはどういう意味なのですかと、先日あるクライアントさんに聞かれたので、この場を借りて再度明確にしておこうと思います。

セラピストの仕事を長年続けてきて、とても重要なことに気づいたのですが、それは癒しというのは所詮エゴの癒しだということです。エゴというのは、日本語では自我です。

個人としての私たちの中心となっている自我を癒すのですから、それは当然のことなのですが、実は自我は完全に癒されてしまったら消えてしまうという性質を持っているのです。

何かと激しく闘っている時と、ゆったりとくつろいでいる時とで、どちらがより自分の存在を明確に感じることができるでしょうか?もちろんそれは前者の方なのです。深いやすらきの中では、自分は希薄になることを誰もが知っています。

つまり、私たちの自我はゆったりと安心の中にいたいと思う反面、消えたくもないと思っているので、癒しを消えていかないレベルでストップさせてしまうのです。だから、癒しても癒してもきりがないのです。

自我は自分が消えないようにと、どこかで踏ん張っていなければならないというわけです。不安や苦しみ、不足感などがけっしてなくならないのはそういう裏事情があったのです。

だからといって、癒しそのものを否定するつもりはもちろんありません。癒しというのは、自我が活動している物語を、より生きやすいようにすると同時に、自我そのものは救われることはないと気づくためにあるのです。

そして真の救いは真実を見据えること、私たちの本質は個人という自我などではないと気づいていくこと。それ以外にはないのです。覚醒とは、自分の本質に目覚めるという意味です。

癒しは覚醒するための助走なのです。地上をどれだけ走ったところで飛び立てなければ、そこに救いはないということです。目覚めるということは、物語から垂直に飛び立つということですね。

何もなさを観る

私たちは、何となくであろうがはっきりとであろうが、自分はこの身体だと思っている部分を持っているのです。身体は目に見えるし、いつも一つのまとまりとして存在してくれているので、分かりやすいのです。

おかげで、自分があっちにいたりこっちにいたりということがなくて済むのですから、身体は都合がいいものですね。けれども、身体をどう細かく切り刻んで行ったとしても、身体のどこかに自分がいるとは思えません。

ということは、身体=自分という具合にシンプルに感じているわけではないということです。身体の中のどこを捜しても、自分を見つけることができないとしたら、一体自分はどこにいるのか?

身体ではないとすると、心だという声が聞こえてきそうです。心とか、マインドという目には見えないけれど、まさしくここに自分がいるという感覚があるので、見つけられなくても私たちはそれほど困らずにいるのです。

マインドがどの辺りにあるのかも明確には分かりません。そして、内面深く、さらに深く進んでいくと、マインドというものも曖昧になってくるのです。そのときに、自分は身体でもマインドでもないと気づくことになります。

すべての自己同一化がはずれたときに、これまで想定していた自分というものがもろくも崩れ去り、後には何も残らないことに気付かされるのです。つまり、何もなさこそが、自分の本当の姿だったということ。

何もなさということは、一つのまとまりなどというものとは程遠く、どんな境界もありはしないのです。所在というものもないし、大きさも何もかもが無いということです。

これを感じようとしたときに、恐怖がやってくるならそこにはまだマインドと同化したエゴがあるということです。日常の生活をこなしながらも、こうした何もなさをどこかで感じつつ生きることができるなら、5年後10年後には何かが変わってくるでしょうね。

 

 

社会的マインドと反社会的マインド

今朝、バスタブに浸かってのんびりしているときに、ふとあることを思い出していたのですが、それは子供の頃に今思えば小さな湯船に水を張ってもらって、そこで独り遊びをしていたことです。

これまた小さな浮き輪を浴槽に浮かべて、その中に腰を入れ込んで浮かんでいたのです。本人は、まるで大海原の中をイカダか何かで漂流している気分。誰もいない自分独りだけの別世界。

その頃の自分にとっては、格別の時間だったのだなと思うのです。友達と時間を忘れて遊ぶことも多かったのですが、その一方では独りの時間をこよなく楽しむ自分もいたということです。

このような二面性は大人になっても残っていたと思います。社会の中でうまくやっていかなければというやや野心的な自分と、そんなことには興味がないという反社会的な自分。

こうした分裂を抱えて生きてきたために、何をやっても中途半端な人生になってしまったなという後悔のようなものもあるのですが、ようやくここ数年の間にそうした分裂が小さくなってきたのです。

社会的なマインドと反社会的なマインドの両方が小さくなって、今一番自分の中で大きくなってきたのは、そのどちらでもない部分なのです。

結局、社会の中にいて社会に迎合するでもなく、同時にけっして社会に背を向けるでもない、そうした生き方ができるようになってきたのかなと。

水の中にあってけっして水に濡れることのないハスのような生き方ができればいい、それをブッダは中道と呼んだのですね。

心のスピードを落とす

心がスピードを落とすにつれて
二つの思考の間の隙間が見えるようになるだろう
そして、そうした隙間の中に
あなたは自分自身を見出すだろう
そうした幕合では
ひとつの雲が去って
次の雲が来ていない
その幕合、空間の中に
あなたは青空を見ることができる
その青空こそあなたなのだ

by osho

心のスピードを落とすって言われても、具体的にはどうしたらいいのだろう?と考えるかもしれませんね。簡単に言えば、闘うことをやめてしまえばいいのです。

あるいは、戦略的に生きることを放棄するということです。あれこれ考える理由はたった一つ、何とかして自分を守って安心しようとするからです。

これが続くと、あなたはあなた自身から離れてエゴのコントロール下にあるようになってしまうのです。そうなると、自分自身を見出すことが難しくなってしまうのです。

雲と雲の幕間を思い出すことができるなら、それまでずっとリアリティのある物語の中で生きてきたことを知るはずです。けれども、物語は雲である思考が作り出した幻想です。

とりあえず、深呼吸してみましょう。そして少しぐらい傷ついてもいいや!と自分に声をかけてあげるのです。

一時的であるものの、それだけでも心のスピードは緩んでくるはずです。そうなると、どこからともなくあの至福が訪れてくれます。

その至福こそが青空であるあなた自身ということですね。こうした体験を何度も自分に味あわせてあげて下さい。そのスペースを知れば、何があっても大丈夫だと分かるはずです。

 

過去全体がエゴ

エゴとは過去、過去との連続性–
エゴとは
あなたが今まで為したすべて
あなたが今までに蓄積したすべて
カルマ<業>のすべて
教育され条件づけられたすべてで
欲望すべて
過去育んだ夢のすべて・・
過去全体がエゴだ–

by osho

私たちはいつも過去という臓物を抱えながら生きているのです。未来でさえ、過去という土台なしにはそれを考えることはできません。だから、人生とは過去の蓄積でできているということです。

過去があらゆる物語を作り込むベースなのです。過去がなければ、どんな物語も存在することは不可能です。けれども過去とは思考の中にだけあるものであって、けっして実在するものではありません。

だから人生という物語は実在しないといつも言っているのですね。私たちは、食べたら排泄します。それが自然のどおりだからです。掃除機でさえ、吸い取ったゴミを一時的には溜め込みますが、いずれはまとめて捨てられます。

過去が実在しないとしても、思考の中にどんどん蓄積していけば、それは巨大な化け物のようになっても不思議ではありません。その一方で、エゴは表面的にだけ、都合の悪い過去をなかったかのように扱うのです。

だからことは複雑になってしまうのです。溜め込むだけ溜め込んでおいて、忘れてしまうのですから、厄介な状態に陥ってしまうのは当然のこと。

仕方ないので、まずは忘れたふりをしていることを見抜いて、できるだけ過去を見てあげることです。その過去には感情のエネルギーも含まれます。瞑想ができるようになるまで、過去のエネルギーを解放するのです。これが癒しです。

そして、いつかは瞑想が深くなって隠されていた過去に光を当てて、その炎で過去のすべてのエネルギーを焼き尽くしてしまうなら、一瞬にしてエゴは消えていくことになるはずです。

人は変わらない

初めて高校の時の同窓会に参加しました。これまでクラス会には何度か出席したことがあったのですが、同窓会は今回が初めて。

なぜなら、知らない人が沢山居るだろうと思うと、何となく気がひけるというのか、触手が動かなかったのです。

でも今回出席して見てよかったなと思うのは、高校生の自分が周りからどのように思われていたのかが、少なからず分かったからです。

結局自分はずっと変わらずに居たんだなと知ったのです。いいも悪いもなく、今と同じ自分がそこにはいたんだと…。

こうだった、ああだったと聞いて、若気の至りというのか、そういうのが沢山あったのですが、今でもそういうことは日常的にあるなと…。

自分を変えようとか、自分を改善しようとか、いくら頑張ったところで、無駄な努力であることがはっきりしたのです。

自分を変えようとする努力の何とバカバカしいことか。あるがままを受け入れることこそ、真に必要なことなのですね。

エゴは希望製造メカニズム

あなた方は希望製造メカニズム
そしてこの
希望製造メカニズムこそエゴにほかならない!
では、どうしたらいい?
実のところ、どうこうすることは何もない。
ただあなたがたにはもっと明晰な眼が必要だ。
唯一必要とされるのは
あなた自身を新鮮な眼で見ること

by osho

これを読んで、希望製造メカニズムのどこが悪いのだ?と思う人もいるかもしれません。明日への希望があってこその人生だというわけです。概ね私たちはそう教え込まれてきたのですから。

けれども、人によっては希望を製造し続けてしまうからこそ、今この瞬間に生きることができなくなってしまうのだと理解するのです。そうして、それなら希望をなくすにはどうしたらいいのだろうと考えるのです。

この、どうしたらいいのだろう?どう対処すればいいのだろう?というのも、実はエゴであり、未来に向けて希望製造メカニズムではなくなろうとする希望を新たに生み出すことになるのです。

そうやってエゴは巧みにエゴであり続けようとするということです。だから、osho はどうこうすることは何もない、と言っているのです。対処の代わりにただ観るということ。

明晰な眼で自分自身を見続けるということ。自己想起でも、自己留意でも、観照でもどんな言葉で表現してもいいのですが、意識を内側に向けてただ観ること。これだけが唯一、あなたが希望製造メカニズムから距離を置く方法なのですね。

 

自我は現在の中に存在したことがない

過去のことを考えるたびに”私”が入りこむ。
未来のことを考えるたびに“私”が入りこむ。
だが
あなたが今ここに在って、過去も未来も考えないときには、あなたの”私”はどこにいる?
あなたはそれを感じられまい。
それはそこにはない–
自我は現在の中には存在したことがないのだ。

by osho

とってもシンプルな表現ですけど、これこそが真実ですね。個人としての自分は、今現在を生きているような気がしているのですが、そうではないということです。

個人とは思考の中の住人なので、過去と未来という物語を渡り歩いて生きている気になっているということなのでしょう。ここは、なかなか分かりづらいところかもしれません。

そもそも人生というスパンで考えなければ、それを生き抜いてきた自分など見当たらないのですから。今この瞬間に人生は存在しないというのは、確かなことです。

いやいやそんなはずはない、あの頃は大変だったけど今の暮らしはだいぶ良くなったというように、今をちゃんと生きてるじゃないかと考えるかもしれませんね。

でもそれは違います。この場合の今というのは、この頃ということで、osho のいう今ここに在ってというのは、時間のことを言っているのではないのです。ほんの数秒前の過去とほんの数秒後の未来の間。

そこには時間は存在できないのです。そこに思考が入り込む余地はないのですから、思考の作り物である「私」が不在というのは当然のことです。いつも何かを考えているなら、このことは体得できないでしょう。

それでも大丈夫です。分かるかどうかとは関係なく、「私」という個人が存在しないのは、誰にとっても共通している真実なのですから。

瞑想とは意識的な熟睡のこと

自分のマインドに次のような質問をしてみて下さい。

寝ている間に、熟睡したいと思っているのか、それとも夢を見たいと願っているのか?さあ、いかがでしょうか?

楽しい夢、嬉しい夢、興味深い夢など、つまり自分にとって都合のいい夢なら、ただ熟睡しているよりも夢の中にいたいと思っていませんか?

これこそがエゴの特徴なのです。本当に疲れ果てて、とにかく泥のようにぐっすりと熟睡したいという場合も確かにあるでしょうね。

でもそういうときには、かなり疲弊しているときなのだと思うのです。心身ともに元気であれば、寝ている間であっても自分がいるという感覚を持ち続けたいのです。

熟睡は完全に自分が無になってしまうので、エゴはそこに魅力を感じることはないということですね。これで分かったと思うのですが、あなたのエゴは自分がいる感覚を強く持てる物語を欲しているのです。

それを完全に奪われてしまうのが、「死」だからこそ死ぬことをエゴは恐れているということです。私たちが人生という物語を握りしめて決して離したくない理由がこれで明確になりました。

エゴの望みとは、自分の存在が色濃くありつづけてほしいのです。だから残念ながら、エゴが真に至福を感じることはできないのですね。

瞑想が苦手な人が多いのも同じような理由によるのです。瞑想とは、意識的な熟睡状態のことだからです。

至福をもたらすもの

あなたがいればいるほど、病いは深まっていく。

あなたがいなければいないほど、あなたはますます健やかになる。

あなたがいなければいないほど、あなたは重さをなくしていく。

あなたがいなければいないほど、あなたは神性を得て至福に満ちる。

by osho

何かに熱中しているときというのは、概ね自分の存在が希薄になっているものですね。熱中しているターゲットの方にエネルギーが流れているからです。

だからそういうときには、比較的気持ちが楽になっているのです。もちろんその最中には気づかないものですが、あとで思い出したときに、大変でも何かに打ち込んでいる時の方が楽だったと分かるのです。

だから人はいつも何かに取り掛かっていたいのです。自分の本当の惨めさや否定的な感情から離れていられるからです。

ただし残念ながら、いつもいつもその状態でいられるというものでもありませんね。だから、ふと我に帰ったときにはまた重さがやってくるということです。

つまり何かに熱中することで、自分が希薄になったとしても、根本的な解決にはならないということです。osho が云うのはそういうことではありません。

外側の何かに集中するというよりは、何にも集中せずに意識を内側へと向け続けるということ。ただ見続けること。

観照者がいるのではなく、ただ観照があるだけ。そのことによって、100%個人としてあった感覚が薄れてくるのです。それが至福をもたらすのですね。