死はマインドにのみ訪れる

年齢を重ねてくると、若い頃には感じることのできなかった感覚がやってくることがあります。

それはややぼんやりとしたものではあるのですが、もう自分の視野の中に死というものが入り込んでくるということです。

死の影がちらついてくるおかげで、自分を見ることがより自然なこととして受け入れられるようになるのです。

まだ若い頃というのは、実現していない夢や希望がたくさんあるので、人生の主役、当事者として生きている必要があるのです。

そうなると、自分を見る、観照するというのは難易度が高いのです。瞑想するのも、より良い自分になって目標を達成するためなのです。

これ自体は決して悪いことではないのですが、本来瞑想というのは自分のマインドから離れるための練習なのです。

見ること、観照することも同様にマインドから離れるためなのです。こうしたことが、今日一日生きることのど真ん中に据えられるのも、年齢が関係しているかもしれません。

マインドを観照し続けることで、ちらついている死が実際にやってくるのはマインドに対してだと気づくのです。

観照者としての自己には、死が訪れることはないのでしょうね。

原因と結果をひっくり返す手法

この世界の法則と言ってもいいのですが、原因があってその結果が出るのです。因果応報と言ってもいいかもしれません。

そしてこの原因と結果の関係というのは、常に原因が先にあってその後に結果が続くという形を取るのです。

当たり前ですが、原因がなければそもそも結果は発生し得ないのですから。たとえば面白いことや愉快なことを体験すると、笑いがやってきます。

何事もないのに、ただ笑うことはできません。笑うためには、それなりの原因が必要なわけです。

ところで、結果を模倣するということはできますね。つまり、原因があって笑うのではなく、笑うということを肉体を使って形だけ真似るのです。

実はこれ、会社員の頃に帰宅途中のクルマの中でやったことがあるのです。何となく気分がすぐれないまま家に帰りたくなかったので、試しに大笑いするフリをしてみたのです。

最初のうちはぎこちない笑いだったのが、次第に本当に笑っているかのように大笑いできるようになったのです。

そうしたら何と、気分が少し爽快になってくれたのです。これはどうしたことか?要するに、原因と結果がひっくり返ったわけです。

笑うということが原因となって、気分が良くなるという結果がやってきてくれたのですね。

これはどうも他にも色々と使い道がありそうです。たとえば、欲望を減らそうと思ったところでそう簡単なことではありません。

であれば欲望が大きいという原因から起こる結果を見つけて、それを反対にして利用すればいいとわかります。

思いついたことは、欲望が大きいと人は緊張するのです。だから緊張するという結果を逆手に取って、リラックスを心がけるようにするのです。

リラックスすることが簡単にできるようになり、より深いリラックスを得るコツを掴んだならば、結果として欲望は小さくなるということになるのです。

なのできっと普段から瞑想などを生活の一部に取り入れている人などは、自然と欲望が小さくなっている可能性が高いですね。是非試してみてください。

ハートとマインドのバランス

胎児が母体から生まれ出てくると、まず初めに生物(個体)として生きていくために必要な感覚器官を発達させていくのです。

その感覚を司るのがハートです。肉体の発達とともにハートも開いていくわけです。ハートはただ感じるというピュアなものです。

幼いうちは、ハートと感覚器官をフル活用して見るもの触るものに感動しつつ、少しずつ外側の世界の情報に馴染んでいくのです。

そしてそれと並行して次にはマインドの発達が始まるのです。マインドは、人間クラブの立派な会員となって社会で生きていくために必要な仕組みです。

したがってマインドの主な機能は、人とのコミュニケーションをベースとした調和だったり、ルールの中で生きるために必要となるものです。

それは思考によって育まれていくのですが、マインドとハートというのは仲良くバランスをとって機能することが難しいのです。

ハートはいつも正直ですが、マインドは防衛するためには偽善者になることも少なくありません。

複雑な現代に生きる私たちの多くは、ハートよりもマインド優位で生活していることが常態化していると言えるかもしれません。

また子供の時に、ハートからマインドへと発達していく段階で、いつまでもハート優位のままであると、成長する過程において今度は無理にマインド優位になるように仕向けるのです。

マインドを無理やり優位にしようとすることが仇となって、逆にマインドの機能の発達が遅れてしまうことにもつながるのです。

私が思うに、一人で生きているわけではないので最低レベルのマインドの機能は必要ですが、なるべくハートに寄り添って生きる方が気持ちのいい毎日となるでしょうね。

マインドを理解する

多くの人々に共通していることは、それがどんな形であろうと自分の人生が幸せになればいいと願っているのです。

当たり前のことですね。わざわざ不幸になろうと画策している人などいるはずもないと思えますから。

けれども、マインドの働きやその仕組みを理解すれば、そんなあり得ない期待をする場合だってあるということに気づくのです。

世の中には、自分から率先して人生を失敗させるように持っていく人もいるし、人生の分岐点でどう考えても不幸になる方を選択する人もいるのです。

それは自覚があってやっていることではなく、マインドの潜在意識の部分が裏でこっそりと人生の糸を引いているのです。

気がついたら、そんなことを何度も繰り返してきてしまったという自覚がある人もいます。いつも上手くいかない方をわざわざ選んでしまうのですね。

異星人が地球に舞い降りてきて、人類のマインドと出会ったときにびっくりしてしまうかもしれません。

快楽を求めるマインドがあれば、不快を求めてしまうマインドだって普通にあるのです。少し人間の言動を注意深く見守れば、誰でもすぐに分かるはずです。

こうした人間の不可解な言動を理解したいですか?もしもそうなら、マインドを深く深く理解することです。

そうしたら、どんな奇妙な言動であれ、驚く必要はなかったと冷静に見ることができるようになり、それだけでも生きやすくなるでしょうね。

自分を守る人生から自分を楽しむ人生へ

幼い頃に親などの周囲にいる大人たちから、十分に安心させて貰えないと、自我が持っている不安を紛らわすことができずに暮らすようになります。

そうなるとその不安を何とかして安心させようとして、自分を守ることが人生の中心になるのです。

それはあらゆる心理的自己防衛を考案して実践する毎日になるはずです。自分を守ることにエネルギーを浪費する人生となるのです。

何をしたら自分は満足するだろうかとか、どうやったら楽しい時間を過ごせるかということが中心とはならないのです。

代わりに、何をしたら自分は安心できるだろうか、どうやったら安全な時間を過ごせるかが中心となるのです。

これではせっかくの人生が台無しになってしまいます。おまけに自己防衛で得られる安心はほんの一瞬しか効果がなく、副作用として自己犠牲がついてきます。

あなたの人生はどちらに主眼が置かれているでしょうか?安心安全か、それとも楽しむことか?

もしもどちらなのか自分ではよく分からないということでしたら、判定方法があります。

それは、人生が何となく不自由な感じがするなら安心安全が優先されているということです。

逆に清々しい毎日を送っていると感じるなら、楽しむことを優先した自由な人生を掴んでいると思って間違いないですね。

一度の人生ですから、死ぬ前に後悔のないように、自分を守る人生から自分を楽しむ人生へと路線変更できたらいいですね。

独りでは難しいようでしたら、専門家の力を借りて心の癒しを実践していくことをお勧めします。

マインドが問題を生み出す張本人

生きるということは、様々な困難に出くわしてはそれを何とか解決して、さらに次へと進むことを繰り返すことを言うのです。

一つひとつの問題をそれぞれ個別に解決しようとする試みに、疑問を感じる人もいるかもしれません。

その人は、問題が10個あろうが1000個あろうが、何かその裏に共通するものがあるのではないかと疑うのです。

そしてどうやら、問題を作り出しているシステムがあることに突き当たるのです。それが自分のマインドだと気づいた時、人は生き方が変わります。

外側にやってくる問題というのは、実は自分の内側にあるマインドがせっせと生み出していたことに気づくなら、人はより思慮深くなるのです。

安易に何かを否定したくても、それができなくなってくるのです。自分が被害者ではなかったと理解するからですね。

そしてマインドのことをより深く理解したくなるはずです。マインドの生い立ち、マインドの仕組み、マインドの働き。

そう言ったマインドの全てを理解することで、最後にはマインドを傍観するようになるのです。

問題は問題ではなく、そしてマインド自体も実体のないものだったと分かって、森羅万象のあるがままを受容するようになるのでしょうね。

傍観者であれ

私が高校生の頃だったと思うのですが、国内のあちこちの大学で大学紛争がすごいことになっていたのです。

けれども正直自分にとっては何だかあまり興味を持てなくて、学校でそうした話題になった時、積極的に参加できなくてただ傍観者になっているだけでした。

あの当時、傍観者でいることはとてもカッコ悪い思いがしていたのを覚えています。世の中の情勢に興味を持たないのは、頭が悪い奴みたいな感じがしていたのです。

あるいは意見を求められたら、それなりに自前の意見を言うこともできるのですが、いざとなると行動が伴わないのです。

これも傍観者でしかないよね、という烙印を押されたような気がしていました。だから傍観者というと、あまりいいイメージが湧いてこないのです。

けれども、マインドを深く理解するようになって、この傍観者であることがとてつもなく大切なことだと気づくようになったのです。

マインドにおける傍観者というのは、自我のあらゆる側面をただ傍観し続けるということなのです。

それによって、自我に乗っ取られずに済むのです。自分を責める部分があれば、それを傍観し、防衛しようとする部分があればそれも傍観するのです。

何から何まで一つ一つを丁寧に傍観してあげること。それによって、自我とは距離を置いた生活をすることができるようになるのです。

そのことによる恩恵は計り知れません。さあ今日からでも遅くはないので、自分の自我の傍観者になる練習を繰り返してください。

本当はその傍観者こそ真のあなたの姿なのですから。

自己防衛は取り引き

すべての生物に防衛本能というものがセットされています。それは勿論種を存続させるためですね。

そして、その中でも人間だけが心理的防衛をすることができるのです。これは人間に与えられた特権かもしれません。

けれども、このブログでも幾度となく繰り返しお伝えしている通り、心理的自己防衛は程度の差こそあれ、大抵は自己犠牲を伴うのです。

その理由は、とてもシンプルに表現すれば「取り引き」をしているからに違いありません。

安心を手に入れようとする代わりに、自分に我慢を強いるのです。安心と苦悩の取り引きをしているのです。

たとえば、相手に「ノー」を言ったら、相手を傷つけることになるし、嫌われるかもしれないので、安心するために「イエス」というのです。

そして気が進まないことを我慢して相手の言いなりになるということです。これが結果として自分を傷つけることになるのです。

一度や二度なら何てこともないのですが、何度も繰り返されていくうちに自己犠牲が蓄積していき、怒りとなっていずれ人生に悪影響をもたらすのです。

さらに自己犠牲によってようやく手に入れたつもりの安心なのですが、それはあっという間に消えてしまう幻のようなものなのです。

また明日になったら、不安から人生がスタートするので、この自己防衛の生活は終わることがありません。

自分が日頃どんな自己防衛をしているのかに注意を払って、リアルタイムで気づけるようにしていく必要があるのです。

辛く苦しい人生をもう辞めたいと思うなら、その苦しみの方にばかり目を奪われてなくて、その原因となる自己防衛を捕まえることです。

そこからようやく少しずつ、防衛を小さくしていく道筋が見えてくるのです。そのプロセス全体を癒しと呼ぶのですね。

意識に生死はない

生まれたものはいずれ死ぬ、これほど明白で直感的にも納得できることはありませんね。

肉体は生まれてくるので、それは必ず死を迎えるわけです。それと同じようにして、自我も発生するものなので、いずれは死ぬことになるのです。

ただし、自我は肉体の誕生とともに生まれるわけではないので、多少のズレはあるかもしれませんね。

はじめに肉体が誕生し、数年してから自我が誕生するのですから、肉体が死んだ後に少しして自我も死ぬのです。

たまに肉体が死んだということを認めたくないという強い想いを持っている自我であれば、その執着心が自我を生き長らえさせることがあるかもしれません。

いずれにしても肉体も自我も、ともに一度生まれたのですから死ぬことになるのです。ところで意識はどうでしょう?

意識は目覚めることはあっても生まれることはないのです。意識は眠っているか、目覚めているかのどちらかです。

ということは意識だけは生まれもせず、死にもしないということになりますね。意識は永遠だということです。

それこそが私たちの本性です。生きて死ぬのは、あなたの肉体とあなたの自我だけだということですね。

物語を傍観する

私たちの知覚、つまり五感というのは外の世界からの情報を取得するようにできています。

だから放っておけば、外側に注意が向くようになっているのです。乳幼児は見るもの触るものが初体験なので、興味は尽きないわけです。

そうした状態はしばらく続くのですが、いつの頃からか人によっても違いがあるのですが、五感を使わずに内側に注意が向くようになるのです。

ここからが他の動物と我々の違いが出てくるところなのです。自分の内面というものを感じるようになるのです。

そうやって成長していく中で、やっぱり外側で起きている物語にばかりとらわれてしまう人と、より深く内面に入り込む人がいるのですね。

その違いがどこからやってくるのかは定かではないですが、前者と後者とでは10年20年と過ごすうちに、次第に結構大きな違いが生まれてくるのです。

内側に意識を向けられる人は、外で起きている物語を傍観するという感覚が自然と身についていくからです。

更に進むと、自分の内側だと思っていたけれど、それは個人という小さな自分の内側ではなく、この大きな宇宙をも含んだものだったという感覚がやってくるのです。

そうなったら、いつも外側にばかり気を取られていた人たちとは、生きている感覚というものが相当に異なるものとなるでしょうね。

どちらが上とか下ということはないのですが、きっと一番の違いは死にゆく時にはっきりするのだろうなと思っています。