自然→不自然→自然

私たちがこの世界に生まれてきた時には、誰もが自然の一部だったのです。だから自然と調和していたとも言えます。

ところが、しばらくするうちに次第にマインドの発達とともに、不自然さに向かって進んでいってしまうのです。ハートだけは、ずっと自然のままにあるのですが。

そして気がつくと、不自然であることにも全く気づくことができないくらい、マインドは自然から乖離してしまうようになるのです。

この状態こそが、私たちが内側のどこかにずっと感じている、不安や孤独といった苦悩の原因なのです。

大自然の中にいると、塞ぎ込んでいた気持ちが急に柔らかくなって、穏やかな感覚に包まれたりするのは、私たちが自然に回帰したがっている証拠なのです。

自然の中に戻りたいというよりは、自分自身が自然の一部だということに気づきたいのでしょうね。

そのためには、毎日の自分の生き方をよくよく観察してみて、どこが不自然なのかを発見することです。

すると、マインドの働きの全てが不自然さで出来ていると分かります。本能的な防衛は自然の一部ですが、心理的な防衛は不自然さの極みです。

戦いから遠のいて防衛を小さくなるようにして、代わりにハートを目一杯開いて生きることです。

強くなろうとせずに、感じやすく、傷つきやすい状態でいること。自然に近づこうとするのではなく、ただ在るがままであればいいのですね。

夢と現実は同類

小学生のあるとき、昨日までと何かが違う、何かの感覚がなくなってしまったような感じになったことがありました。

もう少し具体的に言えば、視界にモヤのようなものがかかったような感じが、リアルな感じがしなくなったのです。

そしてそれはそれ以来ずっと変わらずに今も続いています。もうあのリアルな感覚を取り戻すことはできないのかと思うと、ちょっと残念な気がします。

ある種夢の中で生きているような、現実感が乏しくなったような、そんなフワッとした感じで生きているのです。

けれども、そのおかげと言ってはなんですが、この世界が夢のようなものに違いないと思うようになったのですね。

夢と現実との違いは何かと考えてみると、究極的には何の違いもないということに気づくことができます。

夢の特徴はと言うと、目が覚めれば跡形もなく消えてしまうもの。であれば、現実も同様に人生が終わってしまえば跡形もなく消えてしまうのです。

夢の中であなたが極悪人で罪深い行いをしたとしても、目覚めた時にはああ夢で良かったとホッとするのです。

一方の現実ではどうなのかというと、あなたがどれほどの罪深い人間であったとしても、人生が終われば消えてしまうはず。

たとえそれを覚えていた人がいたとしても、100年、1000年、100万年経てば、同じことです。数十億年経てば、そもそも太陽系が消滅します。

そして実は、人生が終わらなくても思考から脱出することができたら、人生という物語は消えてしまうのです。

その時には、本当にリアルな実在だけが在るのですね。

自分の本質に戻る

私たちは何も持たずにただ生まれてきます。しかも圧倒的な無意識状態で。無意識というのは、意識が眠った状態という意味です。

生まれてからしばらくすると、ハートが機能するようになるのです。大切な感覚を持たなければならないからです。

閉じていたハートが開くようになるということです。その後に、今度はマインドが作り出されるのです。

マインドとは考えるというプロセスの集まりです。そしてそのうちには、自我が機能するようになるのです。

自我の発達と連動して、意識の一部が覚醒していきます。つまり、自覚というものができるということ。ここで初めて人間が動物と一線を画することになるのです。

ハートとマインドがバランスよく働いているうちはいいのですが、敏感気質と劣悪な環境が揃うと、マインドが強く防衛を始めることで異常に活性化するのです。

そうなると、マインドが一方的に優位になって、ハートは閉じ気味になってしまうのです。ハートが開いていると防衛できないからです。

ここまできたときに、何かが間違っていると気づいた人から順番に、元来た道を帰ろうとするようになるのです。それが癒していくということです。

防衛を小さくしてマインドの働きを非活性化するとともに、閉じ気味になっていたハートを開いていく作業が起こるのです。

その上で、ここからは来た道を戻るだけではなく、意識的に生きる練習を継続することで、無意識に光が当たるようになるのです。

最終的には、意識が完全に覚醒して自分の本質に戻るということです。それは目的地などではなく、ただそれと気づくことでしかないのですね。

アイデンティティに構うな

社会で生活する私たちにとって、自分のアイデンティティを確立することは非常に大切なこととなっています。

アイデンティティとは、たくさんの人々の中で自分の存在をしっかり識別できるものという意味です。

要するに、他人と比べて何か際立ったものを持つことで、大勢の中で埋もれてしまわずに済むものが必要ということです。

なぜなら、自我というのは元々が他人から認識されることで生まれたものだからです。自分独りでは成立しないものなのです。

子供の頃はまだナニモノにもなっていないので、成長するにつれてナニモノかになろうと努力するわけです。

男性の場合には、社会全体から認めてもらえるように頑張るのですが、女性の場合にはごく身近な誰かから認めてもらえればいいのです。

この社会が男性性によって作られ、維持されているからなのでしょうね。男性性は世界一を目指し、女性性は愛する人からの愛があれば足りるのです。

男性だろうが女性だろうが、アイデンティティを必要とする本当の理由は、自分とは一体誰なのか?という切実な疑問を持っているからなのです。

自分の存在が何なのかが分からずにいるため、自分の外側から代わりになるものをもらって、安心しようとしているのです。

もしも本当に自分とは何か?を探究しようとするのであれば、外側からもらったアイデンティティに満足せずに、内側の内奥を見続けるしかありません。

もちろん内側にはアイデンティティなどというものは存在せず、代わりに全体性という表現不可能な何かを見出すことになるはずです。

女性性が有利

私のところにセッションを受けにいらっしゃるクライアントさんの、約7〜8割が女性なのです。開業してから、かれこれ20年経った今でも変わっていません。

この一定の割合がずっと維持されているには、それなりの理由があるのだと思います。簡単に言えば、女性性と男性性の違いなのでしょう。

かつて仏陀の弟子は5万人いたと言われていて、そのうちの実に4万人は女性だったということです。

名のある弟子の多くが男性だったので、弟子の8割が女性だったと聞くと、かなり意外な感じがしてしまうかもしれませんが…。

シンプルに表現すれば、男性性というのは提供者なのです。一方の女性性は受容者であるため、セッションで受け取りやすいということがあるのでしょうね。

ということは、男性のクライアントさんは、平均的な一般男性に比べて女性性を多く持っているということなのです。

実際それははっきりと体感することができます。私自身が企業で働いていたときの記憶では、活躍していた人の多くは男性性を潤沢に持っていた感じがします。

男性性と女性性を比べて優劣をつけるつもりはありませんが、真理を探究するのであれば、どちらが有利なのかは自ずと決まってしまうでしょうね。

元々自我なんてない

osho は21歳で覚醒してしまった特異な人物ですが、59歳で亡くなるまでの間に沢山の講話を行ない、それが全世界で数百冊の本となって出版されているのです。

正確な数字ではないと思いますので、興味があれば調べていただきたいのですが、その数の多さもさることながら、考えなくてはならないことがあるのです。

それは、膨大な量の非常に貴重な講話をした本人がいないということです。講話を始めた時にはもうすでに覚醒してしまっていたので、彼の自我は消えていたわけです。

では一体全体誰があの素晴らしい講話をし続けたのか?勿論誰でもありません。ただそういうことが起きたのです。

これこそが、この世界が全自動で動いているという証拠です。自然というのは全自動のことを指すのです。

自然が誰かの意思に基づいて起きているわけではなく、ただそのように何の理由もどんな目的もなく、自動的に起き続けているのです。

私たちの自我の立場からすると、到底理解することができないのですが、自我の理解などは非常にちっぽけなものなので、わからなくて当然なのです。

自我の理解を超えた事柄を、そのままに受け入れることができるなら、自我はいずれ崩壊していくことになるでしょうね。

あなたという自我がいなくても、あなたは生き続けるのです。それだけは間違いないことです。なぜなら、自我はもともと幻想の産物だからです。

覚醒したくない理由

多くの人々が、毎晩のように眠っている間に夢を見ます。夢の記憶がなくても、夢は見ているらしいですね。

その夢の中で、私たちは本当に様々な体験をします。楽しい夢もあれば、辛い夢もあり、感動的な夢があれば恐ろしい夢もあるのです。

ただ、夢の中でどれほどの特別な体験をしたとしても、その夢から覚醒する体験にはかないません。

夢の中での体験と、夢から覚める体験では、そもそも次元が違うからですね。夢から覚める体験が起きれば、それまで夢の中で体験した全てが消えていくからです。

たくさんのものを手にすることができた夢から覚めてしまうと、それを全て失うことになるため、そこには痛みが伴うことになるはずです。

夢と言えどもかけがえのない人と一緒にいられたのなら、その夢から覚めることは苦しみをもたらすことになるでしょう。

夢の中がたとえ辛かろうが、その体験に執着していれば、夢から覚めたくないと思うのは当然のことです。

私たちが何度も何度も人生を生きて、一向に覚醒することができないのは、そうした理由があるのではないかと思います。

「ノー」が自我を育てる

セッションで様々なクライアントさんと向き合っていると、幼い頃からしっかりと自己表現をしてこなかったという方が少なくないのです。

自己表現というのは、「イエス」ではなくて、「ノー」を言うということです。それが言えなければその都度、自己犠牲を招いてしまいます。

その結果は明らかで、マインドはどんどん病んでいくことになるのです。だからシンプルに、そうしたクライアントさんには「ノー」を言えるようになって下さいと激励します。

ところが、「イエス」を言うことが美しいし、人としては素晴らしい生き方だというような知識があって、それが邪魔をすることがあるのです。

どんな時でも「イエス」を言うことが、究極的には明け渡しの状態をイメージするので、それは確かに一理あることは分かっています。

ただそのショートカットは非常に危険だし、ほとんど逆効果だと言っても間違いではありません。

赤ちゃんは純粋無垢の状態で生まれてくるので、心理的「ノー」がないのです。ところが、「ノー」を言い出すことで自我が生まれるようになるのです。

つまり、「ノー」が自我の生みの親であり、育ての親なのです。私たちは「ノー」を繰り返すことによって、1人の人間(自我)として成長することができるのです。

「ノー」が健康な自我を育むわけです。ところが、成長過程の大切な時期に「ノー」を言うのをやめてしまう子供がいるのです。

つまり、この状態というのは「ノー」によって作られた自我が、自分を守るために今度は「ノー」を禁止してしまうのです。

ここをしっかり理解することができれば、まずは「ノー」を取り戻して健康な自我となる必要があると分かるはずです。

どんな時であれ「イエス」を言う明け渡し状態とは、決して強いられたものではないということ。

そしてそれは、健康な自我を取り戻した後、そのずっとずっと先に待っているものだということを忘れないことですね。

要点を見抜く

人は自分がこれまでに投資してきたものを、簡単には諦めきれないのです。努力が無駄になる時、その努力が大きければそれだけ受け入れ難くなるものです。

10年、20年、あるいは30年以上もの長い間、自分をなんとかして守ろうと死に物狂いで頑張ってきた人がいたとします。

その人がセッションの中で、自分のことを何も知らない赤の他人のセラピストから、あなたのこれまでの努力はすべて間違いでしたと告げられたとしたら…。

にわかには信じたくないし、あまりのショックに怒りが湧いてきても不思議ではありませんし、絶望するかもしれません。

けれどもそれがセラピストの仕事なのです。クライアントさんがセラピストの言葉を素直に受け入れることは稀かもしれません。

要点を見抜いて、「よし、間違っていたので落とす。私のこれまでの生き方は誤りだったので新しくやり直す」と言える人がどれだけいるか。

実はごく稀にですが、それができる人がいるのです。たった一回のセッションを受けただけで、パラダイムチェンジしてしまうのです。

そういう人たちは、きっともうすでに自らの中にそれと気づかぬうちに準備ができていて、ちょっと背中を押されただけで視界が開けてくるのでしょうね。

観念にまみれてる

osho の逸話でちょっと面白いものがあったので紹介したいと思います。

ある人が、osho が腕時計を何度も頻繁に見て時間を確認している姿を見たらしいのです。

その人は、osho が本当に覚醒しているのなら、時間なんて時計を見るまでもなく、分かるはずだと思ったのです。

だから osho は覚醒などしてないのではないかと疑ったということでした。

それに対して、osho は次のように言ったのです。自我が落ちて覚醒すると、時間という概念が消えてしまう。

常に今この瞬間に在るので、腕時計で確認しなければ、見せかけの時間が分からなくなると。

確かに私自身短い間ですが、自我が傍へ追いやられていた時に、時間は思考が作るイマジネーションだと分かっていました。

osho がこの逸話で伝えたい事は、誰もが観念を総動員して物事を見てしまっているということ。

覚醒した人は、きっとこうに違いないという勝手な思い込み、観念が働いてしまうのです。

ジャイナ教のマハヴィーラという覚者は、常に全裸で過ごし、床を転げ回って大笑いしていたそうです。

自我が落ちれば、私たちのような道徳心や恥の概念も持ち合わせていないということです。

ジャイナ教の信者には、覚醒者は全裸でいるものという観念があるため、osho が素晴らしい優雅な服をきているので、やはり覚醒していないと見るのです。

観念を捨てられないまでも、観念にまみれて生きていることには気づいていたいものですね。