神の擬人化

無神論者の多い?と思われる日本人の間では、神という言葉もイメージにも何となく違和感がある人が多いのではないでしょうか?

私もその一人でした。でしたと過去形になっているのは、「奇跡のコース」を学ぶようになって、多少慣れてきたからです。

とは言うものの、神を「神様」のような言い方をしてみたり、あたかも人格を持っている高貴な存在のように表現することには今だに抵抗が残っています。

「奇跡のコース」のワークブックの中に、例えばこういう表現があります。「神は慈悲をもって、自分が救われるようにと意図なさっている」

慈悲深いというのも意図するというのも人間に関する特徴や能力のことを指すわけですが、それをそのまま神にも当てはめて言っているわけで、こういうのを擬人化というのですね。

そしてこういった表現が無数に出てきます。何だかいやだなあと思いながらも、ふと分かったことがあります。それは、もし擬人化して表現することをやめてしまったらどうなるんだろうということです。

きっと、神をどう言葉で言い表したらいいのか分からなくなってしまうはずだということです。神を擬人化するのは、人間が作った言葉で表現するためには仕方のないことなのだなと理解したのです。

私自身の言葉で表現すると、神は全体であって、あらゆる一切合財を含む存在である。ただし、この存在という言葉の意味も相当に曖昧であって、この表現そのものも一種の擬人化になっています。

神は愛であり、愛は、全ては一つという想念である、こう表現しても愛も想念という言葉も人間に当てはまる言葉であるので、結局私の言葉で表現したところで、自分の嫌いな擬人化は免れないということが分かったのです。

それは、神が人間のすべての能力を注ぎ込んでイメージしたり、表現したり、感じたりしたとしても、神そのものをそのまま捉えることにはなりません。それは我々をはるかに超越しているためですね。

そう思うと、人間が理解できる言葉やイメージで表現せざるを得ないのだなと納得することができたのです。そして、最近では、この神にまつわる様々な概念について、拒絶反応をしてしまう自分にも、その理由が明らかになってしまいました。

それも「奇跡のコース」を学んだおかげなのですが、そうして明確になってしまうと、もう拒絶することから開放されていくことができつつあるようです。