神の擬人化 その2

昨日の続きです。

神を表現しようとすると、どうしても人間の想像能力の範囲内でしか表せないために、結果として擬人化することになってしまうというお話をしました。

もう一つ神を擬人化する方法として、実在する人間を神の代わりにして偶像化すると言うやり方があります。

例えば何かの宗教の教祖様はそういった神の代わりとして崇め奉られる存在とされていることが多いと思います。

しかしこれはある意味とても危険なことである場合があるのです。なぜなら人間の中の誰かを特別視するということは、すべては一つであるという愛の本質から逸脱しているからです。つまり、そこには必ず恐れがあるのです。

神への依存であればいいのですが、神の偶像への依存になってしまうと、それは完全にエゴの世界になってしまいます。そこには、永続的な平安である幸せはありません。

あの人の言うことを信じていれば自分は救われるはずだとしてしまうことが、宗教の一番問題となりやすい面ではないかと思います。

「奇跡のコース」はその点、ただの本ですし、教祖様もいるわけではありません。厳かな建物もないし、組織も必要ありません。特別な儀式をするでもなく、ごく普通の生活の中でいかに幸せな人生に変えていくかということを具体的に教えてくれるだけです。

ただ、「奇跡のコース」の教えを使って、宗教的な組織を作って活動しようとする人は中にはいるかもしれませんね。しかし、そういう人は、「奇跡のコース」の大切な教えをきちんと理解していない人だと言わざるを得ません。

「奇跡のコース」は自習書だとその中ではっきりと述べられています。そしてその学習を続けていく中で心を鍛えていくトレーニング本なのです。

すべての人は、人間の皮をかぶったスピリットであって、それは一つの実在なのだと言っています。従って、教える人と教えられる人がいたとしても、それは決して教祖と信者の関係にはなりようがありません。

教える人は、与えることによって、教えられる人から与えられるのです。そしてお互いが一つなのだということに気づいていく道だと言っています。誰も特別な人はいないのです。