怖れは葛藤を生み出す その2

昨日のつづきです。

自分の心から葛藤をなくして幸せになるためには、自己防衛のかなめと考えられている恐れを手放すことが絶対に必要だというお話しをしました。

このことは、コースでいう、「防衛しようとしないでいれば安全でいられる」の言葉に通じるものがありますね。しかし、防衛しないで無防備になろうとしたって、それこそ恐れがあるから自分を守りたくなってしまうわけです。

恐れを選択しないという方法は、それこそ恐れがそれを妨害するため、恐れを選択したいという気持ちとの間の葛藤を生み出します。

我々は自分の身を守ることが自分への愛だと思っているのですが、それは全くの間違いです。自分への愛とは、自分は決して傷つかないということを思い出して、無防備になることなのです。

エゴが作ったこの地球上では、すべての生物は種の保存をその目的として棲息しています。自分が生き延びる目的は、子孫を残すこと以外にはありません。だからこそ、自分が生き延びやすいように恐れという感情が使われるようになったとしているのです。

怖れを感じるからこそ、身の危険を察知することができ、自己防衛をすることができて、その結果として種の保存の目的を達成しやすくなるという、エゴの論法なのです。

そのことに私たちはどれだけ騙されてきたことでしょうか。何度も繰り返して言うことになりますが、恐れは自己防衛のためではなく、愛からの分離、愛の欠如そのものでしかありません。

防衛しないこと、恐れのない状態に戻すこと、これこそが愛そのものであるからです。 癒しというのは、自分の心の中に巣食っていると思わされている怖れに気付き、それを見据えることで実際には光の当たらない闇の部分に過ぎなかったと気付くことなのです。

闇という部分はありませんね、それは単に光が当たらない場所のことを指すのみです。それと同じように怖れというものは実在しません。単に愛が欠如している状態を指すのみということです。

だからこそ、癒していくことで、つまり光を当てて行くことで怖れを手放していくことができるのです。しかし、怖れの正体とそのありかを隠すエゴの意識と、その意識そのものを表面意識から隠すという手段によって、通常の意識からは怖れと向き合うことが難しく感じられてしまうのです。

それは言い換えれば、心のどの部分に闇が潜んでいるのか探すことを難しくさせられているということです。その具体的な方法は、愛の欠如、愛からの分離というものを真実だとすることで、つまり大元の怖れを真実だとするために、それをひた隠しにしていると思い込ませられています。

そして、その隠した場所すら分からないように意識下に押しやって、その上に勝手に作り上げた死に対するニセモノの恐怖を新たにこしらえて隠すことを完全なものにしているのです。

恐れという闇に光を当てたいので力を貸してくださいと聖霊にお願いして、結果を委ねることにしましょう。