選択 その8

どんな人でも身体の調子がすぐれない時や、何となく具合が悪いなあということがありますね。私は、何のきっかけなのか自分でも分からないうちに、急に体調が悪くなってしまうことがあります。

といっても、その程度は重いわけではなく、ただ体調がイマイチだなと思うくらいなのですが、それでもそれによって気分もかなり変わってしまうわけです。

つまり、自分の気持ちが身体の具合によって大きく左右されてしまうという自覚があります。なんだか、さっきまでいい感じの心持ちでいたはずなんだけど、急に何とはなしに体調が変化してしまったために、いい気分ではなくなってしまうのです。

身体と心では、どう考えても心がご主人様のはずなのに、子分である身体の具合に親分の方が影響を及ぼされてしまうことに理不尽な思いがずっとありました。

ところが、最近その身体の具合の悪いときにこそ、それは自分の知らぬ間に選択してしまった結果でしかないということをすぐに思い出せるようになったのです。

そして、その後すぐにこの体調の悪さを今この瞬間にもう選択しないと心の中で唱えるのです。そして、少なくとも体調が悪くてもそのことに主人である心が影響を受けることを選択しない、いい気持ちを選択するとやるのです。

今までにはなかった発想です。だから、最初はとても無理なことを自分に強いているという感じもしていたのですが、習慣とはそういったことを変える力があるのですね。

少しずつ、確かに気分がよくなるようになってきました。体調が悪い→気持ちが暗くなる、という決まりきった図式を崩すことができてきたということです。

心が身体を支配しているのです。決してその反対ではありません。身体の体調が悪くなるのはただの結果です。その原因は心でそれを選択したということに違いありません。

そのことを忘れることなく、今日もただ力むことなく選択することにしましょう。うまくいけば、何の苦労もせずに快適な気分をすぐに取り戻すことができるのですから。

選択 その7

昨日のつづきです。

自分自身、選択という題名でこんなに続けて書くとは思っていませんでしたが、考えてみたら当然かもしれません。それは人生のすべてが実は自分の選択が招いた結果なんだということだからです。

あらゆることがこの選択の結果であれば、これほど重要なこともないからです。そして、自分が本当に選択できるのは、愛かエゴかの二択だということもお話ししました。

それが意味することは、自分が愛かエゴかの判別がつかないようなことについての選択はするべきではないということです。正しい判断というのは私たちにはできません。

そしてその選択は潔く放棄して、完全に聖霊に任せるべきです。聖霊はどんな選択についても、しっかりと愛とエゴを見分けることができるからです。

聖霊に委ねるということ自体、それは愛を選択するということを意味しますね。聖霊とは自分の心の中にある、神聖な部分、真の愛の部分を指すからです。

そしてもう一つ、覚えておいた方がいいことがあります。それは、抑圧と選択は表面上似ているということです。

例えば、私が怒りを選択しない、というようにして怒りから開放されたように感じたとしても、場合によってはうまく選択できなくて、ただその怒りを心の底に抑圧してしまっただけだったということが起こりえるということです。

特に、今までの人生でそうやっていやな感情をすべて心の奥に押し込んで何とか生きてきてしまった人にとっては、選択するということが難しく感じられるかもしれません。

自分は怒りを選択しないと意識したはずなのに、今までの習慣によって勝手にその怒りを抑圧してしまうだけにしてしまうということです。

怒りを選択しない、ということを上手にできた場合とそれを抑圧してしまった場合の大きな違いは、その後の心地よさです。表面的はどちらも怒りから解放されたかのように振舞うことができますが、心の中は全く違うのです。

選択した後、いつも気持ちがいいのかどうかを感じてみることです。選択は繰り返し実践することで必ずうまくできるようになるはずです。それは単なる心の訓練です。辛い苦行のようなものではありません。

毎日実践して習慣化できるようになるといいですね。

選択 その6

自分は何も意識してないのに、いいなと思う人もいればいやだなと感じてしまう人もいますね。世界中の人をすべて丸ごと愛しいと思えるようになったらどんなにすばらしいでしょう。

それには、自分は相手を愛しているという選択をすることです。この選択一つによって、相手を愛しく感じられるようになるはずなのです。

自分が相手のことを好ましく思っていないとしたら、まず始めに自分は相手のことを嫌わないという選択をするのです。

嫌っている相手を愛しく思うなどという選択はできないと感じるかもしれませんが、それはできないのではなくて選択したくないと思っているからです。つまり、嫌うということを選択しているのです。

自分が相手を嫌う理由はいろいろあります。自分がその相手から嫌われてるんじゃないかと心配していたら、その反発としてこちらから嫌いになるということもあるでしょう。

心理学でいう自分のシャドーの部分、つまり認めたくない部分を相手に投影することで、相手のことを嫌うということもありますね。

いずれにしても、嫌うということも明らかに自分からの選択の結果だということです。自分は本当に何を選択したいのか、これが分からないからこそ間違った選択をした結果として、自分が辛い思いをすることになるということです。

この選択するということがすべての結果の原因です。他にどんな便利な原因をでっち上げたとしても、それはニセモノに過ぎません。原因はただ一つ、自分の選択なのです。

このように書くと、何かとても自分に思い責任が負わされてしまう気持ちになるかもしれませんが、そんなことはありません。この人生でやってはならないこと、やらなくてはならないことなど一つもないからです。

自分が何を選択しようと、そのことがいいとか悪いとかに関連するわけではありません。ただ、選択は完全なる二択だということです。

一方は愛の自分、もう一方はエゴの自分です。その選択だけが本来自分ができる唯一のことなのです。幸せな毎日になるもならないも、自分の選択一つだということをもう一度肝に銘じておく必要がありますね。

選択 その5

私たちは自分の身に起きることにとても敏感に反応します。何か自分が望むようなことが起きれば喜びもするし、いやな出来事があれば辛い気持ちになってしまいますね。

そして、自分の感情あるいは気持ちというのは、そうした周囲の出来事によって決まってしまうと思っています。このことにあまりにも慣れ親しんでしまったために、実は選択の結果なのだということに気がつかなくなってしまったのです。

嬉しいと思えることが外にあった時にだけ、嬉しくなるのだとエゴに思い込まされています。楽しいと感じられる時間を過ごせるのは、楽しい事柄を体験しているからだと思っています。実は、そうではなく、それを選択しているだけなのです。

いやな気持ちを選択してしまった結果、いやなことが起きていやな気持ちになってしまうのと同じように、嬉しい気持ちを選択することで、嬉しいことが起きて結果嬉しい気持ちになれるのです。

そしてもっと単純に、嬉しいを選択したので嬉しくなるし、楽しいを選択をしたので楽しい時間を過ごせるのです。つまり、自分の外側にたとえ何事も起きなくともどんな心の状態にでも選択によってなることができるということです。

以前、瞑想中にいつもの自分の気持ちとは全く違う感覚になったことがありました。感謝の渦に中に入ったようになり、足りないものは何一つないという感動的な時間でした。

このような体験も、勿論自分の身に何か特別なことが起きたわけではないのに、そのような状態がやってきてくれたのですが、これも瞑想中でのしっかりとした選択によって引き起こされたのだと思っています。

私たちはどんな状態にいようとも、愛を選択するスイッチを持っています。あまりに長い間それを使うことをエゴに止められていたため、もう持っていることすら忘れてしまったのです。

このスイッチのことを思い出すためには、何はともあれ選択することを習慣付けることです。そうやって、次第に愛を選択することだけが自分がやるべきことなのだと気付いていくことができます。それが真の幸せへの最短コースなのです。

選択 その4

私たちはみな幸せになりたいと思って、そうなるように努めているのですが、なかなか心の中のいやなことや苦しみが消えることはありません。

それは、自分がそれを選択しているからだと言うお話しを以前しました。なぜ無自覚にいやなことを選択するのかというと、エゴが自分を存続させるためにそのように仕向けているということもお話ししました。

私たちが幸せになろうとして選択してきたことが、実は幸せには決してなれないような選択ばかりをさせられてきてしまったのです。それはエゴによって間違った幸せを目標にさせられた結果なのです。

私たちは足りないものを得ることで幸せをつかめると思い込まされています。だからこそ、せっせと働いてこれが手に入ったら絶対幸せになると思ってるものを求めるのですが、それがいざ手に入ったところで結局は何も変わらないのです。

それでも次はこれを手に入れよう、あれが必要だとしてまたそれを求める毎日を送ることになるのです。残念ながら、私たちがそれを選択してしまっているのです。間違った幸せを選択するように仕向けられていることにしっかりと気付く必要があるということです。

幸せは内側に隠れています。それは永続的な心の平安、満ち足りていると永遠に感じている心の状態のことです。何かを求める心からはそこに到達することができません。

このことをはっきり理解したら、次のような気持ちをすべて選択しないと決意することです。

-自分を受け止めて欲しい
-自分を愛して欲しい
-自分を高く評価して欲しい
-自分の話を聞いて欲しい

そして、何かを手に入れることで自分は幸せになれると信じている心そのものを選択しないと決意することです。自分の外側に、救いはないということです。

知覚 その2

昨日のつづきです。

知覚には外部からの信号を取り込む部分とそれを解釈する部分があり、双方で意味のある情報として利用しているのですが、エゴは自らの都合のいいように解釈の部分を変えて、それを正しい知覚だとして我々に渡すというお話しをしました。

そのために、あるがままを受け入れるということがとても難しいこととなってしまっているのです。
知覚が生きる拠り所であるにもかかわらず、私たちはエゴによって勝手に歪められた知覚を正しい知覚だとして生活してしまっていることにしっかりと気付く必要があります。

エゴにとって都合の悪い情報が入ってきた時ほど、エゴはこれでもかというくらいに知覚を歪めてしまいます。

たとえば、年齢や姿かたちだけで人を判断してはいけない、などというのはこうしたエゴの知覚をそのまま信用してはいけないという戒めなわけです。

肌の色で人を差別したり、着ているものや持っているものでその人を判断してしまうのもエゴによって騙されているのです。

エゴによって、冷静さを失わされてしまっているようなときには、また更にひどく知覚を変形されてしまったりもします。

かつて、自分がとても急いでいるときに、店員さんがレジでの手順をのんびりやっているを見て、なんて無能な奴なんだと怒りを覚えたことがありました。

エゴに騙されずに、できるだけ正しい知覚を使って生活するためにはどうしたらいいでしょうか?言い変えると、どんなことでもありのままを受け入れていつも平穏な心でいられるためにはどうすればいいのでしょうか?

それは勿論、外部から入ってきた信号をエゴの防衛システムで解釈しないようにすることですね。そのままを受け取ることができたら、いつも正しい知覚を受け入れることができるわけです。

出来る限り、エゴを選択しないという選択をすることです。それはエゴと対極にある愛を選択するということです。

この選択がうまくできているときには、確かに知覚の仕方に違いがあるということを感じられるはずです。そしてそれは、本当にとても気持ちのいいものなのです。

知覚

私たちの肉体には、触覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚という五つの感覚器官がありますね。これにプラスして、エネルギーを感じる感覚器官を六つ目の器官であることから第六感などと呼ぶこともあります。

私たちは、これらの感覚器官から入ってくる感覚という情報を用いることで、生きることができるわけですが、これをまとめて知覚と呼びます。

人は目が覚めている間中、つまり意識があると自覚している間は絶え間なく知覚を使い続けています。よほど深い瞑想状態にでも入らない限り、知覚がなくなることはありません。

つまり、知覚を生きる拠り所にしているわけです。物を見分けたり、大小を比較したり、様々な違いを知覚することで普段の生活が成り立っているのです。

これをもう少し詳細に説明すると、知覚はただ外部から入ってくる信号そのものと、それを判断し解釈する部分とに分けられます。

この二つを組み合わせることによって、その感覚に意味を持たせることができるのです。入ってきた信号そのものというのは、そのままでは全く意味の分からない外国語を聞いているような状態と同じです。

その外国語の言葉の意味を解釈することができて初めて、自分にとって意味のある情報として受け取ることができるようになるのです。

ということは、つまり同じ信号を取り込んだとしても、それをどう解釈するかによって知覚そのものが全く変わってしまうということになります。言ってみれば、これが個人個人の個性に繋がるものですね。

同じ映画を観ても、それぞれに受け取る印象が異なるのはそうした知覚の中の判断や解釈の相違によるものです。

知覚を取り仕切っているのは、実はエゴなのです。エゴはエゴ自身に都合のいいように知覚するのです。それは受け取った外部からの信号を勝手な解釈や判断を付加した状態で、自分に渡すのです。

そしてエゴは、それを正しい知覚だと思わすのです。私たちは、そのエゴの知覚にすっかり騙されていることに気付いていないのです。

つづく

膠着状態

人は時として、右にも左にもどこにも行き場がなくなってしまい、完全に手詰まりとなって、こう着状態に陥ってしまうことがあります。

勿論、自分ではこの現状を何とか打破したいと追い詰められた気持ちで頑張ってみるのですが、結局どうしようもない出口の見えないところに入り込んでしまったようになるものです。

このような場合に、いくつか考えられる問題としてあげられることの一つは、自分をありのままに見ようとしていないということがあります。

自分に都合のいいことはいくらでも受け止められるのですが、少しでも都合が悪くなると、そのことを無視してみたり、受け入れられない心の状態のままでいたりするのです。

例えば、困り果てて誰かに相談したとして、相手が親切に核心をつくようなアドバイスをくれたとしても、そのことが自分にとって認めたくない内容だったとすると、それを聞かなかったことにしようとするのです。

そうしておいて、今度は別の人に同じ相談をするのですが、その人にもやはり同じようなアドバイスをされてしまうと、誰も自分のことを分かってくれないという気持ちになってしまいます。

そうして、誰に相談してもいいアドバイスをもらえないし、自分一人では解決することもできないし、どうしたらいいのだろうということになるのです。

そしてもう一つ、膠着状態を引き起こす要因として考えられるのは、何かのルール、あるいは信念、信条に基づいてその問題を見ることしかできないような心の状態になっている場合です。

つまり考え方そのものが膠着してしまっていて、いろいろな角度から検討してみるという柔軟性を欠いた状態になってしまっている場合ということです。

例えば、親との同居が気詰まりになっていて快適な一人暮らしをしたいのだけど、そのためには沢山残業をしてお金を溜める必要がある。しかし、働いてばかりいると、ストレスが溜まってイライラした毎日となってしまう。

それを発散するために高額をはたいてエステに行ったり、旅行にいったりしていて一向に一人暮らしのためのお金が溜まらない、のような悪循環が起きたりします。

これもある種の膠着状態ですね。エゴはこうした理屈を手放そうとしないので、それに嵌ってしまうと出口のない循環の輪の中をグルグルすることになってしまうのです。

自分が今まで培ってきた常識や考え方をエゴは大切に温存して、いつでもそれを利用して自分を縛ろうとするのです。

もしも、何となく膠着状態に陥ってるかもしれないと感じることがあれば、このようなことをじっくりと見つめてみることをお勧めします。そうすれば、おのずと循環の輪のどこか一部を切り離すことができるはずです。

成し遂げる

我々はこの世界に生きて、何にしろ何かを成し遂げるということにとても大きな価値があるというように思っています。

頑張りとたゆまぬ努力の成果として、目的としているものを成し遂げることは充実した人生を生きるうえではとても大切なことだと考えています。

確かに目的のない人生は味気ないものかもしれません。どんな目的であれ、それを成し遂げると自分が一つ成長した気持ちにもなれます。

ところが、この成し遂げるというのはその目的が具体的なものであればあるほど、それがエゴの成長に繋がって行ってしまうのです。

エゴは成し遂げることを肥やしにして、隆盛をきわめていくものだからです。練習して自転車に乗れるようになる。勉強して英語を話せるようになる。受験勉強をして希望の学校に入るなどなど。

このようなことを続けて行けばいくほど、エゴは益々力を蓄えていくことになります。しかし、成し遂げるにしてもその目的がより抽象的なものであるとすると、一概にエゴが勢いを増すとは言えなくなります。

それは例えば心の訓練をして、エゴを選択する代わりに愛を選択するという目的を成し遂げるとすれば、エゴは次第に衰退していくしかなくなってしまいます。

そして実はこの心の訓練は、成し遂げるという一般的なニュアンスではなくて、単に元々の本来の自分の姿である愛に気がつくということなのです。

私たちは、この世界で沢山のことを成し遂げた人たちを尊敬もするし、羨ましいと思ったりもしますが、しかし本当に大切なことは成し遂げることではなくて、真実に気がつくことなのです。

気がつくということは、本来成し遂げるのとは違って努力や経験を必要とはしないはずです。ところが、成し遂げることにとにかく価値があると思い込んでしまっているために、それなりの努力をしなければ気付くことだってできやしないと思い込んでもいます。

エゴを成熟させてしまう、この成し遂げるということを一度見直してみる必要があると思います。

いい人路線

罪悪感を人一倍感じやすい人は、いい人であることが多いです。これは決して偶然ではありません。いい人がたまたま罪悪感をたくさん持っているのではなく、罪悪感に敏感だからいい人にならざるを得ないのです。

つまり、少しのことでも自分を責めてしまう傾向が強いと、大したことではないにも関わらず自責の念にやられてしまうため、本人としてはそれが辛いのでできるかぎりいい人になろうと頑張るのです。

誰でも自分の何らかの言動によって、周りの人を傷つけてしまったり、いやな気持ちにさせるようなことがあれば、それは確かに悪い事をしたなと後悔するものです。

その時に、どのくらい自分を責めてしまうのかは人によって様々なのです。一度謝ったのでもう大丈夫と割り切ってすぐに忘れてしまえる人もいれば、いい人のようにいつまでも後悔の渦の中に落ち込んだままになってしまう人もいます。

こうして罪悪感が強い人ほど、いい人路線を突っ走ることになっていくのですが、その度合いが大きすぎるといい人を継続するだけ自己犠牲を溜めていくことになってしまいます。

いい人路線、つまり自己犠牲を強いていい人を演じて罪悪感を感じないようにするのか、あるいは自己犠牲を手放し、いい人になることをあきらめて、辛い罪悪感と格闘するのか、二つに一つだと思いがちですね。

しかし、そのどちらにしてもエゴの領域なのです。そのどちらも選択しないという選択があるのです。それが、エゴの代わりに愛を選択するということです。

愛はいい人になって罪悪感から免れようとするのではなく、罪はないとして罪悪感を認めないでいられるのです。だからこそ、自己犠牲を払うこともないし、とりたてていい人になろうと思うこともありません。

自分はそこそこいい人と思われてるかもしれないという自覚のある人は、このことをよく見つめてみて下さい。いい人は努力してなるものではなく、愛を選択することによって自然と気持ちのいい人になるのです。

今この瞬間からでもいい人を卒業して、できる限り愛を選択するようにしていくことです。いい人を手放す恐れに負けないためにも、聖霊を信頼してすべてを委ねることです。