現実という夢

朝目覚めたあとに、何となくこんな夢をみたなと思い出すときがありますね。私の場合には、ストーリー性のないなんとも奇妙な夢が多いです。

記憶と記憶が予期せぬ事柄で繋がっているということを思い知らされるような夢を見ることもあります。とにかく、私の夢は印象に残ることは残るものの何を訴えたかったのか分からないほどに支離滅裂です。

目覚めたあとの自分の理性はその夢と比べるとしっかりしていて、理路整然とした考え方が出来ているという自覚があります。

身の回りに起きることも理屈に合っていることばかりですし、まったく夢の世界とは違って意味がはっきりとしていると考えることができます。

ところが、奇跡のコースではこの現実こそ幻想である、夢のようなものであると教えているのです。そうなると、この現実という夢から覚醒したら一体どれほどの知性の中にいるのか想像できないくらいです。

きっと、その世界では分からないということが一つもないという状態なのだろうと予想できます。私たちはこの現実の世界ではほとんど分からないことだらけです。

科学が発展して、昔よりは様々なことが解明されてきつつあることは疑いようのない事実ではありますが、もっと根本的なことは何一つ分かってはいません。

例えば、なぜこの宇宙はあるのかとか、自分とはなぜこの世界に生きているのかといったことは決して分かることではないと知っています。

こうした誰にとっても根源的な質問について、すべてが分かりきっている世界というのがここから覚醒した世界なのかなと思います。

コースではその状態を知識と呼んでいます。知識とはそれそのものがただ分かっている状態のことです。私たちのように知覚することで理解するのとは全く異なるものです。

何の疑問もない世界、分からないことは何一つない世界、それが本当の実在の世界だということです。そして、誰もが本当はその世界に今この瞬間も生きているということです。

そのことに気づきさえすれば、いつでも覚醒できるのです。 もっと深くみると、覚醒しているかどうかということ自体も、本人の自覚の問題だけなのかもしれませんね。

手間を惜しまない

大人になると、一度くらいバーに行ってお酒を飲むことがあるかもしれませんね。バーテンダーさんがシェーカーをカチャカチャ振ってカクテルなどを作ってくれます。

目の前で作りたてをグラスに注いでもらって飲むと、本当においしいなと感じるものです。それはあのバーテンダーさんの手間がかかっているからかもしれません。

それは自分でやっても経験することができます。冷やしたほうがおいしくなる飲み物を飲もうとするときには、グラスに氷とその飲み物を入れて100回まわすのです。

そうすると、本当においしく飲むことができます。試してみて下さい、本当ですから。それは、100回グルグルとまわすという手間がかかっているからです。

ちょっとした野菜炒めを作ろうとするときにも、肉を卵につけて片栗粉をまぶすというちょっとした手間をかけるだけで、とてもおいしい野菜炒めになります。

おいしい紅茶を飲もうと思ったら、ミルクや砂糖を混ぜるときにおいしくな~れと呪文を唱えながら少しばかりの手間をかけてあげるのです。そうすると、まろやかさが出てとてもおいしくなります。

手間というと、何となく面倒なことというイメージが付いて回りますが、実は気持ちをその作業をしているときに入れ込むということだと思うのです。

その気持ちや思いが、食べ物や飲み物を一味違ったものにしてくれるのでしょうね。手間というのは、時間と労力を必要とするのです。

それが逆に言うと、その人の相手を愛しいと思う気持ちに繋がるのではないかと思うのです。そうした与える気持ちが相手に届くのかもしれません。

そしてそれは必ず、自分にも帰ってきます。それは与えた分だけ嬉しい気持ちになって戻ってきてくれるのですから、病み付きになるかもしれません。

この年になるまで手間を省こうとする人生をずっと送ってきたと思いますが、それは結果として味気ない人生を作り出してしまったともいえます。

何事にも手間を惜しまずに、相手を思う気持ちをそこにやさしく映してあげることですね。それはきっと何とも言えない気持ちよさを受け取ることになるのですから。

ボランティア活動

小学生のころに、ボーイスカウトの下部組織であるカブスカウトというのに入っていたことがあります。紺色の帽子に紺色の上下の制服を着て、とても目立つ格好をさせられていました。

その時に、一年に一回必ず赤い羽根運動と言って、共同募金の活動をするのです。今でもはっきり覚えているのは、池袋の東口の一番人通りの多いところで募金箱を抱えて道行く人達に訴えるのです。

「共同募金お願いしま~す!」大声で何回も繰り返し叫んでいると、子供のそうした姿が可愛らしいと思ってくれるのか、大人たちは結構な数の人達が募金箱にお金を入れてくれます。

その額に関わらず、赤い羽根を一つ取ってその人の服のどこかの部分にそれを付けてあげるのです。あの時はほとんど何も考えずにただそれを続けていました。

それが人生で最初のボランティア活動だったと思います。それがボランティア活動だという意識もほとんどなかったと思います。

あれから自分はボランティア活動にはまったく縁のない人生を送ってきました。心が冷たいと言われればその通りかもしれません。

自分ではあまり意識はしてなかったかもしれませんが、なぜそうした活動を一切しなかったのかと考えてみると、どうも善意の活動というのが自分にはそぐわない感じがあったのだと思います。

そして、もう少しよく見てみると、その善意というのが自分で胡散臭いと思ってしまう部分があるように思います。つまり、誰かのためと称して自分のためなのではないかということです。

自分が心配していたのは、「役に立ちたい症候群」であってはいやだという思いだったのです。そうした自分を欺く的なことにひどく敏感だったのでしょうね。

この年齢になってようやくそうした心の欺瞞に対して、それほど恐れなくなってきたのでやらないよりやったほうがいいかもしれないと単純に思うようになれました。

人助けという言葉は今だに少し抵抗を感じるのですが、そんなことは大したことではないし、自分も助けてもらっていいんだということが分かって、ようやく誰かの役に立ちたいと改めて思える今日この頃です。

救いを求める心

私たちは幸せになりたいという思いと、救われたいという思いとを混同しています。救われたいという願いが悪いということでは勿論ありません。

だれだって、辛い思いや苦しい境遇から救われたいと望むものです。たとえば苦痛を伴う病気を患っているなら、一日でも早く治ってくれたらと願わずにはいられませんね。

商売をしている人であれば、売り上げが思ったように伸びないでいたら生活が困窮してしまうことにもなりかねません。

社会の景気が少しでも回復して、商いが順調になるようにと願うのが当然です。農業に携わる方々でしたら、適度な気候や恵の雨が降ってくれるように願掛けするかもしれません。

このように、私たちはなるべく困らないように、できるだけ苦しまないですむように、物事が順調にいくようにといつも思っています。

そして窮地に立ったとしたら、そこから救われたいと思うわけです。それが自分のことであれ、大事な人のことであれ同じように願います。

しかし、本当に救われるためには心が満ち足りた状態にならなければなりません。困った事態が解決しただけでは、ほんの一瞬だけの満足で終わってしまいます。

いずれはまた、何かの問題が発生することになって、その状態から救われたいと願うことになって、それは永遠に続くことになるのです。

つまり身の回りに起きていることや、自分の身体に起きていることからどれだけ救われたとしても、それは一過性の救いであるに過ぎないということです。

真の救いこそが本当の幸せになることなのです。それは決して目に見えるようなものではないし、従って他人から理解してもらえるようなものでもないのです。

あくまでも自分の心の中で感じる幸福感でしかありません。理由もないのに、なぜか満ち足りていてすべてが揃っているという感覚です。

これは何かを解決して救われようとするのとは全く次元の異なることなのです。あなたはどんな救いを求めていると思いますか?

一度じっくりと自分が何を望んでいるのか、見つめてあげることが大切だと思います。

あるがままを認識する

ごく普通に知っている漢字をじぃ~と眺めていたり、何度も書いたりしているうちに、あれこんな漢字あったかなという不思議な感覚になることがありますね。

しばらくすると、また元の状態に戻っていつも通りその漢字を読めるようになります。きっと誰もがそんな経験をしたことがあるのではないかと思います。

例えば、奇跡の「奇」という漢字をずっと眺めて、上が「大」で下が「可」なんだなあと思っているうちに段々変な感覚になってきます。その二つの字からできていたなんて思ってもみなかったというような…。

よほど、漢字の成り立ちに興味があったりして詳しい人以外は、奇跡の「奇」の字はそんな二つの漢字の構成からできてるんだとは思ってもみないはずです。

これは私たちの認識の方法に原因があるように思います。漢字に限らず、対象物を認識するときに、より直接的に観察することになった時、いつもの認識ができなくなるのだと思います。

親しい家族や友人なのに、ふとあれこの人誰?というような感覚になったことはないでしょうか?相手をじっと見つめていたりすると、そんなことが起きます。

勿論漢字の時ほど明確ではありませんが、注意深く自分の感覚を見ているとそうなるときがあります。ちょっと怖いかもしれません。

私たちは自分では気づかぬうちに、ある特定の方法で外の世界のものを認識しているのだと思います。その方法から少しでもずれてしまうと、もうそれが何だったか分からなくなるということです。

ということは、自分は日頃一体どれだけ勝手な見方をしているのだろうかという疑問が沸いてきます。本当にそのものをあるがままに見ているのだろうかと。

実はあるがままに見るということは、至難の技なのです。それは、厳密に言えばかなり不可能なことだと思って間違いありません。

それは、認識というのは必ず独自の判断や解釈の上に成り立っているからです。それはもう全く無自覚のうちにしてしまうために、自分では気づくことができません。

奇跡のコースのワークブックで訓練することは、まさにこの身勝手な解釈や判断をしていることに気づいて、それを少しずつ手放していくということなのです。

それがすべてをあるがままに認識するということに繋がるのです。それができると、裁くという無意識のクセを取り除いていくことができるのです。

それは結果として、自分の心を愛で満たすことになるのです。真の幸福とはそうした心の状態によってのみ実現するとコースでは教えてくれています。

費用の決め方

以前テレビ番組で、ある企業において、各社員の給料の額を全員で決めるというのを特集していたことがありました。詳しいことは覚えていないのですが、確かに社長の給料も全員が関わって決まるようなシステムでした。

それぞれの人が自分はこれだけの実績を上げたので、このくらいの給料をもらいたいという希望を提出し、それについて全員でその妥当性を討議するというものだったと思います。

ですので頂点に位置する社長といえども、自分で自由に自分の給料を決められないわけです。ある意味とても民主主義的な方法と言えるかもしれませんね。

それはとても斬新な給料の決め方だなと思った記憶があります。私がセッションの費用や講座の受講料などを決める際には、私自身の独断で決めています。

先日開催したヒーリングセミナーの参加費用も、大した理由もなしにこのくらいという具合に決めさせていただきました。

正直、一体何を基準に決めたら本当にその額に妥当性を感じることができるのか、自分では全く分からないのです。したがって、言葉は悪いですが「えいや」で決めてしまいます。

もっといい決め方というものがないのかなと時々思ったりもするのですが、今まで実現したことは一度もありません。

いっそのこと、セッションの費用はそのセッションにいらっしゃるクライアントさん自身に決めてもらうのがいいのかなと思ったりもします。

講座も同じように、私が決めるのではなくて、それぞれの受講者のみなさんが独自に決めていただけるというシステムにできたらいいのかもしれません。

その場合、費用は個人個人で異なることになってしまいますが、いただいた額を私のほうで公表することはないようにするというルールが必要ですね。

そうすると、学生さんや金欠病の方は当人が無理なく支払える額になるでしょうし、ふところに余裕のある方はそれなりの額を払っていただけることになると思います。

また経済的な状況だけではなくて、セッションや講座などのその時の満足度というものも、支払っていただく額に反映されることにもなるかもしれないですね。

そんな理想的な費用の決め方ができたらいいなと思っています。近いうちに実現するかもしれません。それが吉と出るか凶と出るのかは聖霊に委ねることにしたいと思います。

ダイアモンドの原石

毎日のようにセッションや講座などで多くの人々とご一緒に心の癒しについて学んでいると、内心とても感動させられることがあります。

それはご本人はまったく気づいていないのですが、そのかたの本質があまりにもすばらしいと感じさせてもらえるので、なんとも嬉しい気持ちになるのです。

本当に光り輝くダイアモンドだなあと分かるのですが、当のご本人はそんなことには全く気づかない様子で苦悩の中にいたりするのです。

名実ともにキラキラしたダイアモンドだと認めることができないので、ああダイアモンドの原石だと思ってしまうわけです。

それが私にとってはとても嬉しい瞬間でもあります。その気持ちをどう伝えて差し上げればいいのかなと思いますが、大抵はきっと理解してはもらえないだろうと言わないでいます。

よくテレビなどで、素人の人達からタレントをスカウトするような番組を見ることがありますが、初々しい慣れない若い人でこの人が優勝なの?と思うような人が合格したりすることがありますね。

厳しいプロの目から見て、今はまだ荒削りだったり見た目も全然洗練されてないような人が意外に合格してしまうのは、その人の可能性の高さを見抜いているのでしょう。

そうしたことと似ていると言えるかもしれませんが、本人が毎日辛かったり何もうまく行ってない人生だと思ってたとしても、私から見てやはりすばらしいものを持っていると見えるのです。

きっと磨けばどんどんダイアモンド本来の光沢が出てきて、誰もがああすばらしいと感嘆するだろうと感じる何かを持っていると思えるのです。

そういう人達とご一緒に癒しを進めていけることはとても光栄ですし、本当に幸せだなと感謝せずにはいられません。

これは特定の誰かということではなくて、誰もに当てはまることなんです。一人ひとりがみんなすばらしいダイアモンドの原石なのですから、本当に何の心配もいらないです。

本当の自分

何年か前に大勢の人たちと一緒に瞑想しているときに、自分は「大澤富士夫」ではないなと感じたことがありました。

だからといって、他の誰かであるわけでも勿論ないのですが、今まで生きてきた自分の歴史との繋がりがバサッと取れてしまったような感じになったのです。

幼い頃の思い出や小中高大と過ごして社会人になってという経過を忘れたわけではないのに、それが今の自分と繋がらないような不思議な感覚でした。

それは自分なりに解釈すると、今まで作り上げてきた自分のアイデンティティが消えてしまったかのような感覚とでもいうのでしょうか。

自分の名前とそれに対応する自分の姿というものが、急になくなってしまった感じがしたのです。こういう親に育てられて、こんな友達が回りにいて、というのが幻のようになりました。

過去への記憶に現実感がなくなってしまったのでしょうね。それはある意味とても新鮮な経験でした。それまでの人生でそうした体験は一度もなかったからです。

それと同時に、それまでの自分が自分に課してきた様々な制限や縛りなどからも開放されたように思いました。その中で一番自分にとって大きかったのは、助けてもらってもいいんだという思いでした。

そんなの当然だと言われそうですが、どうも自分の中では人からの助けは不要と思っていたらしいことが分かったのです。

ずいぶんと傲慢な生き方だったと言わざるを得ませんね。人は長い人生をかけて、自分の自己像というものを作るのですが、ある意味それを打ち砕いたともいえます。

でもそれは完全なものではなく、ほとんどは戻ってしまいましたが、それでもその時の爽快感のようなものは、はっきりと今でも覚えています。

そして、またあの体験をしたいなと思ってもいます。あれが、本当の自分に近い自分の姿なのかもしれないと感じるからです。 あの時の自分は、とても中立で愛に満ちていていい奴でした(笑)。

「与える」喜び

このブログでも今まで何度も繰り返し書いてきた「与える」ということについてまた書きたくなりました。およそこの世界で意味があることと言えば、「与える」ということになります。

それ以外には何の意味も見出せません。与えることの真反対は「手に入れる」ということになります。この「手に入れる」ということからは、どんな望ましい結果も起きないのです。

そればかりか、罪悪感や恐怖、そして怒りを継続することになるだけです。何かを「手に入れる」と、その瞬間だけある程度の安心を得ることができます。

しかし、そうした一過性の安心が、その次に何かを「手に入れる」ということへの原動力となってしまうのです。

そしてそれが手に入らないと、恐怖や怒りを作り出してしまうことになります。仮に手に入れられたとしても、場合によって罪悪感を引きずってしまうことにもなるのです。

「手に入れる」行為は、そうした危険ばかりをはらんでいるということに十分気づかなければなりません。気づかなければ継続させてしまうということです。

「手に入れる」ということに執着している意識から自分を解放する一番いい方法は、「与える」側に立って物事を見るということしかありません。

「与える」ことに専念している間は、「手に入れる」ことを忘れることができるからです。だからこそ、その時ばかりは罪悪感、恐怖、怒りなどからも開放されることになります。

そして「与える」心は必ず与え返されるということも真実です。だから「与えた」結果も喜びや嬉しさが満載になるのです。

「与える」喜びのことをこれほどまでに分かっていながら、常にそうできない理由とは何でしょうか。それは、私たちの心に根深く染み付いてしまった与えると損をするという思いです。

「与える」と減る、「手に入れる」と増えるという考えに乗っ取られてしまうと、「与える」ことができなくなってしまうということです。

こうしたいただけない昔ながらのクセに気をつけながら、ただ「与える」ということを選択できるように意図しながら生活できるといいと思います。

「手に入れる」ことはエゴを救うことになり、「与える」ことは自分を真に救うことになるのですから。

時間という牢獄

私たちは誰もが時間という一つの流れの中で自分の生を生き続けていると感じています。どんな境遇であろうとも、このことから外れている人は誰もいないのです。

この状態のことを当たり前のこととしてそれ以上考えないで済ましているわけですが、コースでは時間は本当はないということを教えてくれています。

時間とは私たちの心の中で作られたものだということです。実在するものではなく、自分自身を縛るカッコウのツールとして使っているのです。

私たちの心は時間である過去と未来に翻弄された状態のままになってしまっています。過去という時間は、自分や他人が犯してしまった罪を作り出してしまいました。

そのことによって、誰の心も罪悪感を奥底に隠し持っていると思い込むようになってしまったのです。それは必ず恐怖を誘導するのです。

そして未来という時間はその恐怖をホンモノにする場所であると言うことができます。心が未来に向かうことで恐怖はよりそれを現実にすることができるのです。

こうして時間は罪悪感と恐怖に自分の心を縛ることに成功し続けているのです。瞑想や愛を与えることによって、この時間の呪縛から外れることができます。

実在とは時間という妄想を妄想としてみることで体験することであり、それに一番近いのは今この瞬間を感じるということです。

過去も未来も時間という妄想からくる狂気の産物でしかありません。そして最もポジティブな発想としては、時間はそれが妄想であるとの気づきを得るまでのツールであると考えることです。

それこそが本当の時間の使い道なのです。これが逆転の発想とも言える、コースの教えです。時間についてこうした考察ができないと、いつまでも時間という牢獄に縛り付けられたままになってしまいます。

時間という自分が作った牢獄から解き放たれて身軽になったときに、本当の自分は命という永遠の存在であることに気づくことになるのでしょう。