規則を決めない

今回の大震災のような出来事に遭遇したなら、自分はどういう行動をとることが一番いいのかということについて、日頃から準備しておくことはとても大切なことですね。

それは国のレベルにおいても、そして個人のレベルにおいてもいえることです。危機管理の体制をあらかじめ構築しておくことも有効です。

こうなったらこうする、こういう事態にはこう対処する、などのように具体的に互いに申し合わせをしておくこともとても大事なことです。

しかし最も大切なことは、本当に必要な行動とはその瞬間になるまで決めることはできないということにも気づいていることです。

大した事例にはなりませんが、例えば私が講座やセミナーをするときに、ある程度は事前にこんなことを伝えようと準備しておくのですが、いざその場になると内容が変わってしまいます。

勿論無理して、準備した内容を堅持することもできるのですが、それはどうも効率が悪いしその瞬間に最も適した内容ではないと感じてしまうのです。

だからといって、準備作業がまったく必要ないということではなく、逆に準備しておいたほうが悠然と内容をその状況に合わせて変えることができるような気がします。

私たちはいろいろ分かっているように思えても、実際この世界で何が起こり、自分は何をすべきかなど何一つとして分かってはいないのです。

その瞬間になるまで、どんなことを選択しどう行動することが一番いいのかということは、決して誰にも分からないようにできています。

自分がある状況で何をするべきか、規則を決めないということです。機会がやってきたときに、自分の本質を見て、そして自分が何をするべきなのかを「発見」することです。

そうした態度こそが、謙虚にその状況を見て、真の自己からの情報をその都度受け取る生き方につながるものではないかと思うのです。

自分の内面を見る

瞑想や座禅などをして、自分自身について深く見つめるという場合、実は気づかぬうちに間違った内面の見つめ方をしていることがあるのです。

そのことについて、私の事例を使って説明してみたいと思います。11年前に、会社員を辞めるまでの間、自分の人生はそこそこいいんじゃないのという思いを持っていました。

つつがなく安全な人生、誰からも後ろ指を指されない平和な毎日。そうしたものに自分で自分に満足していたのだと思います。

それは自分という人間を外側の視点から見ていたわけです。つまり、他人が自分をどのように見ているのかということを類推して、それを自分なりに判断して自分の評価としていたということです。

でもそれはいつまでも自分を騙しておくことはできませんでした。なぜなら、誰にも知れない心の奥で何かが違ってるということを感じていたからです。

このままじゃ違うんじゃないの?という声は自分以外の誰にも聞こえるものではありませんが、最終的に癌を患ったことによって噴出してしまいました。

それまでも自分の内面を見つめるということをまったくやっていなかったわけではないのですが、結局は外側の視点から自分の内面を見ると言う離れ技をやっていたということです。

本来それは不可能なことですね。つまり、こうした視点を間違ったままで、いくら瞑想や座禅をしてみたところで何の価値もないということです。

話しを元に戻すと、私たちにとって最も大切なことは、自分の内面という視点から内面を見つめるということなのです。

それには、一切の予備知識や常識などの前提となる評価基準などを度外視して見つめることがどうしても必要なのです。

それは、今この瞬間にただ自分が感じることだけを頼りに、内面を見るということです。あるがままをそのままに見るということでもあるのです。

それができて初めて、自分を本当の意味で内面から見つめることができるようになるのだと思うのです。

もしも本当にそれが十二分にできるとすると、きっとあらゆる自分に対して全面的にOKを出してあげることができるのでしょうね。

それこそが本当の心の平安を得ることでもあるし、真の許しということでもあるのだと思うのです。

不自由さの原因

私たちはみんなそれぞれに、これが自分だと思っている自己像というものを持っています。そして、心の底からそれが確かに自分なのだと信じ込んでしまっています。

しかし、それは実際には生まれてからずっと繰り返して教えられてきた自分のイメージでしかないということを知らずにいます。

残念ながら、我々は周りによって作られた自分のイメージによって、自分というものを認識するようになってしまったのです。

そのことをよくよく理解する必要があります。これは誰にでも言えることなのですが、本当はみんなもっともっと自由奔放に生きれるはずなのです。

ですが、自分とはこういう人間なのだということを教えられ、躾けられ、信じ込まされることによって偽物の自分を作り上げて、それを信じてこの社会に適合しながら生きているということです。

例えば、幼い頃に親などから、「この子はおとなしい静かな子だね!」と言われてしまうと、本当は言いたいことや訴えたいことがあったとしても、言えなくなってしまうということがあるのです。

そうやって、言えなくなると、益々そうした自分像に忠実に振舞わなければならないというルールが出来上がってしまい、それを打ち破ることがとても難しくなるのです。

こうした事例が数え切れないくらいに日常の生活の中に組み込まれていくことで、気が付くとにっちもさっちもいかないような、大変不自由な人生になってしまうということがあるのです。

どんな人でも心のどこかで不自由さを感じているはずなのですが、それにはこうした理由があったということです。

そして更にやっかいなのは、不自由であることを自覚していたとしても、人間は自己像を変えたいとは思わないという性質を持っているのです。

だから、自己像が不自由さの源であるということが仮に分かったとしても、その自己像は温存しておいて、目先の不自由さだけを何とかしたいと思ってしまうのです。

これでは死ぬまでその不自由さは解消されることがありません。何度繰り返しても足りないくらいですが、私たちは本当の自分で生きてはいないということをしっかり見つめることです。

どんな気質や体質で生まれたとしても、素の自分そのままで生きることができるとすれば、それは必ず生きやすい人生になるはずなのです。

みんなで、互いに協力しあって、誰もが素のままで生きてもいいんだということを認め合えるような世界になることを祈っています。

原発の問題

私たちが毎日生きて生活していられるのは、太陽が変わらずに光輝いていてくれるからですね。そのありがたい太陽が何十億年も光と熱を地球に供給してくれている燃料とは何でしょう。

実は太陽そのものが燃料であるわけですが、それが核融合によるエネルギーなんですね。それは次から次へと自ら核融合反応を起こして、半永久的に光と熱を発生するのです。

人類の歴史上、そのメカニズムに着目した賢い人たちがいたわけですが、その最初の利用目的が戦争兵器としてだったのは言うまでもありません。

つまり、この日本においてかつて投下された原子爆弾がそれです。被爆した人たちはひどい火傷を負ったのはその核融合の熱のためです。

そして今、まったく同じメカニズムによって私たちの毎日の生活が支えられているわけですが、それが原子力発電ですね。

原発とは、核融合によって熱を発生させてそのエネルギーによってタービンを回転させて発電するというものです。

ある意味、原発は近代国家の代名詞でもあるかもしれません。その誇らしい最先端の技術が、今人間の安全な生活を根本から脅かすことになっているのです。

原子爆弾に代表される核兵器といわれるものの所有を縮小するという申し合わせが世界中でなされている中で、まだ新たに開発しつつある国があるのも事実です。

原発にしても、多くの疑問や反対を押しのけて現在に至る紆余曲折の道があったにもかかわらず、以前として発電の中心的位置を確立しているわけです。

悪者探しをする前に、原発を撤廃したいと思うのであれば、一人ひとりの電気の使用量を根本的に見直すことから始めなければならないと感じます。

大学の友人のこと

大学の時の友人が仙台にいて東北電力に勤務しているのですが、きっと大変なことになっているのだろうと思って日曜日の夜にメールしておいたのです。

返事は当分もらえないと思っていたのですが、安否も気になっていた彼から水曜日に返事が返ってきました。それが以下のものです。

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メールありがとう。

あの日は命を失いかけました。老朽ビルの7階におり,立っていることはできませんでした。

当然,倒壊を覚悟しました。会社はいま大変なことになっております。あの日から,トータル

10時間しか寝れていません。これは被災された方から見ればたいしたことではありません。

とにかくすごい地震でした。電気は今日中の復旧を目指し,6000名の応援体制でがんばっております。

とにかく友達に聞かれた際には,家族も含めて無事であることを伝えてください。

とりあえず御礼まで。ありがとうございました。

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無事を聞いて一安心したのですが、真面目な彼の性格上、そして重責を担っている立場としてきっと寝れてないのだろうと思っていたのですが、その通りだと知って胸が痛みました。

なぜか、地震が起きてからずっと平安を保つことを心がけてきたせいか、いっきに涙が止まらなくなってしまいました。

それでも、すぐに真の自己を思い出し、そこに意識を向けて、あらゆることを受容することを忘れないようにしようと思い直すことができました。

まだまだ大変なときが続くのでしょうけれど、心から応援していようと思います。「何があっても大丈夫」のエネルギーを送り続けます。

一番でなければならない

誰でも幼いときというのは、ものすごく親の自分に対する反応に敏感なものです。だから褒められたらとても嬉しいし、逆に落胆されたりしたらそれこそショックなのです。

懸命に親に迷惑をかけないようにしてみたり、自分のいいところばかりを見せようとしたり、本当に涙ぐましい努力をしているものです。

それはもしかしたら、大人以上かもしれません。なぜなら、幼いときというのはまだ常識が出来上がってはいないために、自分の感覚だけを頼りに生きているからです。

この程度は当たり前だとか、誰だってこうしたことは言われるものだといったような判断が冷静にできないために、一人で小さな心を痛めてしまうのです。

それはすぐ身近にいてくれる親と言えども、なかなか分かってはあげられないものです。なぜなら、悟られてしまうようでは意味がなくなってしまうからです。

子供は親に心配をかけたくない、自分のために悲しい思いをさせたくないという気持ちがとても強いからです。

そうしたことを何とか根こそぎ解決する手立てはないものかと考えて、自分なりに目標を作るのですが、その一つが「自分は一番でなければならない」というものです。

これは、もしかしたら女の子よりも競争意識の強い男の子の方に多いのかもしれません。一番になることで、親に喜んでもらえるし、ありとあらゆる心配ごとから脱出できると思うのです。

そうした決意を小さな頃に作ってしまうと、それは間違いなくそれ以降の人生を大変過酷なものにしてしまうことになります。

なぜならいつも一番になれるはずもないため、そのたびごとに自分を責めることになってしまうからです。だから、また更にもっと頑張って一番になろうとして自己犠牲を払うことになるのです。

自分の心のどこかに、こうした「自分は一番でなければならない」と思っている意識がありそうだと感じるのでしたら、まず最初にその意識を思い切り受け止めてあげることです。

その言葉を何度も口に出して表現してあげることも効果があります。それを十二分に繰り返してやってあげることがとても大切です。

そうやってしっかり受け止めてあげることができたら、自然とその固い決意をした意識のパワーが小さくなって静かになっていってくれるはずです。

そうなって初めて、自分はこのままでもいいんだという深いところからの安心感に包まれたように感じることができるようになると思います。

平安の輪

幼い頃に家の裏で友達と三輪車に乗って遊んでいるときに、その三輪車ごと石神井川にどぼーんと落下してしまったことがありました。

汚水が垂れ流されている川の水の中に投げ込まれたようになって、わけも分からず水中でもんどりうっているときに誰かの手によって救い出されました。

そのときに偶然にも川の中に入って何かの仕事をしていた労働者の方がいたのですね。その人がいなければ確実に死んでいたところでした。

そのときの記憶がかすかに残っているのですが、川の水の中で自分がどうなっているのかも分からない時というのは、決して苦しいという自覚がないということです。

きっとそのまま助けてもらえなければ、幼い自分は苦しむこともなく溺れて死んでいたということです。その経験が少し役に立っています。

というのも、わけが分からずに死んでいくときには本人は苦しむことがないと感じるからです。特に、生というものに執着のない幼い子供はなお更苦しまないということです。

生きるということに執着を持つようになった大人であるほど、そして自分の状況を正確に把握できる時ほど、災害のときに苦しむということです。

予期せずにあっという間に津波に飲み込まれて亡くなった人たちの心は安らかかもしれません。かえって、残された人々の方こそ一番心を痛めているに違いないと思うのです。

話し変わって、昨日の午前中、バスルームの電球が切れてしまったので家電量販店に買いに行ったところ、レジでびっくりするほどの行列ができていました。

そしてほとんどの人が、大量に電池などを手に持っているのを見て、これが必要以上の買占めというものだなと分かったのです。

あれではすぐに売切れてしまうのが目に見えています。何度もこのブログでお伝えしているように、一番大切なことは心の平安を保つということです。

未来を不安の心で見るのではなく、今、落ち着いた心で過ごすことこそがこの日本に最も必要なことだと思うのです。

何が目の前で繰り広げられていると感じようとも、心の軸を失うことのないようにする練習の時だと思って、それをできる限り実践することです。

平安な心は必ず、自分の心から拡大して多くの人の心へと伝わるものです。みんなで、平安の輪を繋げられるようにしましょう。

平安な心の祈り

この非常事態において、一人ひとりができることは、それぞれに違いがあるかもしれませんが、共通して言えることはいたずらに心の中の不安に翻弄されないようにすることですね。

私も久しぶりにテレビの報道に釘付けになってしまってたりするのですが、とてもじゃないけれど平静な気持ちで見てはいられなくなりそうになります。

それは人として仕方のないことですが、様々な気持ちがやって来ても、それにもかかわらずできるだけ平安を保つようにすることが大切です。

夕べ、息子から突然次のようなメールが来てしばしびっくりしていました。

『もう何があるかわからないから一応先に言っておくけど
私は臓器提供の意思があります
誰かの役に立つならいいかなって思ってる』

宝くじで3億円当たっても一円たりともあげないと言っていたまだ若い息子をして、上記のような言葉を言わせることになった今回の天災とは、本当にすごい影響力があるんですね。

人は自分がどんな辛い状態に追いやられたとしても、たとえ寒くてひどい環境で一睡もできなかったとしても何とかなるものです。

でも、大切な誰かの安否を気遣うのは本当に耐えられないのです。そのことをテレビの報道を通してありありと感じることができました。

自分の心の中にある平安な気持ちを、できるだけ被災地の多くの人の不安な心に届くようにと祈ることですね。心配のエネルギーを送らないことです。

そして起きることが起きているということを認めましょう。この世界で起こるプロセスを信頼して、できるだけ受け入れようと努めることが一番大切なことだと思います。

たくさんの祈りのエネルギーが、今この瞬間に苦しんでいる人たちに届きますように。

感謝の気持ち

本当に大変な災害になってしまいました。被災地のみなさんができる限り早く心の平安を取り戻せるように祈るばかりです。

私が小学生の頃に、友達が、「天災は忘れたころにやってくるというから、僕は絶対に忘れないんだ!」と言っていたのを思い出しました。

その頃の自分はもう少しクールだったので、それは忘れなければ天災は起きないということではないのに、と言いたかったのですが彼の瞳があまりにも真っ直ぐだったので言葉を飲み込みました。

今になってそのことを考えると、あながち間違いでもないのかもしれないと思うのです。それは、被災したときに水のありがたさ、電気のありがたさ、寝る場所のありがたさ、そして人の愛のありがたさなどを思い出すことができるからです。

つまり、そうしたものすべてが自分が生き続けることを支えてくれているのだということを、忘れたころにそのことを思い出すために天災がやってくると思えるということです。

普段、友達というのはそこにいて当たり前だし、別に話し相手になってくれてありがとうとも考えたことがなかったのですが、高校の修学旅行で具合が悪くなったときに、夜通し看病してくれた男友達がいました。

そのときにはさすがにありがとうという思いが出てきたのを覚えています。いつもは何とも感じない友達への思いの中に、そうしたものが本当はあったんだなと自覚したことがありました。

でもすぐにそんなことは忘れてしまって、つまり喉もと過ぎれば…という都合のいい生き方は変わらなかったですね。

長い間感謝の気持ちとは縁がなかった自分ですが、ようやくこの頃になってそうしたことが分かるようになってきたというのが本当のところです。

ストレスの発散

昨日は大変な地震が発生しましたね。きっと、今この時間も自宅へ帰れない人たちが沢山いるんでしょうね、さらに寒さもひどくなってしんどいと思います。

私の息子も職場から4時間以上かけて、徒歩で戻ってきたようです。自分が直接経験した地震の中では一番ひどいものでしたね。

ちょうど、初めてのクライアントさんの催眠療法のセッションの真っ只中だったのですが、なかなか揺れがおさまらなかったので、その場で目を開けていただき中止しました。

こんなことは初めてです。久しぶりにテレビの電源を入れて、日本列島で起きていることを確認しましたが、プレートにかかっていた大きなストレスが開放されたための地震なのですね。

私たち生身の人間でも同じことが言えると思います。長いこと何かを我慢したり、鬱憤を押し殺していたりが続くと、大きなストレスが溜まり、いずれは地震のように表面化します。

それは自分ではコントロールできないくらいの大きな感情の爆発として体験するようになる可能性があります。

日本列島にしても、普段から小さな地震が頻発して、ストレスを適度に溜めないようにしていればいいのですが、そう思い通りには行かないものですね。

私たち人間も同じことです。適度に言いたいことを言い、適度に我慢しすぎないように気をつけてあげて、普段からいやな感情を溜めないように気をつけることです。

それができたら、大きな心のダメージを受けることもなくなるはずです。もしも、一人でそれができないようでしたら、セラピーなどを受けるなどして、日ごろから対処しておくことが大切だと思います。

できるだけ、地震の被害が少なくなりますように!!