言い辛いことを伝える

会社員だった頃のことですが、会社として人件費を節約するために日本人の正社員を雇うよりも、海外から賃金の安いエンジニアを連れてきて、仕事を手伝ってもらうというシステムがありました。

私の記憶では、インドの人たちが多数来てましたね。もしかしたら、他の国からも来ていたかもしれませんが、私はインドの人たち数名と一緒に仕事をしたことがありました。

ご存知かもしれませんが、インドという国では貧富の差、教育レベルの差というものが今だに極端にある国なのです。

日本人と比べたら、賃金は安いのですが、日本に来て働くことができるインドの人というのは、もうインドの中では飛びぬけたエリートなのです。

だから、日本人の我々よりも優秀な場合も多々あるのです。そのうえ、とても真面目な人たちばかりなので、信頼して仕事を頼んだのです。

ところが、仕事の進捗会議などで、状況を聞くといつも大丈夫と答えるのです。少し予定よりも遅れているけれど、大丈夫、何とか予定通りに仕上げられると言うのです。

彼らは正直な人たちなので、それを信用して仕事を依頼している私はきっとやり遂げてくれるものとたかをくくっていたのです。

ところが、計画が終盤近くになってきたころ、まったく予定からはずれてしまっていて、もう間に合わないということが私からも見えるようになったのです。

つまり、彼らは仕事を失いたくないという思いからなのか、あるいは自分の能力を低く見られたくないからなのか、とにかく「できない」ということが言えなかったのです。いつも大丈夫と言っていたのです。

それを見抜けなかった自分がいけなかったのですが、結局そのしわ寄せはカスタマーと私の部下に行くことになってしまいました。

勿論、全責任は私にあったのですが、一口で言えば痛い経験をしたということですね。インドの人たちの名誉のために言っておきますが、みんながみんなそうだと言うことはないはずです。

できないときには、できないとはっきり言うという、こんな当たり前のことでも、自分を守りたいという気持ちが強くなってしまうと、言えなくなってしまうこともあるんですね。

みなさんは、「できない」としっかり伝えることができていますか?何にしても、否定的なことを伝えるというのは、避けたいものです。

でもそれは、自分だけでなく周りにも迷惑をかけてしまうことになりがちですから、勇気を持って本当のことを伝える必要があるということですね。

自分に気づいていること

私たちは朝目覚めてから夜寝るまでの間、その瞬間瞬間に自分が何をして、どう考えているのかということに本当には気づいていない可能性があります。

その証拠に、ふと気がつくと、ああもうこんな時間になっている、という具合に時間の経過に気づかなくなってしまうという経験をよくします。

テレビを見ているうちに、番組の内容にはまりこんでしまい、テレビを見ているという事実を忘れてしまうということもあるかもしれません。

あるいは、今自分は何を考えていたんだろうかと分からなくなってしまうこともあります。こうしたことは、みなその時々の自分に十分に気づいていないということを物語っています。

それは言ってみれば、意識が自分から離れてしまっている状態であるということです。ふと、昨日のことを考えていたり、明日の用事について心配していたり。

ピアノを弾いているとしても、今自分がピアノを弾いているということよりも、上手にピアノを弾きたいという側に意識が向いてしまっていることなど。

街を歩いているときには、外の景色に心を奪われてしまうことも多いですね。つまり、今自分はこのようにして歩いているということから意識が離れているということです。

こうやって、今日一日の自分の行動を検証してみると、かなりの確率で自分そのものに気づいていない時間を過ごしてしまっていることに驚きます。

こうした時間というのは、本当の自分から意識が離れてしまっているとも言えます。自分の中心に心を置いた状態のまま生きていないということです。

これでは効率が悪いのです。何をしていても、もっとも力を発揮するためには自分の中心に意識があり続ける必要があるのです。なぜなら、すべての力はそこからやってくるからです。

意識を常に自分に向けていることができると、集中力もついてくるし、過去や未来へと意識を流されなくもなります。

そうなると、いつも今この瞬間に自分の意識を置いておくことになって、何をするにも充実感や満足感を感じることができるようになるはずです。試してみて下さい。

エゴの改造

このブログを始めてから丸二年たったなあと思って、二年前の今日の日付の内容を確認したら、「理不尽なこと」という題名でした。

今読み返してみると、ある種のボランティア活動を自主的に始めてしばらく経ったころで、その内容というのが結構な理不尽さを経験することになったので、そのことについて書いていました。

そのボランティア活動というのは、こちらの誠意でやらせてもらっていることなのですが、相手の方からはボロクソに言われてしまうような状況でした。

それが自分としてはとても理不尽な気がしていたのですが、それでも自分を少しでも愛に目覚めさせたいという熱意があって続けていたんですね。

それがつい数日前から、急にその意欲がなくなってしまって、事実上終わってしまった感じになっています。なぜこうなったのかと今考えてみていたのですが…。

自分が考えるに、最近気づいたこととして、この肉体人格(エゴ)の自分を改造して愛に近づけていくという真面目な努力を続けて言っても、所詮エゴはエゴのままだと気づいたからです。

そんなことを断定的に言ってしまったらそれこそ身も蓋もないと言われてしまいそうですが、でもそういうことなんだと分かってしまったのです。

勿論、少しずつ怒りを手放して、感情の起伏を穏やかにしていくことは意味のあることですし、理不尽さに対する抵抗力を着けていくことは人生を生きやすいものに変えてくれるはずです。

しかし、とても逆説的なことなのですが、肉体人格(エゴ)の私を変える一番いい方法とは、私には決してそれをすることができないと認めることだと気づいてしまったのです。

この気づきはとても自分を楽にしてくれたようです。確かに、エゴは自分がいい方向に変化しているという感触をプレゼントしてくれるのですが、それは本質的なものではないのです。

自分が身体だと思っている意識を本質的に変えるということはきっと不可能なことなのでしょう。それよりも、本当の自分に気づいていくことによって大きな変化を体験することになるのだと思います。

野良猫と野良犬

私が小学生くらいの頃というのは、周りにごく普通に野良猫や野良犬が結構いたと思います。友達と遊ぶ空き地などには、必ずといっていいくらいにいましたね。

私の記憶では、彼らが人間である自分たちを恐れている様子はまったくなく、いつも特別に意識することもなく同じ空間を共有していた感じがするのです。

今でも鮮明に覚えている一匹の野良猫がいるのですが、彼は片目がつぶれていて閉じたままになっていました。

それを子供心に不憫に思っていたのですが、ある日ふともしかしたら目を開かせたら開くのではないかという分別のない身勝手な思いから、彼の目を強引に指で開いてしまったのです。

そうしたら、その目の中から大量のうみが出てきてびっくりして、そのままにして帰ってきてしまったことがありました。

でも、その野良猫は怒るでもなく、きっと痛かっただろうに、子供の自分を丸ごと許してくれました。今でも本当にごめんなさいと心の中で思っています。

なんで、あんなに穏やかな心を持った猫がいたんだろうと不思議に思います。今であれば、到底考えられないことですよね。もう一つの記憶に残っている話は、野良犬のことです。

やっぱり顔見知りになっている野良犬がいたのですが、彼は前足の片方を怪我していて普通には歩けなかったのです。足首のあたりが異常に曲がってしまっていて、きっと交通事故か何かで大怪我したのでしょうね。

ある時、一緒に遊んでいたときに彼のその怪我している足を思い切り踏んづけてしまったことがあったのです。びっくりして、自分の足をどけたのですが、さすがに彼は痛そうでした。

でも、決して怒らないし、やっぱり子供の自分を彼はそのまま許してくれたんです。こうした経験というのは、もしかしたらとても貴重だったのかもしれないと思います。

時代なのか、何なのか分からないのですが、飼い主のいない一見可愛そうな猫や犬なのに、不釣合いなほど心が穏やかで、やさしかったのです。

彼らのことを思い出すたびに、自分の怒りや傲慢な心を見て、あ~あと思ったりもしますが、彼らが許してくれたことをなるべく見習うことにしたいなと思ったりするのです。

エゴの品揃え

このブログでは以前からずっとエゴについて書いてきましたし、個人セッションや講座においてもエゴのことをずっと取り上げて話してきました。

きっとそれはこれからも続くものと思います。なぜなら、それはエゴについてなるべく正確に理解しておくことが、人生をよりよいものにしていくためには必要なことだと思うからです。

そのためにも、もう一度ここで誤解をしないように、エゴについて説明をしてみたいと思います。というのも、エゴを悪者だと思ってしまっている人が時々いらっしゃるからです。

エゴとはそう簡単にこういうものだと決め付けられるようなものではありません。敢えて言えば、エゴとは自分は外の世界とは別の存在だという認識をしている心の部分ということになります。

そして、エゴ自体も相当に様々な心の断片として分裂しているのです。つまり、エゴはピンからキリまでそれこそ豊富な品揃えを持っています。

その上、それぞれの断片は互いに違う主張、違う思い、違う感情などを持っているために、心は常に葛藤を強いられることになるのです。

右に行きたいと主張する部分があれば、必ず左がいいと訴える部分があるという具合に、いつも一つの心の中で小競り合いみたいなものが起きていると思えばいいのです。

よく、私は「それがエゴの悪巧みだ」とか、「エゴは自分を不幸にしようとしている」などのような表現を使うことがあるのですが、その場合のエゴとはピンからキリのうちの、キリの部類の方のエゴを指すと思って欲しいのです。

逆に、「自分を癒して幸せになりたい」とか、「愛ある人になりたい」などはピンのほうのエゴだと言えるかもしれません。「エゴは悪者だ」と感じるのもエゴの心です。

一つ、はっきりさせなければならないのは、自分が身体だと信じている心はすべてエゴに属していると思ってください。全部、エゴなのです。

ですから、安心して自分はエゴだと言っていいということです。エゴ以外の心の部分というのは、私がいつも真の自己というように表現しているものです。

幾分、エゴについての認識がはっきりしたでしょうか?エゴとはこれが私だと自覚している心そのものだということです。愛に近い部分から悪魔のような部分まで幅が広いと思ってくださいね。

暖かな気持ち

今日、夕食を一人で食べていたんですけど、そのときに何とも言えない暖かな気持ちがやってきたんです。何の予告もなしに。

理由もなしに、周りの人が好きだなあという、変な気持ちですが、悪い気はしないですよね。心のどこかでは、何やってるのぉ?という馬鹿にしたような声が聞こえる感じです。

でも、そんな声を気にせずにたくさん感じてみたのです。そうすると、誰一人として嫌いな人がいないばかりか、とても愛しい感じがするのです。

そのうち、会った事の無い、ネット上でのちょっとしたやりとりをする人たちのことも、とても大好きな感覚がやってきて、しばらく食事を中断するはめになったりしました。

こうしたことはほとんど経験がないのですが、すごく嬉しいものです。ちょっとした効果が出てきているのかなと思ったりして。

何の効果かというと、このブログでもお話ししている、「本当の自分」を常に感じて見つめるということをずっと続けていることです。

それによって、いつも自分が広がっている感覚が継続しているようになってきたんです。どちらかというと、縦よりも横にぐぃ~と広がっていて、果てしない感じです。

それは、イメージすればどこまでも広がって行って、この宇宙をくまなく包んでしまうこともできるし、肉眼の目で見るような平面的なものでもありません。

そのことと、暖かな気持ちとが直接結びついているということでもないかもしれませんが、なんらかの関連があることは確かだという気がしています。

奇想天外かもしれませんが、この私という存在を単なる一人の人間とみなすも、無限の広がりを持った大いなる自己と見るかも、まったく私の自由です。

何だっていいんです、自分がいい気持ちで過ごせる時間を持つことが多くなれば。そう思いませんか?誰に何と言われようが、奇人変人であろうが、構いません。

でも、より沢山の人たちとこうした感覚を分かち合いたいなというのが正直な気持ちではあります。ご一緒に体感していけたらいいなと思っています。

アイソレーション・タンク

今日、実はアイソレーション・タンクというものに入ってきました。ミクシーの日記には先日書いたのですが、今日は二回目の体験でした。

アイソレーションとは英語で「隔離」というような意味で、そのタンクの中に入ると光や音を完全に遮断することができるのです。

濃度の濃い水溶液が入っていて、身体が無理なくプカプカ浮くようにできています。その上、そのタンクの中の気温と水溶液の温度が体温とほぼ同じに設定されているのです。

つまり、そのタンクの中に入ると、視覚、聴覚、触覚の三種類の知覚がほぼ遮断されたような感じになって、深い自己に集中できるという具合なのです。

詳しいことは分かりませんが、かなり以前から瞑想やリラクゼーションの目的でアメリカで開発され、実用化されていたものらしいです。

私がそれを体験しようと思った目的とは、自分の知覚を遮断することで、なるべく深い自己と繋がる体験ができたらいいなということでした。

知覚というものが邪魔をして、本当の自分を見つけづらくさせられているのかもしれないと普段から感じていたのです。それで、機会があったら体験したいなと思っていました。

実際のところ、残念ながら一回目も二回目も特別な感覚になることはできませんでした。上質な心地よいベッドにゆったりと横たえているという感じなだけでした。

ただ、肉体的にはかなり反応しているようで、今回も前回のときも身体のだるさと爽快感がしばらく続くのです。かなり毒出しには効果があるようです。

でも、本来の目的のことを考えると、今後どうしようかと思案中です。もしも、みなさんもご興味があれば一度くらい体験しても損にはならないのではないかと思います。

科学的態度

科学者の態度とは、基本的には何も信じないというものです。つまり、信じるのではなくて、観察や観測という実験を重ねて、決して疑いようのない結果が出るまで繰り返します。

一万回のうち、一回でも疑いが残る場合には、証明したことにはならないわけです。従って、出た答えは信じる対象ではなくて、事実だということになるのです。

私自身はこうした態度、科学的な態度が大好きです。曖昧な部分を全部疑って、それをはずしていった先に残るもの、それが確実なものであり、真実であるとの立場をとるのです。

だから、ただ信じなさい、信じるものこそ救われるといくら言われても、また言われれば言われるほど釈然としない気持ちになってしまうのです。

幼い頃に頭ごなしに、これが正しいに決まってるというような態度の大人に出会うと、それを完全に否定するか馬鹿にするかしていました。勿論心の中での話しですが。

そうした傾向というのは、今でも残っています。但し、最近は信じないで疑うというよりも、それらを脇に置いておいて、ただ受け入れるということもできるようになってきましたが…。

ところで、科学と科学的態度とは違います。科学とは、科学的態度で検証されてきたことの結果積み上げられたもののことを言うのです。

私はどちらも好きですが、科学の限界というものをはっきり感じています。それは最近科学的態度で真摯に実験をしていたときに、そのことに気づいたのです。

科学がどんなに頑張っても入って来れないところ、それは私の本当の自分です。私を一般に知られている一人の人間とすれば、科学はかなりのところまで迫ってきています。

最も複雑である脳の中身や働きについても、だいぶ分かってきましたし、心の作用についてもさまざまな検証によって解き明かされて来ています。

ところが、決して入ってくることができないのは、私に一番近い部分、この私だけが内側から見ている私自身についてのこと。これだけはどうしても科学には無理なのです。

なぜなら、科学というのは客観的観測がそのベースとなっているからです。私の内側を内側から見るということは完全なる主観であり、そこには科学のメスが入る隙間もないのです。

そうしたことを理解したうえで、私はできるだけ科学的態度をもって内側を観察したいのです。つまり、誰かから教わったり信じるように言われたことを全部疑ってかかるということ。

その結果、残るものが本当の自己についての真実になると思えるからです。そして、結果はきっと誰もが本当は分かっていることであり、それと同時に驚くべき自己がそこにあると思うのです。

この世界はおもちゃ箱

自分が生まれてからずっと、毎日自分の目に飛び込んでくるこの世界って何と不思議で何とへんてこりんなものの集まりなんだろうかと思います。

たくさんのものが詰まったおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎに毎日見舞われていますね。あるものは、尖っていて危ない感じがするけど、本当は悪意なんてない。

逆に見るからに柔らかそうで、思わず頬擦りしたくなってしまうものもあります。さまざまな種類のおもちゃでごったがえてしているけれど、それらはすべて嬉しいプレゼントです。

その中から、私たちは自分が興味を持ったおもちゃだけを選り好みして、他のものはあまりありがたく感じないかもしれません。

でもこのおもちゃたちは、何から何まで全部丸ごとあなたのためにプレゼントされたものです。そのことが分かると、感謝の気持ちが湧き上がってくるかもしれません。

実は、そのおもちゃの中に自分が生まれて死ぬということも含まれていると言ったらびっくりしませんか?なぜかというと、じゃあそのおもちゃをプレゼントされている自分とは一体誰?ということになるからですね。

実はそのプレゼントを驚きとともに楽しんでいるのが本当の自己です。したがって、そのプレゼントの中には人間としての自分も含まれていたということです。

そうなると、プレゼントされたおもちゃに対する選り好みというものが、なくなっていくような気がしませんか?この世界という複雑で緻密であきれるほど不可思議なものをそのまま受け止めることができるかもしれません。

いや、きっと気づいていないだけで本当の自己はずっと今までもこれからもそうしているはずです。大きな大きなこのプレゼントの本当の目的は、それを受け入れる本当の自己に気づくことなのかもしれません。

問題とは不満そのもの

私たちは何か問題が起こると、それを何とかして解決しようとします。なぜなら、その問題が解決しない限り、不満が残ると思っているからです。

ところが、真実はそうではないのです。本当は、問題とはその不満そのものなのです。何だか禅問答でもやっているような気になるかもしれませんね。

しかし、これが真実なのです。問題とは、それが問題だという思いがそれを問題たらしめているということに気づけばいいのです。

問題を問題だと思わなければ、そこには何の問題もないということは誰でも簡単に分かることですね。そして、問題だと認識する理由はそこに不満があるからだと言っているのです。

だからこそ、問題とは不満そのものにあるのだということです。ということは、その不満な気持ちがなぜ起こってくるのかということを見てあげることです。

不満とは、あらかじめ何らかの期待や想定をしておいたものに対して、それが裏切られた場合に起こるものだと定義することができます。

例えば、お金を貸したら、それは当然全額返してもらえるものだとの想定があるわけですが、それに反して返してもらう額が足りなければ不満になるということです。

子供が学校を不登校になったとしたら、親はそれをとても心配しますし、そうした親心は当然のことだと考えられています。

それは、ごく普通の子供たちと同じように我が子にも学校に行ってつつがない毎日を送って欲しいとの期待があるからです。

期待通りであれば親の心は満たされて不満は解消します。しかし、不登校になったからといってそのこと自体が大問題なのではなくて、学校に行って欲しいという思い、不満が問題を起こしていると気づけばいいということです。

実はそのことに親自身が気づいてしまうと、子供の不登校も直ってしまいます。なぜなら、不登校は親の不満な心の投影であったからです。

問題があるから不平不満の気持ちになるのではなく、不平不満を抱く心そのものが問題というものを作り上げるのだと分かることが大切だということです。