恥をさらす

人間は自分ひとりの時よりも、守るものがいるとより強くなりますね。だから、女性は結婚してお母さんになると、「母は強し!」などといわれるわけです。

でも、最強なのは何も守るものがない状態であるというのも事実です。捨て身で何かに向かっていく人の力というのは半端ではないというのはそういうことです。

戦いなどでは、「肉を切らせて骨を断つ」という言葉がありますね。これは捨て身で敵に勝つ戦法のことを言っています。

捨て身というのは、自分の命の危険を度外視した言動というイメージがしますが、命ということにこだわる必要はないと思います。

たとえば、自分に対する人からの評価が下がってしまってもいいという事だって、捨て身と言ってもいいはずです。

また別の言葉を使えば、恥さらしになるということも当てはまるかもしれません。どんなに奇人変人扱いされようと、ガリレオのように、それでも地球は回っていると主張するようなものです。

もっとも、ガリレオは天動説を否定してしまったために、宗教裁判にかけられて有罪になってその後の人生を棒に振ってしまいましたが…。

話を元に戻して、捨て身になる、あるいは恥をさらすということは、自分をどうにかしようとしないということだとも言えます。

何とかして○○のようにしたい、絶対に評価を下げたくない、恥をかくくらいだったら死んだほうがまし、というのはすべて、何とかしたいという強い思いにつながっています。

少しぐらい恥をさらしてもいいや、というような気持ちで、自分のことをうけとめてあげられると、その分だけ心が平安になることができるのです。

さあ、勇気を出してみんなで恥さらしになりましょう!

ミスター・スマイル

世の中には、いつも笑顔の人がいます。そんな時に笑っていなくてもいいのにと思っても、その人は笑い顔を絶やさずにいます。

それは勿論女性にも男性にもいらっしゃいます。そんなクライアントさんがいらしたときには、セラピストとして「少し笑顔をやめましょう」と提案します。

すぐに言うことを聞いて、笑顔をやめてくれるのですが、少しお話をしている間にまたすぐに元のやさしそうな笑顔に戻ってしまいます。

クセになってしまっている笑顔をやめるのはなかなか難しいようですね。そういう人は、いつも心が疲れています。何もしなくても、クタクタなんです。

だから、少しずつでもいいから、笑顔をやめる練習をしてください。心がガラスのように繊細で、きっと傷つきやすいのではないかと思います。

そんな心やさしいひとたちに、1970年代の素敵な歌をプレゼントします。大橋純子さんの素敵な歌声を聞いて、そのころ20代だった自分は心がなぐさめられたことを覚えています。

ミスター・スマイル あなたは 何故

微笑み忘れないの

街で振り向く背中は淋しそうなのに

ミスター・スマイル あなたの事

からかう人もいるわ

何をされても静かに笑うだけだから

心やさしい人ばかり

損をする世の中だもの

さあ 傷ついた魂を

いまそばに来て横たえて

そう なぐさめる やさしさは

ひとつだけ知っています

ミスター・スマイル ごめんなさい

あなたからの手紙に

字が下手ねって

思わず口を滑らして

きっと知らぬ間にあなたの

胸を靴で歩いてたの

さあ折れそうなロウソクに

いま愛の灯を点しましょう

そう木枯らしに吹かれても

手のひらで守るのです

…いまそばに来て微笑んで

そのお返しにくちづけを…

サバイバルか幸せか

ある人に最も大切なものは何?と聞いたら、生きていることだとの答えが返ってきました。私は内心びっくりして、ではその次に大切なことはと聞いたら、「幸せ」と返ってきました。

どうして幸せが一番大切なことにはならないのかと聞いたら、生きていなければ幸せになることもできないからと言われました。

なるほど、確かに死んでしまったら幸せかどうかを言うことすら意味がなくなってしまうわけですから、その人の言葉には一見意味があるように感じられます。

しかし、ここには大きなエゴのトリックが隠されていると言わざるを得ません。つまり、まず生き延びよう、天寿をまっとうするように努力しよう、生きてさえいたら、次には幸せになる可能性が待っているよというものですね。

でも実際には、生き延びることにエネルギーを費やしていたら、いつまでたっても幸せにはなれないのです。

なぜなら、生き延びようとすることと、幸せになろうとすることは実は正反対の信念体系にあるからなんです。一方は防衛であって、もう一方は無防備さであるからです。

天寿をまっとうすることは、天に任せておけばいいことです。エゴは自分の命を自分でコントロールできるとささやきかけてきます。

ですが、天寿というのは、天が授けてくれた寿命のことですからエゴが取り仕切るような範疇にはないということを理解する必要があります。

私たちの苦悩はここの誤解に根ざしているとも言えるのです。つまり、いつ死ぬのかということは自分では決められないという明確な理解が必要なのです。

そのことが分かれば、幸せになるということが唯一大切なことだと分かるようになります。そうすれば、幸せになることを真っ向から邪魔してしまうサバイバルに費やしていたエネルギーを、幸せになる方向へと転換することもできるようになるのです。

誤解してもらいたくないのですが、サバイバルにエネルギーを使わないということが、自分の命を粗末に扱ってもいいということではありません。

ただ、幸せの方向だけに意識を向けて生活することは、生き延びるということへの関心が薄くなっていくことは間違いないことだと思います。

浜岡の原発

金曜日に浜岡の原発に行ってきました。勿論、体当たりで運転を停止させようとの意思があったわけではなくて(笑)、ただどんな施設なのかを見ておきたかったからです。

というのも、家内の実家が原発からすぐ近くにあるので、以前からすごく気になっていたということもありました。

平日ということもあってか、観覧施設はガランとしていたのですが、それでも幼い子供を連れてきて遊ばせている家族があったりと、微妙な感覚になりました。

起こることは間違いないとされている東海大地震のエリアのど真ん中に建っている、世界でもダントツ一位で危険視されている原発の施設で子供を遊ばせているってどうなんだろうと。

でも、その施設だけをただ眺めていると、いかにも原発というのは近代テクノロジー満載のすばらしいものだという感じがしてきます。

そして、安全でクリーンなものだというイメージを沢山植えつけられるような感覚もありました。その辺はとても上手だとしか言いようがありません。

そのくせ、現実はといえば、何度か格納容器などにひび割れがみつかったりしたこともあって、放射能漏れを起こしてきた実績があります。

それは、地震が原因ではなく施設の老築化が進んできたことが理由と聞いていますが、これも本当のところは分かりません。

さすがにいろいろ予定されているイベント事が中止になりましたという貼り紙がされていましたが、それにしてものどかな感じで原発の事故などここでは絶対に起きませんという雰囲気で溢れていました。

綱渡り的な原発を後に自分は東京に戻ってきましたが、付近の住民はずっとあそこで暮らしているのですからとんでもない話しです。

日本には偏西風というのが絶えずあり、西から東へと風が吹いているので、静岡県で発生した放射能物質はあっという間に東京にやってくるでしょう。

近隣の住民だけではなくて、日本が壊滅の危機に瀕していると言っても過言ではないはずなのに、のんびりしているのは日本人のまぬけさなのか、それともすばらしいところなのか、どちらなんでしょうか。

原発について その4

もしも地球よりもはるかに科学や文明が進化した星から宇宙人がやってきて、今の地球の状態を見たらどう思うのだろうかと考えてみました。

もしかしたら、彼らは未来からやってきたかもしれません。そうだとすると、地球の行く末についても知っているわけですね。

危険極まりない原発を作り続けて止めようとしない人類を見たら、何と言うのでしょうか?もしも、それが原因でやり直すことができないくらいのダメージを負ってしまうとしたら。

もしも、自分がその宇宙人だとしたら、人類がどんなにとんでもないことをしでかしていると分かっているとしても、おいそれと手を出すことはできないのではないかと思うのです。

なぜなら、それが宇宙の摂理だと思うからです。つまり、些細などうでもいいことであれば、いくらでも力を貸すことができるはずですが、大きな問題はそうはいかないと思います。

つまり、どんな悲しいことであっても、それが必要だから起きているのだと分かれば、手出しはしないはずです。

私は今、人類が自らの力で難関を乗り越える必要があるのではないかと思っています。外部から簡単に軌道修正させられたとしても、それでは意味がなくなってしまうはずです。

人類の心の闇の部分がさらけ出されて、そこに光が当たり、もうこれ以上隠され続けることができなくなっていくことが是非とも必要だと感じます。

私が知っている限り、これほどの原発事故が発生しているにもかかわらず、イケイケどんどんの推進派の人たちの気持ちは未だにこれっぽっちも変化していないようです。

だとすると、自分たちで軌道修正するにはもう少し大きな事件が起きなければならないのかなとも思うのですが、ことの推移を真剣に見守りたいなと思います。

みんなで一緒に

私たちの一般的な満足感というのは、いい悪いは別にして実は人との比較の上に成り立っているのです。

これは勿論本質的なことではありませんが、みんなと同じレベルであればそこそこの満足感を得られるというのは事実です。

例えば、今原発の事故によって節電を呼びかけられていますが、原発を廃炉にしてしまったら電力不足による不便さに誰もが耐えられなくなるはずだという憶測がありますね。

確かに今まで自由に使っていた電気を思うようには使えなくなったとしたら、最初は不便を感じるかもしれません。ですが、大切なことはその時に自分だけではなくみんなが一緒であれば大丈夫ということです。

江戸時代にまで遡って、薄暗い長屋でひっそりと生活していた時に、そのことに対して不満があったかというとそんなことはないはずです。

それは誰もがそういう生活をしていたからです。でももし、自分だけがそんな生活になったとしたら、それは不満が生じるのは当然のことです。

つまり、人との比較の上で多くの人の平均値と同じレベルであれば、人は不満を感じないものなのです。

私が子供のころには、ごみの分別などというものは全くありませんでした。いつの頃からかリサイクルということが流行りだして、そのまま気軽にゴミを捨てることができなくなりました。

その時には何て不便な時代になったものなんだろうと本気で嫌な気分になっていたのですが、しばらくするとそれが慣れてきて普通のことになってしまいました。

その時も、自分だけでなく誰もが分別しているのだからという比較の元に、不満を感じなくなっていったのだろうと思うのです。

そう考えると、意外に満足感というのは絶対的なものではないのだということが分かりますね。みんなで一緒にという前提であれば、人は大抵のことを乗り越えていくことができるということです。

地球の一部

いつの頃だったか、ハムスターを飼うのが流行ったことがありました。ハムスターは小さくて、たいした世話をする必要もなくて、手ごろで可愛いくて、子供でも簡単に飼えるので人気になったのでしょうね。

見た目は可愛いのですが、実は野生においては仲間が沢山増えすぎてしまうと、共食いを始めてしまうということを聞いたことがあります。

見かけによらず、なかなか凶暴なところがあるようですが、本当のところは共食いすることによって、全体の数を減らして絶滅することを防いでいるらしいのです。

元々、ねずみの仲間はみんな「ねずみ講」という言葉があるくらい、急激に増えてしまう特徴があるのです。もちろん、それは比較的弱い種が生き延びる作戦とも言えます。

もしも何の障害もなく、生まれた子供がすべて生き延びてしまうと膨大な数に膨れ上がってしまいます。その時に、自然の摂理として集団自殺をするのです。

どのねずみが自殺して、どのねずみが生き延びるのかという規則があるかどうかは知りませんが、そうやって全体の数を減らすメカニズムを持っているのです。

それは本当に不思議なことですね。以前、コラムにも書いたのですが、アポトーシスと言って、動物には不要な細胞が自然自殺するメカニズムがあります。

例えば、人間の指は、退治のときにはまだできてなくて、成長と共に指と指の間の細胞が自殺することによって、指の形ができてくるというのがあります。

一つひとつの細胞が、自分の役割を知っていて、指そのものになる細胞があれば、指を形作るために自殺する細胞もあるということです。

69億いる地球上の人々のうち、地球が成長あるいは発達していくために必要だったり、不要だったりする人々というのがあるのかもしれません。

人としての我々の気持ちからしたら、たった一人の命でさえこの巨大な地球よりも重いという言い方もできるかもしれませんが、地球から見たらどうなのかは謎ですね。

この自分が地球にとってどんな存在であろうとも、そのことに執着する必要もなければ、喜んだり悲しんだりすることも意味がないと思います。

自分は明らかにこの地球の一部です。そのことをよくよく見つめなおしてみることも大切なことではないかと思うのです。

光と闇

人の心が十二分に癒されて、この世界から争いごとが消えうせて、嫌なことが一つも起きない、いわゆるユートピアになったらいいなと思うかもしれませんが、きっとそうはならないはずです。

この世界というのは、光と闇の対比によってできているのです。いいことがあれば、悪いことがあり、嬉しいことがあれば、悲しいつらいことがあるのです。

子供のころ、夏の暑い日の夜に家族みんなで豊島園のプールに行ったことがありました。その日は、塾も休ませてもらえたりして、すごく楽しかったのです。

こんな日が毎日続いたら本当にいいのにと子供心に真剣に思ったのを覚えています。でも結局記憶のある限りは、それはたった一回しか実現しませんでした。

年頃になって異性に興味が出てきたときには、どうして世の中には可愛い子とそうでない子がいるのだろうかと思ったものです。

すべての異性が綺麗で可愛くてもいいはずなのに、なぜそうはなっていないのかと考えたことがありましたが、これは笑い話にしかならないですね。

いずれにしても、この世界というのはそうやって左のない右というものはないし、下のない上というものを作る事は不可能だということなのです。

私たちの心にとっては、暖かい愛の心、愛の行為を誰もが望んでいるのですが、この世界は愛だけではなくて憎悪や恐怖、そして罪悪感もたっぷりとあるのです。

それはきっと、私たちが望んでいることと本当に必要であることとは違うということかもしれません。そして、そのことは私たちのレベルでは理解できないのです。

大切なことは、嬉しいことや愛に溢れることばかりが起こるわけではないと認めることです。常に光があれば闇があるということです。

そして、どちらもできるだけ拒絶するのではなくて、受け止めることです。私たちは所詮、生かされているのであって、起きることに明け渡すことができれば、きっと深い心の平安を得ることもできるはずなのです。

潔(いさぎよ)い人

自分は潔い人が好きかもしれません。それは例えば、クルマが大好きで、毎日磨き上げているような若い男性が誰か大切な人のためにそれをさらりと売り飛ばすことができたりといったことです。

潔いとは、物事に執着していないということ、今までずっと大切にしてきたもの、考え方などをいとも簡単に捨て去ることができるということ。

別の表現をすれば、大いなるパラダイムチェンジができるということを意味しています。昨日までは、こう思っていたのだけれど、条件が変わったのでまったく違うように考え直すことができるということです。

それは個人だけではなくて、会社などの団体の場合にも言えることです。会社の伝統を守ることは決して悪いことではないのですが、状況次第では伝統を破ることも大切な場合があります。

そのようなことをきっぱりと決断できるということは、とても気持ちのいいものですし、防衛的な姿勢ではない清清しさを感じることができますね。

その反対に考え方や信念、信条、そして自己像に対してのある種のしがみつきのようなものが強いと、硬直した生き方しかできなくなってしまいます。

私たちはいつも自分の心に縛られています。その心の正体というのは、長い間の体験から得たその時々の感情や思考の蓄積から作られたものなのです。

その心こそが自分だという思いを持っていますが、それは実は単なる作り物に過ぎません。それこそが世界からは切り離された自分だとすることは、苦悩を生み出すことになるのです。

賢人や見者は、「心を気にするな」という言葉を残しているくらいです。自分の心の問題は、自分がそれを持っていると考えることです。

それが作られたものだと分かれば、それを大事に保存しようとすることに何の意味もないと分かります。それが潔い行動や考え方につながるのです。

自分というものを一つの固定した何かだと考えることから開放されると、とても気持ちのいい軽やかな感覚になることができます。

昨日までの自分など忘れて、いつもこの瞬間に起きることを見て、そのときにやってくることに明け渡すことです。それが潔い生き方なのではないかと思うのです。

感傷的な気分

4月10日(日)は都知事の選挙の日でした。正直決して褒められないことですが、投票に行ったのはすごく久しぶりのような気がします。

投票所である、昔私の子供たちが通っていた近くの中学校の校庭には、満開の桜がすばらしい姿を見せてくれていました。

陽気も暖かくなったせいかもしれませんが、なんだか、3.11の地震発生以来初めてゆったりとした気持ちで外の景色を楽しむことができたように思います。

井の頭公園の桜も少し前に見に行ったのですが、そのときには花見のためにシートを敷いていた若者たちが、警備の人たちにやめるように注意されていたようです。

自粛というのは、自ら控えることを言うのだと思っていたら、他人から控えるように命令されてしまうということもあるのですね。

ちょっと見ていて可愛そうな気がしました。そんなこともあってか、ほぼ満開になっていた桜さえも思い切りよくその姿を披露することさえ自粛しているように感じました。

年に一回、桜を見ることができるのは今まで当たり前のことだと思って生きてきましたが、今はそうでもないかもしれないとどこかで感じています。

というより、穏やかな気持ちで美しい桜を見ることができるということも、当然ではないというような気持ちになったということかもしれません。

すぐに散ってしまう桜に、いつも名残惜しいなと思いながら、いいやまた来年になったら見ることができるんだからと思っていたのが、今は来年はどうだろうと思っています。

もう少し日本ていいところだと信じていたものが崩れていっているような、そんな気持ちがしているのかもしれません。

起きることがただ起きているだけだと分かってはいるものの、いつになく感傷的になっているのは何なのでしょうか?

個人的なこと以外で、こんなふうになったことは今までなかったので、少々不思議ですし心の中を興味を持って見ているところです。

人類史上に明確に残るような何かとても大きな出来事が起きてもいいように、日ごろから自分の心を見つめておくといいと思います。