不思議な人生

日が変わって昨日の9日(金)は終日予約が入ってなかったので、独りでじっくりと本を読んだり、自分を見つめる作業をしたりしていて、気づいたことがありました。

それは、自分はとうとうこの世界のほとんどのことに、もう興味を持つことができなくなってきたということです。

そうした傾向というのは、実に子供の頃からはっきりとした自覚があって、自分でもおかしいのかなと心配することもあったほどです。

大人になっても何にも興味を示すものがなくて、これではいけないと思い、空はパラグライダー、海はスキューバダイビング、陸はモータースポーツと試したのです。

それらは、本当に心躍る体験として、今も印象深く残ってはいるのですが、その時に思ったのは、正直言って自分はずっとやることにはならないだろうな、というものでした。

結局、しばらく楽しんだあとは、何事もなかったようにやめてしまいました。今も若干残っているのは、レースゲームくらいです。

旅に行こうという意欲もないし、どこかにおいしいものを食べに行くという気持ちもないし、誰もが楽しいと感じることにそれほど興味を持てないというのが日に日にひどくなる一方です。

気の置けない友人たちと楽しいお酒を飲むくらいはいいけれど、それとて実はもうそれほど望んでいない自分を発見してしまいました。

一体自分に何が起きているのか分からないのですが、でも無理に楽しいことを探そうという気持ちにもならないので、このまま様子を見るしかありません。

そのかわり、本当の自分を見ること、自分をずっと観照しつづけることに時間を使いたいという思いがとても強くなっているようです。

ただ流れに任せるしかないのでしょうけれど、何とも不思議な人生だなとつくづく思ってしまう今日この頃です。

巻き込まれない人生

今日は久しぶりに、セラピストの立場から書いてみようと思います。世の中には、なんだかんだと言って、人を巻き込んでしまうことに長けた人がいます。

巻き込まれた人は、知らず知らずのうちに相手のペースに乗せられてしまったり、あるいはそれまで平静だった心がひどく波打つようになってしまったりすることもあります。

人を巻き込む人というのは、シンプルに言ってしまえば何かを訴えて、それを相手に叶えて欲しいと願っている状態であるということです。

それがとても幼稚な方法でしかも強く、そして粘っこく迫ってくるために、それから自分を守ろうとして反応することになって、結果として巻き込まれてしまうことになるのです。

一度巻き込まれてしまうと、もうそこにはどちらがどうということが言えなくなってしまうくらいに、両方ともに辛い状態に陥ってしまうのです。

この巻き込まれるということについて、一つしっかりと理解しておくべき大切なことがあります。それは、本当に巻き込まれているかどうかを外側から知ることはできないということ。

例えば、誰かの愚痴っぽい長話に付き合ってあげることを考えた場合、迷惑を被っていると感じる場合には確かに巻き込まれていると言えますが、喜んで愚痴を聞いてあげられる場合には、そうとは言えなくなります。

つまり、巻き込まれたかどうかは、本人の心の状態によって決まるということなのです。愛を与えている状態では、決して巻き込まれることはありません。

ということは、人を巻き込む人というのは、相手の愛を奪い取ろうとしている人だとも言えますね。だからこそ、自分を守ろうとすればするほど、巻き込まれてしまうことになるのです。

人を巻き込む人の心がエゴであれば、それに巻き込まれてしまう人の心もエゴの状態であるということになってしまうのです。

あなたは誰かに巻き込まれる人生を生きていませんか?巻き込まれたなと感じると、被害者の立場になってしまいますので、安全な人生とは言い難くなりますね。

そして本当のことを言えば、巻き込まれる人の心の中に巻き込まれることに遭遇させようとするエゴの企みが潜んでいるということです。

あまりにも、巻き込まれることが続いてしまい、翻弄される人生から抜け出せないと感じるのでしたら、一度勇気を持ってセラピストの助けを借りることも考えて見るといいと思います。

人物像との同一視

私たちが持っている苦しみのすべての原因はたった一つです。それは、自分とはこういう人物だと思っている自己像と自分自身を同一視することによって起きてくるのです。

自分という人物像、自分とはこんな人間なのだという自己イメージがありますが、それは自分の体験や様々な過去の記憶をつなぎ合わせて作られたものです。

それには、自分だけでなくて、他人から見た自分のイメージというものもふんだんに加味されて、作られたものだと言えます。

その自己像には、過去の苦しい苦しい体験や、その時に感じた惨めな感情なども含まれているのは当然です。

そうしたものがすべて加算されて、自分という人物像が出来上がるのですから。いい経験もひどい経験もすべてが自分像として付け加えられていくのです。

その結果が今の自分像ということになります。そして、その自己像を自分自身であると思い込んでしまっているのが私たちであると言えるのです。

この人物像と自分自身との同一化、あるいは同一視をしている自分のことをエゴと呼ぶのです。エゴはいいにつけ悪いにつけ、その名前のついている自分を本当の自分と認識する意識なのです。

しかし、本当の本当の自分はそんな作り上げられた人物像とは全く異なるのです。それは、身体を持たない純粋な意識であると言えます。

その意識は、大きさも色も形もなく、人物としての自分が持っているあらゆる属性を持たない意識だということが分かります。

私のこの人生の目的は、その意識が本当の自分なのだと気づくことであると言ってもいいと思っています。それこそが、エゴから離れる唯一の方法だからです。

人物としての自分のさまざまな苦しみや悩みなどを、それ自身が解決することはほとんど不可能なことです。

でも、本当の自分からその人物を愛を持って見るときに、解決する必要がないということに気づくのです。それこそが、究極の解決方法であると思うのです。

本当の自分を見る

気が付くと、最近このブログに書いていることの多くは、日常的なセッションの内容とはちょっとかけ離れたものになってしまっています。

クライアントさんの心の癒しをやっているセラピストとしての自分もちゃんといるのですが、個人的には本当の自分を意識することに毎日の自分の時間を費やしています。

心の癒しと本当の自分を見ることは、全く違うことのようでいて、実は本質的には繋がっているはずなのですが、どうもおもむきが違い過ぎてそれらを一緒に説明することは難しい感じです。

自分を探求するということでは、どちらも一緒なのですが、セッションでは自分という一人の人物としての心を癒すのであって、本当の自分を見ることは自分という人物を自分から切り離すことなのです。

その二つのことは、平行して進めていくことができるだけでなく、本当の自分を見る時間が増えてくるにつれて、自然と人物としての自分の癒しも進んでいくようなのです。

それも無理なく進んでいくのですから、これはどちらも同時にやっていくことが得策だとも言えますね。ただし、本当の自分を見るには、今まで学習してきたことを白紙にして取り組む必要があります。

心の癒しにしても、そういう面は確かにあります。例えば、幼い頃に親などから仕込まれた考え方やルールを手放していくことが、そのまま癒しといってもいいくらいですから。

ですが、本当の自分を見るほうは、親の考え方というよりも、もっと根源的な人間としての常識などを度外視して進めていく必要があるのです。

そのため、本当の自分を見ることは、誰にでもすぐに役立つ方法とは言えないのかもしれません。私たちが全般的に信じ込んでいることは、非常に根深いものだからです。

でも、今年から来年にかけて、非常に多くの人たちが、心の癒しだけではなくて、本当の自分に気づいていく時期に来ているように思うのです。

何も知らない その3

昨日のつづきです。

私たちは本質的には何も知ることはできないし、何も所有することはできないということをしっかり見極める必要があると書きました。

このことをずっと感じていると、深い絶望感の中に入ってしまうようにも思いますが、そうしているうちにも、はっきりとしていることが一つだけあると気づきます。

自分のことも含めてあらゆる対象を知ることが出来ないけれど、ただ自分が在るということだけが残り、それは不変のものだと分かります。

自分は何も所有することができないけれど、やっぱりただ自分が在るという感覚だけが最後に残るということです。

そして、その自分という意識というのは、知ることができるような自己イメージ、あるいは自分という人物像のようなものとは全く異なるものです。

自分が知覚するものは何でも知っている、正しい解釈ができると思い込んでいた自分こそが、自己イメージと自分の意識を同一視していた結果だったということ。

それは本当の自分ではありません。なにしろ、それとかあれとか、あの経験を積んだとか、この知識を持っている自分、こうした自分は全部作られたイメージを自分と勘違いしていただけだったからです。

本当の自分とは、知ることのできない、単なる自分は在るという気づきだったということ。なんとシンプルなものだったのでしょうか。

あれやこれではない、ただの気づきとしての意識。それは何ものでもないという気づきなので、当然のことながら所有するという概念すらありません。

ただし、無であるという気づきは非常に微妙な表現になってしまいますが、この世界のあらゆるものでもあるという感覚でもあります。

まったく属性を持たない、なんでもない無である自分、ただ在るという意識こそが、すべてを包含し、すべてでもあるという感覚なのです。

何も知らない その2

昨日のつづきです。

昨日は、自分のことも含めて、他人のことも何か他のことについても、それそのものを決して知ることができないということについて書きました。

改めてこのことを見つめて見ると、自分が生きていて何かを絶望していると感じるのは、もしかしたらこのことだったのかもしれないと思います。

だって、本質的には何一つ知ることができないなんて。だからこそ、人はいろいろなことを知りたいという欲望があるのかもしれないですね。

知らないところに行ってみたい。いろいろな人とお付き合いしてみたい。様々な体験をしてみたい。多くの知識を身に付けたいなど、すべて知ることができないことの裏返しのように思えます。

これは、手に入れたいという欲求とも関連しているように思えます。所有するということは、本質的には不可能なことです。

真に所有するとは、そのものに自分がなることでしか達成することはできません。したがって、私たちはどんなものを手に入れようと、結局はそれを自分のものにすることはできずに人生を終えていくことになると知っています。

その裏返しとして、何を手に入れたとしても、また次の別のものを手に入れたくて一生懸命になるということなのです。

本質的には何も知ることはできない、そして何も所有することはできない、この二つのことをしっかりと正面から見据える必要がありそうです。

その絶望の中からこそ、そのことを本当に手放していくことができるのかもしれないと感じるからです。

つづく

何も知らない

私たちは、自分のことをそれなりによく知っていると思っています。勿論、自分が生まれてから今までに経験したすべてを一番よく知っているのは自分以外にはいません。

でもどれだけ自分のことを分かっていると言えるでしょうか?自分のことを調べるとすると、自分の身体や自分の気持ち、自分の思考や自分の感情など、みんな「自分の○○」のような言い方になることが分かります。

自分の家や自分のクルマ、自分の成績や自分の考えなど、自分の体験や自分の記憶という具合にそれこそ無数に思いつくことができます。

ところが、どれもこれもが「自分の~」ということであって、肝心の自分自身についてをそのまま表現するものではないですね

「自分の○○」というのは、自分の属性であるとも言えます。しかし、属性についていくらリストアップしたところで、その自分そのものではないと分かります。

それでは、自分そのものをどうやって表現すればいいのでしょうか。みなさんも少し、時間を使って自分そのものについて思いを巡らせてみて欲しいのです。

そうすると、残念なことに自分そのものを表現することはおろか、それを知らないということに気づいてしまいます。

知らないからこそ、表現することもできなかったというわけです。これはある意味とてもショックなことだと思いませんか。

私はこのことに気づいたときに愕然としました。そして、自分のことも知らないのだから、当然のことながら自分以外の人やモノについてはもっと知らないということが分かります。

自分は自分のことも含めて、この世界にあるどんな対象についても本当は何も知らないのだということです。知っているのは、それらの属性についてだけだったのです。

つづく

あるがままとは

いろいろな人が、いろいろな表現方法を使って、あるがままに生きることの大切さを指摘していますね。私も同感ですが、それは簡単なようでいて、なかなか難しいものかもしれません。

例えば、あるがままに生きることがすばらしいことだと聞いて、それならあるがままに生きるように努めようとしたら、もうその瞬間にあるがままではなくなってしまうということ。

それは努力しないように努力するとか、緊張しないように頑張るといったことと同じであると思うのです。あるがままとは、何かをどうにかしようとしないことなのです。

したがって、あるがままに生きようとすればするほど、それはあるがままから遠のいてしまうということに気づく必要があります。

あるがままとは、ある側面を捉えれば思考を使わない生き方であるとも言えます。だからといって、思考を止めようと考えれば、やはりあるがままではなくなってしまうのです。

あるがままとは、何かの問題を見つけてそれを殊更に改善しようとはしないということでもあります。だからといって、改善しようとする気持ちを抑圧することは、あるがままではありません。

改善したい気持ちがあるのであれば、その気持ちをあるがままに受け止めてあげることなのです。頭を使って思考の中に没入する癖があるなら、そうさせてあげればいいのです。

瞑想すると、あるがままを感じることができると聞いて、瞑想をしたとしても必ずしもいい結果にはならないかもしれません。

だとしても、その結果をあるがままに受け止めるということです。瞑想がうまくできなくても、そのことをあるがままに認めるのです。

あるがままとは、そのようにして今この瞬間の自分を全面的に受け入れるということです。そして、もしも受け入れられない自分がいれば、それそのものをあるがままに受け入れるのです。

やや逆説的な感じもしないではありませんが、あるがままとはそういうことです。あるがままを頑張って実践することはできませんが、あるがままができない自分をあるがままに受け止めてあげましょう。

機能する意識

赤ちゃんは一歳くらいになると、何とか自分の力で立って歩き出します。最初はヨチヨチ歩きで、危なっかしいのですが、次第に慣れてくると上手に歩くことができるようになります。

そうやって、気が付いた時には、何も考えずとも上手に右足、左足と絶妙なやり方で二足歩行ができるようになっていきます。

そうなると、もう歩いていても、そのことに神経を使うことはほとんどなくなってしまいます。だから、私たちは様々なことを考えたりやったりしながらでも、歩くことができるのです。

普段街を歩いていても、歩くことに殊更意識を向けなくなってしまうのも当然のことですね。それでも、心のどこかの部分では意識せずとも歩くことをしっかり機能させているところがあるということですね。

もう10年以上前のことですが、クルマで会社まで通っていることがあって、その時に帰りの運転中に会社から緊急の電話がケータイにかかってきたことがあったのです。

かなり込み入った内容だったため、自宅に着くまでの1時間弱の間、運転しながらもずっとケータイで話しをし続けていたのですが、話し終わって自宅近くの車庫にクルマを入れようとしたときに、びっくりしたことがありました。

それは、毎日使っている道路なのに、どこをどう通ってきたのか全く記憶がなかったのです。完全に空白になっていて、意識がすべて電話のやり取りに向いていたのですね。

それなのに、自分はちゃんと自宅に戻って来れていることが驚きでした。それは、きっと歩くことと同じくらいに運転することに慣れてしまっていたからなのでしょう。

運転することを機能させている意識が自動的に働いてくれていたということです。私たちの心の中には、そうした機能する部分というものが備わっているのです。

覚醒した賢者がエゴを消滅させたあとでも、一般人と同じように仕事をしたり、会話をするといったことができるのは、この機能させる意識があるからなのだと思うのです。

このことに気づくまでは、エゴを解体してしまったら人としてうまく機能できなくなってしまうのではないかと思っていたのですが、そうではないということが分かりました。

ということで、安心してエゴを手放して覚醒することにしたいと思います(笑)。とはいうものの、それも起きることであれば、起きるということですね。

起きることが起きる

子供の頃、母親が私の従兄弟にあたる年上の人(男性)のことをよく褒めていました。「○○ちゃんは、努力家だし、勉強も良く出来て、親孝行で本当にえらいねえ」と。

それを言われた自分は、何だか自分のことを比較されて、否定されているように感じてとてもいやな感じだったのを覚えています。

その時、自分がやっていた反撃は、「それは、その人がたまたま努力できるように生まれただけのことだよ!」というものでした。

努力家かどうかというのは、DNAと環境によって自動的に決まるものだということを訴えていたわけですが、それは悪態をついていたというよりも本心からそう思っていたのです。

そして、その考え方というのは大人になった今でもしっかり残っています。例えば、誰かが犯罪を犯したとします。

しかし、同じような境遇で育った人でも、犯罪を犯すかどうかはその人ごとに違いが出てくるわけです。それはもしかしたら、ほんの些細な環境の違いがあっただけかもしれません。

それでも結果として、実際に犯罪を犯す人とそうでない人とに分かれることになるのは、初めから決定的な違いがあったと感じるのです。

その違いとは、どちらにしてもそうなるべくしてなったということ。つまり、起きるべきことが起きて、そうでないものが起きなかったというだけのことなのです。

今まで努力するのが嫌いで、ダラダラとした生活をしていた人が、何かのきっかけで努力家に変身することもあるかもしれませんが、それもそうなるべくしてなったということ。

ありとあらゆることは、初めからそのようにして起きることだけが起きるようにできていたということです。こう考えられたら、余分な罪悪感や責任などをまとう必要がないと分かります。

私はこの世界で起きることをすべて例外なく、そのように見ています。そのおかげでいいも悪いもない、比較的楽な気持ちで生活することができています。

起きることだけが起きる、みなさんもこの考え方をうまく活用して、自分で背負ってしまった重い荷物を降ろすことにしてみませんか?