物語を100倍楽しむ方法

私たちは、対人関係の中で様々な役割を同時に担っています。たとえば、娘であると同時に母親であり、またそれと同時に妻であるという具合にです。

家庭の中だけではなくて、社会に出ればそれなりの社会人としての顔もするわけですし、そのようにいくつもの役割、顔を同時に持っているのは当然のことです。

それらの互いに重複する役割、あるいは顔というのは、何も矛盾するものではありません。けれども、それは物語の中での話しです。

より真実に近づけば近づくほど、心の中で互いに矛盾してしまうような感覚を同時に感じるということが起きてきてしまうのです。

個人であると同時に、個人ではないとか、一人の人物であるとも言えるし、また同時に誰でもないということも分かっている。

心を癒す必要があるというのは本当だけれど、本質的には心を癒していってもエゴがいなくなることはないということだとか。

現実から逃げることなく、自律したなにものにも捉われない自由な意志によって、自らの人生を切り開いていくべき、と同時に本質的には私たちには自由意志などないということだとか。

こうしたまったく互いに矛盾するようなことが同時に心のなかに起きてしまうのは、物語の中で活躍する自分と、本質としての自己を同時に感じることがその理由なのです。

そしてもっと言えば、このことを矛盾と感じているのは物語の中の自分であって、本質の自己からすれば、何の矛盾もないとしかいいようがないのです。

こうした不思議な感覚を常に感じ続けていると、今までよりももっと明確にこの世界を物語として見る目が養われていくように思います。

それは、物語を100倍楽しむ唯一の方法といってもいいのかもしれませんね。

人生に宿題などない

小学生の頃くらいから、学校で宿題を出されるようになって、ああ、面倒臭いなあ、宿題なんてなければいいのにと思ったことが誰にでもあるはずです。

けれども、成長するにつれて、小学生の頃の宿題などまだ楽なもんだったと思うようになるかもしれませんね。

というのも、社会人ともなれば、先生から出題される宿題はなくなる反面、それよりももっと過酷な課題というものが、自分の人生にできてきてしまいます。

何日までに、決められた仕事をやり遂げなければならないとか、プレゼンの準備をしなければとか、営業のノルマを達成しなければなど、いくらでも課題はやってきます。

心の癒しにおいても、母親との問題を解決できたら、今度は父親とのわだかまりを解いていこうという具合に、次々と課題がやってきます。

そうやって、癒しの課題、あるいは人生の宿題をクリアしていった先にこそ、本当に期待できる人生が待っていてくれると信じているのです。

ちょうど、ゲームなどで全クリしたら、そのゲームがめでたく終わりになるように、人生の目標を達成するときがやってくると思っているのです。

けれども、そんなときは決してやってくることはありません。宿題をすべてクリアした後に人生という物語が終わるというのではないのです。

当然のことながら、宿題を残したままに死がやってくることになってしまうのです。だからこそ、残してきたことを次の人生で達成しようとして、輪廻を繰り返すわけです。もしも、本当に輪廻というものがあるのだとすればですが…。

もう一度繰り返しになりますが、人生において宿題がなくなるということはありません。まだ遣り残したことがあるという、その思いこそがカルマの正体だといってもいいのです。

そして、宿題があるという思いがある限りは、人生という物語は継続するのです。つまり、物語の中でしか生きることのできないエゴにとっては、宿題が残っていると妄想することで、自分を存続させることができるということなのです。

それは、つまり人生には宿題など元々ないということを意味します。達成しなければならないこと、解決しなければならないことなど、一つもないというのが真実なのです。

いつでも、この物語を中断することは可能なのです。そのことが分かれば、とても楽な気分になれるはずです。

勿論それは、死ぬことではなくて、本当の自分とはその物語を生きている自分ではないということに気づくことによってということです。

私心を脱する

この数日間の政局のあり様といったら、突然の解散そして総選挙へと続くドタバタ劇でも見ているような感じがします。

大方の予想をいい意味で裏切ってくれたおかげで、衆議院選挙が今年中に行われることになったわけです。

今年は、いくつかの主要な国のトップが入れ替わるかつてない特別な年なのですが、日本も滑り込みセーフとなるようです。

そして、はからずも解散となったおかげで、第三極と言われている政党がめまぐるしく動きだしましたね。

80歳になる石原元都知事が、かつて自分が命名した「たちあがれ日本」の平沼議員らと一緒になって、新たな「太陽の党」なるものを結党しました。

ところが、「減税日本」の河村たかし氏との合流を決めたことが、勇み足となって日本維新の会代表の橋下さんから疑問をもたれてしまいます。

すると、石原さんは次の日には、減税日本との合流を勝手に白紙撤回してしまったばかりか、結党したばかりの太陽の党までも維新の会へ吸収させてしまいました。

良心的に見れば、すごい気迫を感じるわけですが、うがった見方をすれば自分勝手だし、自分が総理大臣になりたいという気持ちが見え隠れしてしまいます。

石原さんがかつて自民党を辞めるときに、「いや~総理大臣にはなれんな~、難しいな~」と感慨深げに言っていたのを昨日のことのように思い出します。

ここで、若干影に隠れてしまったようになっていますが、元たちあがれ日本の平沼議員らのことを忘れてはなりません。

黙って、石原さんの言うとおりに維新の会へと吸収されることを承諾したわけですが、そうしたことは私心があっては決してできないことだと思うのです。

私心を脱して、日本国民のため、祖国日本のために全力を尽くすという強い気概を感じることができます。政治家の中にも、そうした気骨のある人たちがいるのですね。

来月予定されている歴史的にも重要な選挙では、未来の日本のために是非価値ある一票を投じたいと思っています。

物事を多面的に見る目を作る方法

私たちは、自分の独自の考え方や捉え方によってのみ、物事を見て判断を下してしまうという傾向を持っていますね。

簡単に言えば、自分の中では確実に白か黒かをはっきり結論づけてしまい、おまけにそれ以外の考え方を受け入れないという傾向があるということです。

幼いころのことを思い出してみればすぐに分かることですが、子供というのは何でも単純化して見るということをしているのです。

それは、弱い立場であるからこそ、結果を明確にすることで自分を守りやすくしようとする作戦であるとも言えるのです。

向こうからやってくるおじさんがいい人なのか、あるいは悪い人なのか、はっきりしなければ対処の仕方が決められないので、困ってしまうわけです。

ニコニコ笑って迎えるのか、目を合わせないようにしてやり過ごすのか、子供はどちらか一方に明確に決めなければならないのです。

いい人なのか悪い人なのかが不明、またはその中間では対応の仕方に困ってしまうからです。つまり、物事を白黒はっきり区別しなければ安心できない心の状態なのです。

それが幼い頃の心理状態なのです。そうした物事の単純化が大人になっても根深く残ってしまうと、物事の見方自体が硬直化してしまうのです。

十分に成熟した大人の心理では、どんなものでも白と黒の間のグレーゾーンにあるということに気づいているのです。

それはつまり、自分の見方とは違う他人の見方があってもおかしくないという、心の広さを作り出すことになるのです。

物事には、その人の主義や生き方などによって、様々な捉え方があって当然なのだということを前提に、自分独自の判断をすることができる余裕ができるといいですね。

そのためには、やはり白黒はっきりつけたがる、心の中に残っている子供の意識、つまりインナーチャイルドを癒すことがなによりも必要なことなのです。

過去から未来へと運ばれる負の遺産を断ち切る

このセラピストという仕事を通して、多くのクライアントさんの心と向き合っていると、私たちがいかに今この瞬間に生きていないかということを思い知らされます。

残念ながら、過去と未来にのみ意識を向け続けて生きているということです。そのことに、私たちは一体どれだけ気づいているのでしょうか?

セッションの中で、なぜこれほどまでに過去のことに焦点を合わせていくかと言えば、忌まわしい過去から逃亡し続けているからです。

あるがままの過去をしっかりと見て、あらゆる過去から一切逃げずにいることができるのなら、過去の苦しみが現在の自分を追ってくることはなくなります。

私たちは、本当は今この瞬間には何の問題も抱えてはいないのです。問題だと認識することは、すべからく過去からのつながりにおいてなのです。

過去の問題を今の自分から切り離していればいるほど、その過去の思いというものが今の自分を責め立てることになるのです。

だからセラピーでは、過去に立ち返るのです。過去には何の意味もないということを知るためにこそ、過去に意識を向ける必要があるのです。

過去のどの物語であろうと、どんな場面だろうが、わけ隔てなく見に行くことができるようにならなければ、必ず未来へと負の遺産が運ばれていくことになるのです。

このことを深く理解することが大切なのです。問題は現在にあるように見えても、それは過去にあったことでしかなく、それを未来へと投影してしまうのです。

私たちは、本当は過去から未来へと連続した時間の中にいるのではありません。すべては、不連続な独立した瞬間から成り立っているのです。

過去を全部心底まで味わうことです。そうやって初めて、なにものをも未来へ投影することがなくなるのです。

そうなれば、安心して今現在を享受することができるようになるのです。これは決して刹那的なその日暮しをただ意味するものではありません。

エネルギーを向ける場所を、ただ本当に実在する今現在へと向けることができるようになるということです。

真理に近づこうとすれば、矛盾を避けられない

思考を使って真理を解き明かすことは不可能なことです。なぜなら、思考は個別性であり、真理は全体性だからです。

真理について思考しようとすれば、必ずそこには矛盾が発生することを知ることになるでしょう。それは、仕方のないことです。

思考による理解には、分析といういわば部分を対象とした作業があるのですが、それをどれだけ積み重ねたとしても、全体性へは到達しません。

さらに、理解にはそれなりの時間と努力を要しますが、全体性という真理は一瞬にして気づくことができます。真理は時間の外側にあるからですし、思考は時間の産物だからです。

思考ができるもっとも価値ある理解、あるいはもっとも高尚な認知とは、こうした思考の限界性に明確に気づくことなのです。

つまり、思考がそれ自体によって自らの限界を認めるということです。これを一度でもはっきりと通過してしまうと、その後のあらゆる議論が物語の中の戯れに過ぎないと分かってしまうのです。

どれほどの理不尽さであれ、どれくらいの不正であろうと、それが精神的にはどんなに耐え難い酷なものであったとしても、それは思考という物語の中での戯れなのです。

そもそも、そういったものを何とか解決しようとすることが、真理とはまったく異なる思考の中でのことでしかなかったということにも気づくことになるのです。

このことは、すばらしく救われることになるはずです。真の救いとは、そういうことなのです。だからといって、何もせずにじっとしていればいいというわけではありません。

思考を使って、熱意を持って何かをしていくことも大切なことだと思います。こうした一見矛盾に感じるようなことも、真理に近づけば近づくほど、避けては通れないことなのですね。

動物のように心を開きたい

昨日ちょっと出かけた先で、野良猫に遭遇したのですが、それがとてもとてもオープンハートな猫さんだったので、書きたくなりました。

自分が子供の頃ならまだしも、ここ数十年は野良猫が近くに寄ってきてくれることなど、ほとんどなくなってしまったことが、残念なことでした。

それが、その猫さんはとても穏やかで静かな佇まい、近寄っていってもそこに黙ってい続けてくれて、身体を触れさせてくれました。

その後、急にその猫さんがすっくと立って歩き出してしまったので、ああ悪いことをしたかなと思っていたら、何とぐるっと私の後ろを回ってきて、横にピタっと身体を付けて来たのです。

そして、私の太ももを両手というか両方の前足でニギニギ、フミフミしてくれたのです。そして、ざらっとした舌で私の手や指を舐めてくれました。

何というか、警戒心がなく、いろいろなことをやってくれたり、こちらを受容してくれる猫は本当に愛しさがこみ上げてきます。

それで思い出したのですが、いつだったかテレビで見たセラピー犬も、似たような感じでした。老人ホームなどに連れて行かれて、そこのみんなの人気者でした。

じ~っとつぶらな瞳で見つめてもらったら、心がとろけてしまいそうな不思議な犬でしたね。具合が悪くなって死ぬ前などは、身体が思うように動かなくなったにもかかわらず、それでも出かけていって人の心を癒そうとする犬でした。

人にじ~っと見つめられたら、恥ずかしいばかりか、何だか違和感を覚えてしまうだろうけれど、あの犬だったら本当に暖かい気持ちにさせてもらえるのだろうと思うのです。

それはきっと、犬には人間である自分を裁く心が微塵もないと分かっているため、自分の否定的な部分を投影せずにすむからなのでしょう。

動物のような純粋な気持ち、それは間違いなく私たちの誰の心の中にもあるはずです。人の心の中にそれを見つけるように心がけると同時に、自分のほうから率先して心を開けるといいですね。

感情を敵対視せずに、それに身を委ねること

大人になった自分が抱えている様々な問題の根源を見ようとしたら、自分史を作ることがとても役に立つはずです。

とくに、幼い頃、3歳くらいから12歳くらいまでの出来事を、思い出す限り文字にするのがいいと思います。

そうやって、思い起こす作業をしながら自己分析を繰り返していくわけです。こうした作業は、慣れてくれば勿論自分ひとりで可能です。

自分がどのような環境で育てられてきたのか、そのときに何を感じどんなことを考えながら生きてきたのかを、見つめなおすのです。

こうした自己分析の作業は、癒しにとってはとても役に立つ、必要なことです。けれども、残念ながら十分条件ではありません。

なぜなら、事実をいくら分析したところで、溜め込んできた感情の塊は残っているからです。分析の途中で、思いもよらず感情が噴出してしまう場合は幸運です。

多くの場合には、ある程度の感情と出会うことはできても、しっかりとその中に入っていくことができずに記憶の上っ面を素通りしてしまう可能性が高いのです。

それは仕方のないことですね。元々、都合の悪い、なかったことにしたい感情を避けることで自分を守ろうとしてきたのですから。

とにもかくにも、あらゆる感情の塊の中深く入っていくことです。そしてありのままに、その感情と一つになるのです。

例えて言えば、寒くて身を縮めていて、身体が小刻みに震えてしまうときに、思い切って体中の力を抜いて寒さに対して無防備になると、感じる寒さの質が変わるのが分かりますが、それと近い感覚です。

それと同時に身体の震えも止まってくれる場合さえあるのです。もしも、経験がなければ実際に試してみてください。すぐにこれかと分かるはずです。

まさにその感覚と似たことを、感情に対してするということです。感情を敵対視することなく、それを何とかしようとする気持ちを脇に置くのです。

そうやって、襲ってくる感情に身を委ねてしまえば、そこには何もなかったんだということに気づくことになるのですから。

自己表現を抑える本当の理由

これまでにも、何度もこのブログでもお伝えしてきたことですが、自己表現を抑える三つの要素があるというお話しです。

それは、「恐怖」と「自己否定(罪悪感)」と「可哀想という思い」です。この三つのそれぞれが単独であることもありますが、どちらかというとそれは稀なことです。

逆に、これらの要素が密接に重なり合っている場合の方が、圧倒的に多いといえます。セラピストの仕事をしていて気づいたのですが、意外なほど多いのが親などに男の子を期待されているのに、女の子として産まれてしまったというケースです。

人間というのは不思議なもので、お母さんのお腹の中にいるときから、そうしたことを察知しているとしか思えない場面に、ヒプノなどのセッション中にしばしば出くわします。

そうなると、ただ産まれただけでその女の子はハンデを背負ってしまうのです。つまり、決定的な存在の無価値感です。

これが、先ほどの要素の一つである自己否定あるいは罪悪感として、心の奥底に深く根を張ってしまうことになるのです。

本人には勿論何の罪もないのですが、大切な家族の期待を裏切ってしまっている自分は、それだけで一人前ではないと感じるのですから、生きることが非常に大変なことになってしまいます。

そんな自分を生んで育てなくてはならない両親に対しての申し訳なさと、同時にそんな両親が可哀想であるとの思いがおきるのです。

これが、また三つの要素のうちの一つに該当するわけです。勿論、両親の可哀想さは自分のせいばかりではなくて、全く自分とは無縁の理由によってもそれを感じてしまうケースはいくらでもあります。

こうしたことが重なってしまえば、もうその子供は自由な自己表現などできなくなってしまうのが道理というものです。

その結果は、ご存知の通りの自己犠牲の繰り返しと、その結果の怒りの蓄積が待っています。そして、往々にして絶望もやってくることになる可能性大です。

こうした傾向は、はっきりとした自覚なしに大人になっても継続することになるのです。そして、なんらかの困った現実がやってきます。

つまり、その生き方を修正しなければやっていけないという、警告としての手厳しい現実です。そうして、セラピーなどに行こうと思うようになるのかもしれません。

けれども、そうした現実がきたら、それは大きなチャンスがやってきたということですし、そこから本当のことに気づいていけば、必ず埋もれていた本当の自分にも出会うことができるはずなのです。

「潔さ」について

「潔(いさぎよ)い」という言葉がありますが、辞書では何て書いてあるのかと思って調べてみました。おおむね以下のように書いてあります。

~~~~~~~~
1 事物・風景などが清らかである。汚れがない。
2 思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。
3 道に反するところがない。潔白である。
~~~~~~~~

どこかの国の総理大臣のように、近いうちに解散すると約束しておきながら、国益を損ねると知ってか知らずか、ズルズルと延命のために煮え切らない態度でいることは、まさに潔くないと言えますね。

私が感じている「潔い」とは、物事に執着しない心の状態であろうと思うのです。そして、それは都合の悪いことからも決して目を背けない態度からのみ、起き得ることなのでしょう。

勘違いされやすいのは、「潔さ」と諦めやすさとを混同してしまうことです。何かに失敗したら、すぐにあきらめてしまうとしたら、それは潔さではありません。

失敗したことを素直に認めることが潔さであり、そうした心理状態であれば、かえってあきらめずに再び挑戦しようとするはずなのです。

物事を簡単にはあきらめずに再挑戦することは、決して執着ではありません。執着は自己防衛の一つの形であり、潔さとはある種の無防備さなのです。

この世界は、何という学びの宝庫なのでしょう。どんなに馬鹿馬鹿しいことでも、理不尽きわまりない事柄でも、しっかり見ることさえできれば大切なことを知ることができます。

次期衆院選挙で、一体どの政治家に大切な日本を託したらいいのかと、本当に迷ってしまうこともあるかもしれません。

私だったら、具体的な政策などは別として、その人が自分を守ろうとしない、無防備な匂いのする政治家に一票を投じます。

その人はきっと潔さを持っているからです。このことは、何も政治家に限ったことではなくて、人を見るときの基準にもなると思います。

そして自分自身のことも、そうした基準に照らしてみることを忘れてはいけないと思います。