知覚はご都合主義

反原発とか、反体制とかいうように、反○○という言葉があります。これは、最近はあまり聞かなくなりましたが、アンチ巨人というのと意味としては同じですね。

けれども、私にはそこに若干の違いがあるように感じられるのです。つまり、アンチ巨人の場合は、巨人軍は嫌いという中にも昔であれば、王や長嶋は好きというのが内在していたのです。

アンチ巨人は決して全否定ではないということです。日本を代表するチームだし、なくてはならないチームであるけれども、強過ぎて、あるいは人気がありすぎて嫌いというようなニュアンスがあるのです。

巨人軍は憎い敵チームだけれど、なければないで、それは野球がつまらなくもなるということを十分に知っているのです。

でも、反○○にはそうした愛を全く感じることができません。○○に相当する対象を全否定することが前提のようにさえ感じてしまいます。

日本維新の会の代表となった、橋下さんのことを攻撃する人たちのことを冷静に見ていると、彼らはまさしく「反橋下」であると思うのです。

どうも人格的な面での否定が根底にあり、その上で政策や政治的な手腕その他を全面的に否定しているように見えるのです。

普段知的で冷静な判断ができると思われる人であっても、一度でも「反橋下」になってしまうと、本人には自覚できないままに全否定に向けて突っ走ることになるのです。

それが見ていてとても奇妙な感じすらしますが、これが人間の知覚というものなのでしょうね。それと全く逆のケースでも同じことが言えるのです。

大好きな人の臭いオナラは、確かに臭いのだけれども、そこに反○○のような拒絶感がこないぶんだけ、受容できてしまうということがあるのです。

方向は反○○と真逆ですが、まったく同じ知覚による身勝手な操作がそこにあるのです。どっちにしろ、知覚は都合のいいように操作されてしまうのですから、愛が含まれる知覚ができるといいですね。

低線量被曝について再考する必要あり

最近めっきり行かなくなったのですが、何年か前までは好んでといってもたまにですが、岩盤浴に行っていた時期がありました。

あれは、100℃のサウナのような高温の中でやせ我慢する必要もなく、適度な温度の中で楽にしかもものすごく汗がでるんですよね。

そして、その汗も普段出る汗と成分が違うらしくて、終わったときに石鹸で身体を洗う必要もないので、とても気楽に利用できるのです。

ところで、ひょんなことから湯治場と言われるような温泉の記事を探していたら、以下のような内容のものを発見しました。

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五頭温泉郷の温泉はラドンを含むラジウム温泉(放射能泉)です。温泉中のラドンから放出される微量の放射線を吸収することで、身体の細胞を刺激し、免疫力向上、血流の改善の効果があるといわれています。

このたびの東日本大震災において、大気中に放射線が放出されておりますが、全国の皆様からお問い合わせを戴いておりますので、この場を借りて解説させていただきます。

 市街地とラジウム温泉湧出地での放射線量(/h)

一般市街地での通常の放射線量 0.10~0.15マイクロシーベルト

村杉温泉中心部の放射線量   0.20~0.50マイクロシーベルト

玉川温泉 浴室        0.30~0.50マイクロシーベルト

玉川温泉 岩盤源泉      1~15マイクロシーベルト

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一番最後の行に岩盤源泉での線量が書いてありますが、なんと1~15マイクロシーベルト/h とあります。

これは、私たちが安全基準として使っている年間1ミリシーベルトと比較すると、とんでもない線量になります。

年間に換算すると、たとえば15マイクロシーベルト/h = 約130ミリシーベルト/y にもなります。つまり、安全基準値のなんと130倍の値です。

これって、とんでもない線量じゃないですかあ。難病などを治すために、わざわざ遠くの湯治場へ行って、これほどの放射能を浴びるわけです。

放射能の被曝は、少なければ少ないほどいいというのは、大きな間違いのようですね。低線量の被曝は、健康にいいというのは、どうも本当のようです。

被曝の影響を恐れて、地元に戻れない福島の方々のためにも、もっとしっかりと、調べてみる必要がありそうですね。

傷口の中に飛び込む

幼い頃の私たちというのは、やさしい愛の心を沢山持っています。それは、勿論私たちの本質が愛そのものだからです。

けれども、それは裏を返せば無防備に生きているということにもなるわけで、それだけ心に大きな傷を負うことになってしまうのです。

つまり、私たちはどれだけ明確に覚えていられるかは別として、幼い頃にこそ多大な傷を心に負ってしまっているということです。

いつしか、どのようにしたら自分を防衛することができるか、どうやったらもうこれ以上の傷を負わせられずにいられるのかと、考えて行動するようになるのです。

そうやって、10歳くらいになるまでの間に自分を守る術をかなりしっかりと学ぶようになるのです。つまり、大人になるまでに、いかにしたら傷つかないでいられるかを知り、実践することになるのです。

その結果、傷そのものをなるべく見ずに済まそうとしてしまうようになっていくのです。傷を負ったという事実すら、認めないようにする場合もあるかもしれません。

傷口は、それを放置しておいて自然に癒えることはありません。そのままにしておけば、必ずいつかはなんらかの方法で、自分に知らしめられることになるのです。

そうして初めて、過去の傷口を真正面から見なければならないということに突き当たるのです。自分で気づく人もいれば、セラピーなどで気づかされることもあるでしょう。

そこでやっと大きなチャンスが巡ってくるのです。本当は、いついかなるときにも傷口を見据えることはできるのですが…。

パックリ開いた痛々しい傷口をしっかり見るのです。そのときに、幼子のような無防備な気持ちを思い出すことです。

決して傷口を何とかして癒そうとは思わないことです。ただただ、その傷口に近づいて行き、その中に深く入っていくのです。

それができた人だけが、その傷口の奥には本当に何もなかったんだということを知ることができるのです。それは同時に、自分は誰でもないし、本当はどんな物語もない、ということにさえ気づくことになるのです。

この世界のすべてが不連続

私たちは、時間というものが客観的に存在するかのように錯覚していますが、実際には時間は思考の中で作り上げられたものでしかありません。

思考の中では、あたかも時間が過去から現在を通り抜けて未来へと切れ目なく、流れていくもののように捉えられています。

そのために、過去の記憶をデータベース化して、そこから未来を予想するということを絶えず思考によって続けているのです。

けれども、本当は時間の流れというものはありません。瞑想すれば、そのことはすぐに明らかになります。

連続する時間がないとすると、一体どういうことになるかと言えば、それはすべてが不連続であるということになるのです。

あらゆることが起きているこの現象界において、何一つとして連続的に起きている事象などないということです。

思考による解説を通せば、逆にあらゆるものが連続的に起きつつあるというように見られることになるというだけです。

私たちは、つい便利であるという理由から、過去から未来を類推してしまうのですが、本質的にはすべてが不連続なのです。

そのことを意識すれば、急にこの世界が新鮮さで溢れてくるように感じませんか?一秒後に何が起こるか予想しても、その通りになどならないのです。

常に、今この瞬間に出現している事象だけで成り立っているのが、この世界なのです。明日、この日本で何が起きても不思議ではないということです。

そう考えると、楽しみですね。どんなことも、あきらめる必要などないということです。この世界は不連続だと分かれば、明日途方もないことがあなたの身の上にやってくるかもしれません。

心の熟成は気づかぬうちに進んでいる

心の癒しを進めていくときに、その努力の成果が分かりやすい形となって顕われることは、意外かもしれませんがそれほどは多くありません。

このことは、クライアントさん自身は勿論のこと、セラピストの立場としてもなかなかやるせない思いをしてしまいがちです。

誰だって、成果はできるだけ早く見たいものですから。成果が出れば、それをまた励みにして更なる癒しに万進することもできるわけです。

けれども、実際にはそう思い通りにはいきません。いくら頑張って、言われたことを毎日実行してみても、期待したようには現実は行かないのです。

勿論、私の目の前でみるみるうちに改善されていくクライアントさんもいらっしゃいます。一つの問題を解消していく途中に、それ以外の問題も自然と緩和していくのです。

そういうクライアントさんは、行動に移すことがとても早いのです。とてもまだ無理だろうと思われるようなことでも、やってのけてしまったりします。

しかし、多くの場合にはそうはなりません。人の心の頑固さに私自身もある種嫌気が刺してしまうこともなくはありません。

ところが、実は本当に深いところからの癒しというのは、ご本人にも気づかぬうちに粛々と進められていくのです。

つまり、気づかない状態のまま、心の化学反応とも言える熟成が着実に進んでいっているのです。そして何の理由もなしに、気が付いたら問題が解決していたということになるのです。

あれほど頑固に変化を拒絶していた潜在意識なのに、一体どのようにして変わってしまったのか、まったく理解することができないのです。

そうやって、暗い安置所で樽の中のワインが静かに醸成されていくのと同じようにして、心の熟成が行われていくのです。

ですから、みなさん安心してください。慌てず、焦らず、結果が出なくてもあきらめずにいることです。結果は、忘れた頃に向こうからやってきます。

愛と恐怖のからくり

この世の中には、究極的にはたった二つの考え方(あるいは生き方)しかありません。それは、自分の命を守ろうとするか、あるいは自分の命を与えようとするかです。

前者を恐怖と呼び、後者を愛と呼ぶのです。私たちは、すぐにそのどちらを選択するのかという観点で見てしまいがちです。

けれども、本当は恐怖と愛が互いにせめぎ合っているわけでは決してありません。その二つは、ちょうど雲と青空の例えを使えば簡単に理解できます。

私たちはみな、雲一つない青空が大好きですね。でもいつもそうなるとは限りません。空一面に雲が立ち込めてしまえば、青空は隠されてしまいます。

つまり、青空と雲は対等なのではなくて、常に在る青空を雲が隠してしまうからこそ、青空が見えなくなってしまうということです。

愛と恐怖の関係もこれと同じなのです。愛は常に私たちの本質として在るものであり、恐怖がそれを覆い隠してしまうことがあるということです。

どんなに青空が好きな人でも、雲が雨となって私たちの大切な飲み水を恵んでくれることを思い出せば、雲も大事なものであることは明らかです。

つまり、恐怖がなければ、私たちは自分の肉体を守ることができません。けれども、必要以上の恐怖によって自己防衛するということは、愛を隠され続けることを意味します。

それはまさしく、重くどんよりした一面の雲によって、清々しい青空を覆い隠され続けているようなものだということです。

もしも、自分の心の中に継続する雲(恐怖)があるなら、それを直視することです。そうすれば、それは自分が作り出した不必要な雲であったことに気づかされるはずです。

気づけば自然とその雲はどこかへ流れていって消えてしまいます。実際の空にしても、いつも雲は来ては去っていくのですから、それと心も同じ状態であれば健康なわけです。

いつも澄み切った青空のような状態の心を求める必要はありません。雲は必ず来ますが、また去っていくのですから。

そして愛という青空こそが私たち自身の本質であることに気づけば、雲が張り出してきたとしても全く心配する必要などないことが分かりますね。

理不尽さの先にあるもの その2

この世界には、科学ではとても説明できないような不思議なことが沢山あります。たとえば、四柱推命などに代表されるもの、詳しくないですが、風水、数秘術、あるいは方位学など数えあげたらきりがありません。

そういったものが、単なる迷信などのような類のものであったら、きっとすぐに廃れていたことと思うのです。

なぜそうならないで生きながらえているかといえば、それはかなりの精度で当たるという現実があるからでしょう。

実際に私も相当な確率でそうしたものは物事を言い当てられると信じています。けれども、それは決して100%ではないとも思っています。

だからこそ、個人的にはそれらに頼ろうとはしないという面もあります。でも、実はそうしたものへの愛を感じないからというのが本音なのです。

たとえば、Aという場所に引越ししたいと思っているのに、それは方位が悪いから、仕方なしにBという場所にいかねばならないとして、実際にそのように行動する人がいます。

そのことがいいとか悪いということではありません。その行動が、愛ではなくて自己防衛からきているということに問題があるのです。

自分を守るために、自分が信じている教えに従うということが、いかに自分を苦悩させることになるかに気づかねばなりません。

一方、深く帰依している師匠が右へ行け、といったら何であれ右へ行くというのは、そこに愛があるのです。決して自己防衛のためではありません。

表面的には、どちらも第三者的に見れば、とても理不尽な行動に見えるわけですが、突き動かしている原動力は、恐れと愛の違いがあるということです。

自分を守ることから開放された人だけが、本当の愛の清々しさを体感することができるのでしょう。たとえ、それが他人からどれだけ理不尽なことに見えたとしても。

理不尽さの先にあるもの

自分が物心ついた頃から、ずっと感じていたことがあるのですが、それはなぜこの世界には理不尽なことが沢山あるのだろうということです。

子供の頃は、複雑なことは勿論分からないわけですから、メインとなる理不尽さとは、なぜ人は誰かがいやがることを平気でするのだろうということでした。

あるいは、なぜ自分はやりたいことをやってはいけないと言われるのだろう、というのもあったと思います。

誰もが互いに笑い合って傷つけることなく、共存することがなぜできないのだろうというのも、疑問としてありました。

それも一種の理不尽さであったと思うのです。そして、大人になると、この世界、この社会における理不尽さというものは、無限にやってくるようになります。

理不尽を感じずに生きることなど、一日たりともできないのです。それを感じるたびに、心の中で怒ってみたり、あきらめてみたりと忙しいのです。

それで分かったのですが、人は物語の中に理不尽さがなければ、興味を示さなくなるということです。理不尽さとは、料理で言えば大切なスパイスのようなものなのです。

ワサビは鼻にツーンとくると、痛みを感じるほどになることがあるし、辛子は汗をいっぱいかいて、死ぬほどのどが渇きます。

そういうことを知っていながら、それらのスパイスがなければ、食事は味気ないつまらないものとなってしまうのですから、不思議なものですね。

ということは、もしも理不尽さを感じる瞬間がやってきたなら、人生の大切なスパイスがやってきてくれたんだと思えばいいわけです。

敗戦後の日本人の心が、自虐史観に捕らわれて、命をかけて日本の未来を守ってくれた英霊たちを侮蔑するようになってしまったことなどは、理不尽さの極致かもしれないと思います。

けれども、それも日本がこれから再生していくという、興味深い物語には欠くことのできない理不尽さというスパイスだと見ればいいのですね。

理不尽さとは、単なる思考の産物です。思考の正しさを脇に置いて、その理不尽さの中にただ入っていくのです。そうすると、耐え難い理不尽さも必ずただの出来事になるのです。

明日、自分のところにやってくる理不尽さを恐れずに、そのスパイスの効いた物語を楽しむだけの心のゆとりを持てるようにしたいものですね。

内的世界に生きる人は全体性に目覚めやすい

敏感な体質で生まれてきた赤ちゃんが育っていく間に、大抵は怖がり、痛がり、泣き虫、弱虫などと否定的に揶揄されることになるのです。

けれども、それは理屈からして仕方のないことですね。同じ外部刺激に対する反応が一般レベルよりも過剰なわけですから。

本人としては、努力したところでそれを何とかできるわけでもないですから、なかなか面倒な人生だなと感じることになるのです。

たとえば、猫舌がひどくて友達と一緒のペースでは熱いものを食べることができないとか、天候の変化などに体調が強く影響を受けてしまうとか。

子供のくせに、お母さんが作ってくれた料理の微妙な味の違いを分かってしまったりして、「うるさがた」と言われてしまうのです。

一言で言えば、面倒くさいやつということかもしれません。本人だって、もっと物事に対しておう揚になれたらいいのにと思うのですが、感覚が鋭すぎるのですから仕方ありません。

そして、そういう体質の人は大概は、内的世界に生きるようになるのです。周りの人がみんな外側を見ているときに、一人だけ内側の感覚に意識が向いているわけです。

その場合の視線の矢は、確かに内向きではあるのですが、その矢が刺しているのは人物としての自分の内面なのです。

その場合の欠点はというと、ある種の神経症的な症状を発病する可能性が多くなるということですし、逆に利点は、内省的に生きることができる可能性が高くなるということです。

けれども、もう一つ大きな利点があるのです。それは、内向きの矢が自分という人物を刺す代わりにというか、それを通り越してもっと深奥の自己に刺さるとき、一瞬にして全体性に目覚めることができるのです。

そのとき、人は何者でもない真の自己を見ることができるということです。過敏ゆえに人知れず苦しんだ先に、こうしたプレゼントが待っているのですから、敏感さん、あきらめずに人生を楽しんで下さいね。

最後のご奉公

今日は特別、書きたいと思うことが浮かばなかったので、ただボーっとパソコンの前で静かにしていたら、一つ思いつきました。

今年いっぱいでこの部屋を手放すつもりでいるので、11月と12月の最後の二ヶ月のセッション費用を、一律3,000円にしようと思います。

時間は今まで通り、10時、13時、16時、19時開始でやります。ヒプノやヒーリング、勿論カウンセリングも含めて、どのセッションでも2時間、3,000円でやるつもりです。

先日、石原都知事が突然の辞職を発表しましたが、今後は新党を作って国に対して「最後のご奉公」をするつもりと言ってましたね。

80歳にもなって、国政復帰というのは間違いなく我欲からではないというのを感じ取ることができます。それは、本当にすばらしいことです。

それと比較されたら恥ずかしい限りではありますが、私もこの仕事を辞めるに当たって、不特定多数のみなさんに対して「最後のご奉公」ができたらいいなと思っています。

セッション費用を低額にする弊害というのも、ないわけではないと知っています。いつでも気軽に受けられると思うと、セッションを受けるときのクライアントさんの気持ちが散漫になってしまう可能性があるのです。

逆に高額を支払うのだという意識があると、セッションは貴重な時間だという感覚を持っていただくことができるのです。

それは明らかに、セッションのインパクトというか、効果の違いとなって顕われる可能性も否定できません。

実は今までに、何人かのクライアントさんに対して、無料でセッションをやらせていただいたこともありました。私なりに考えることがあってのことでした。

そういうことも加味した上で、この最後の2ヶ月間は3,000円でやることにしました。みなさん、是非いらして下さいね。お待ちしております。