自分(自我)が死ぬまでは…

大したこともせずに、ただ日々を生きてきただけでも少しは気づきがあったりして、その度に何となく自分はダメだなあと思っていたことが少しずつ小さくなっていったのです。

例えば、10代の若いころは、自分はなぜ人を本当に愛することができないのだろう?と思っていました。人としての能力のどこかが少し欠落しているのかもしれないとも思ったりしてましたね。

けれども、自分という人物がいる限りは、決して真の愛に気づくことはあり得ないということが分かって、ホッとすることができました。それで愛のない自分でもOKが出せるようになったのです。

また、大人になって社会人になって、何を成し遂げたとしても、そこからやってくる達成感がひどく乏しくて、せいぜい一晩も経つとどうということもなくなってしまうということが多々ありました。

随分と損な性分だなと思っていたのですが、今となってはそれは当然のことだったと分かるのです。達成感というのは、まだ達成していない過去の自分と現在を比較した時にこそやってくる感覚なのです。

従って、達成感が長持ちするということは、過去を強く引きずって生きていることの証しなのです。過去を忘れた人には決して達成感などないのですから。

そして最後にもう一つ、心の闇をいくら癒したとしても、それでも尚心の中には何かが足りないという満たされない思いというものが残ったのです。

それではセラピーも意味がないのではないかと悩んだこともありました。けれども、結局は払拭できない不安や欠乏感というのは、自分(自我)がいる限りは、決してなくならないのだということに気づいたのです。

勿論そのことに気づいただけで、楽になったわけではありませんが、それでもそういう自分はそれで在る以外には方法はないということが分かって、穏やかな気持ちでいられるようにはなったのです。

そしてとうとう最後に残されたこと、それは自分(自我)が死ぬまでは何をしてもしなくても同じだということ。どんなに腹をくくっても、ここから先はやっぱり難しいのです。

日々瞑想をすることだって、それを自分にさせているのは自我そのものであって、そうやって自己探求を続けることこそが、自我を強めているということも確かなのです。

万策尽きるところまで行くしかないのですねきっと。