真実は分かち合えない

科学が日々進歩し続けるのは、その理論や法則を誰もが共有できるからですね。ニュートンが万有引力の法則を発見したおかげで、人類は月へ行くこともできたわけです。

それは彼一人の発見を、他の人々によっても検証されて、誰もがその法則を利用できるようになったおかげです。アインシュタインが発見した相対性理論だって、力量のある人ならそれを学ぶことが可能です。

だからこそ、科学は素晴らしいし、そのおかげで益々発展していくことができるのです。ところで、2600年も前にブッダが光明を得たことは有名ですが、一体どれだけの人がその恩恵にあずかることができたでしょうか?

残念なことに、真実というものは科学のように共有することができないのです。だから、ほとんどの人にとって、ブッダの成果を受け取ることができないままでいるのです。

真の宗教とはそのように全く個人的なものだということが分かりますね。今の宗教において、私たちが共有できるものと言えば、聖書やコーラン、ウパニシャッドのような教典の内容でしかないのです。

それは決して真実ではありません。科学が共有できる理由は、それが思考をベースにしているからです。我々は思考を使うことで、言葉や客観的な実験を理解し合えるのです。

一方、真実は思考を遥かに超えているのです。だから、科学のようには分かち合うことが不可能なのです。言葉で伝えられることは、それがどれほど素晴らしい内容であっても思考の領域に留まるのです。

本当の宗教とは、私たち一人ひとりの内奥深くにあるものであって、決して言葉や文章で表現できるものではありません。だから真の導師が弟子に伝えるのも、言葉ではあり得ないのです。

それは、如何に真実を見えなくしている個人個人のバリアを剥ぎ取るかということなのです。そのバリアこそが、昨日のブログで書いた、私たちがこれまで培ってきてしまったあらゆる知識や常識なのです。

知識は思考に活力を与え、その思考が更なる知識を獲得するといった悪循環を生むのです。あなたがマインド(思考)優位の毎日を送っているなら、それだけバリアは厚くなり、真実から遠ざかることになるはずです。

それを非宗教的な人と呼ぶのです。もしもあなたが教義や教典にしがみついて、それを信仰するなら非宗教的な人になってしまうでしょうね。

真実はあなたの外側にはあるのではなく、最も個人的な領域のまたその奥に隠されているのです。隠しているのは、他でもない私たち自身なのですね。