瞑想に水を差すモノ

何だか身体が微妙に熱を持っている感じがして、耳の奥にも少し痛みのようなのがあったので、おかしいなと思って血圧を測ったら、かなり上がっていました。

以前にも血圧が高くなっていたことがあったので、またかという感じなのですが、自分の健康が害されるとホントいやな気持ちになりますね。

そして、追い討ちをかけるように、突然昨日クルマのヘッドライトが点灯しなくなるというアクシデントに見舞われてしまいました。それも左右両方です。

結局、調べてもらったら不思議なことに左右ともに同時に球切れしたという、何ともあり得ないような事態になっていたのです。そしてふと思ったのですが…。

ここんところ、ちょっと瞑想が気持ちいいので調子に乗っていた節があって、そういうときにこうした出来事が起きて水を差してくるんだなと。

だいたい瞑想して血圧が上がるなどという話しは、聞いたことがありません。むしろリラックスすることで血圧は下がるはずなのに。

ムカついたので、夕べ3本立て続けに映画を観てやりました。勿論、ネットでですが。でもやっぱり、瞑想しないと気持ちが悪いんですよね。

血圧の高い何とも気持ち悪さと、瞑想の気持ちよさが相まって、もうそれをどう感じたらいいのか訳が分からない状態になってしまいましたが、瞑想はやめられません。

どんな邪魔が入ろうと、死ぬまでやりつづけてやる!!っと、ほどほどに思ったのでした。

「個人病」という病魔

昨日のブログで、誰のマインドも正常に狂っているというお話しをしました。正常に、という真意は、それが私たちのマインドの通るべき当り前の状況だからです。

マインドが患っている病気とは、自分という個人がここにいるということを固くかたく信じてしまった、そういう病態です。それは誰もが一度は罹って、多くの人たちはそのまま死んで行くのです。

その病気は、太古の昔から脈々と伝わってきた伝染病のようなもので、何人と言えどもそれに抵抗することはできなかったのです。そしてそれは、決して悪いことではありません。

その「個人病」に罹らなければ、私たちはこの社会の一員として生きていくことすらできないのですから。仮に、この個人病を免れた人がいたとしたら、彼は精神病棟行きになるはずです。

彼は誰よりも真実を訴えることでしょうけれど、そんな言葉は誰にとっても戯言にしか聞こえないのですから。だから個人病はマストなのです。

ただし、この病気があまりにも現代の人類にとっては、荷が重い状態まできてしまっているようです。もっともっと素朴な時代には、その病魔から抜け出せる人が沢山いたのです。

それが今は末期的状態まできてしまって、人類は追い詰められてしまった感がぬぐえません。どのニュースを見ても、神は人類についてもうあまり期待していないのかもと思わざるを得ない状況です。

インドで産声をあげて、中国を経由して日本にやってきた禅は、この私たちの国で花開くことになったのですが、それも今となってはほとんど消えかけてしまいました。

それを挽回する意味で、私のようなド素人でも、瞑想をするような状況がやって来ているのかもしれません。そんな大そうなことを考えなくても、自分ができることをコツコツしていくしかありませんね。

マインドは正常に狂っている

あなたは、この世界を見る。この世界において、誰が誰よりも素晴らしいのか、誰が誰より劣っているのか、どちらがより美しいのか、より醜いのか、どちらがより価値があるのか…。

ところで、このようにあなたが見ている世界とは、実はあなたのマインドの中にあるこの世界の像を見ているに過ぎないということには、気づいていない。

実際の世界には、あなたが見ているようなどんな比較も存在しない。比較が存在するのは、あなたのマインドといういかにも小さなその世界の中だけの話しだ。

だからあなたのマインドは狂っている。あなたのマインドが正気になることは決してないと言わねばならない。なぜなら、マインドとはそうした世界の像をネタに比較することでしか、存続できないものだから。

それがマインドのやり方だし、マインドはそれでしか生きることができない。だから、あなたのマインドは正常に狂っているとも言えるのだ。

その狂ったマインドこそが、人類の長い戦争の歴史を生み出し続けている張本人なのだから、いくら戦争反対を声高に叫んだところで、お門違いというものだ。

そして、この世界のすべての人のマインドが同じように狂っている。どれもこれも、独自のやり方で世界を歪んで映したうえで、そこに比較を持って来る。

それがマインドの本来の姿だということに気づく必要がある。この社会に組み込まれて、ごく普通に人生を生き抜いているすべての人のマインドが正しく狂っているという事実に…。

だから、もしもあなたが本当に正気に戻りたいのなら、あなたのマインドから抜ける必要があるし、実際そのことこそがこの生で課せられた私たちの唯一の命題なのだ。

それ以外の何かに欲望があるなら、マインドは生き続け、結果として人類の殺し合いはなくならないと思わねばならない。

瞑想しながらのブログ

今日は、伝わらないだろうけれども実は特別なことをしています。

それは、瞑想しながらこのブログを書いています。

文章を書くということは、勿論思考を扱うことなので、

瞑想をしていても、それを中断してからブログに取り掛かり、

書き終わってからまた瞑想をするという習慣がありました。

けれども、今日はその習慣を破って、瞑想のさなかでありながら書いています。

これ、自分としては初めての経験。ちょっと油断すると、瞑想からぬけてしまいそうになります。

だから、すごくゆっくりと書いているのです。

今朝、サウナの中でもできたので試してみたくなったのです。

注意深くやれば、できないことはないと分かりました。

ただし、内容はやっぱりつまらないものになっちゃいました(笑)。

以上、ご報告!

病みつきになるほど面白い

今という質の中に身を置く練習をしていると、そのうち「あ、これこれ!!」という感覚になる。決してうまく言葉では表現できないのだけれど…。

敢えて言えば、すべてが完全に静止してしまったかのような感じ。勿論本当に静止しているのではないけれど、それに合わせて自分の身体やマインドも静止したかのようになる。

これって一体何なのだろう?と思っていたのだけど、たぶんこの動的な世界の背景に気づいた状態なのではないかと見ている。

この世界とは、その背景の上に起きている現象だと思えばいい。現象は常に動きがあり、だからこそそこには時間の流れというものがあるかのように見える。

けれども、その現象を支えている背景は何があっても微動だにせずに、ただそこに在る。その背景には時間というものがないのは当然のこと。

そしてその背景と一つになることができれば、完全に静止して、完全なる静寂がそこに在ることに気づくはず。私の場合には、まだ不完全極まりないけれど、それをほんの少し味わっているのかもしれない。

瞑想は面白いし、興味が尽きないのは、いろいろな面を見せて楽しませてくれるから。自分がいなくなる現象をあきらめたら、その代わり罪滅ぼしのように別のものを見せてくれるようになった。

今はこれに病みつきになっているところ。

「待つ」という質

男性性は攻撃的であり、女性性は受容的である。

「待つ」という質は、その受容性の中に含まれている質であるということができる。

古い時代を紐解いても、探究者の多くは男性であったような気がする。だからとても難しいのだ。

探究は男性性の中にある攻撃的な面を持ちながらも、土台の部分には「待つ」という女性性を欠くことができない。

それは、ちょうど眠ることと同じ質を持っている。私たちは、眠るための準備はあれこれとすることができる。

実際できることと言えば、準備だけであって、直接自分を寝入らせることはできない。

準備ができたら、あとは眠りが訪れるのをただ待つだけだ。

真理の探究にも同じことが言える。

私たちには、真理に対して直接的にできることは一つもない。ただ待つだけだ。

「待つ」という質を忘れるなら、探究が成就されることはない。

そうした探究そのものが、真理への障害となってしまうからだ。

実は、期待せずに待つということの中にこそ、真理への誘いが含まれているのだから。

一瞬一瞬を感じ切る

一瞬一瞬を感じ切る

何一つ逃さないように細心の注意を持って

考え事などしている暇がないくらいに

全身全霊でその瞬間を味わい尽くす

そうすると、まず始めに身体が死体のように動きが止まり

その後更にマインドの動きも止まる

マインドというのは、内面の動きのことなので

止まればマインドは消失してしまう

そうして、瞬間と瞬間のひだの奥深くへと

入っていく…

死んだら目が醒める?

私は子供の頃から、死んだらどうなるんだろう?ということをよく考えていました。子供らしくない子供と思われがちですが、子供は大抵そんなことを人知れず考えているものですね。

で、ある時から、死んだらきっと目が醒めるんだろうと漠然と思うようになっていました。子供の頃によく高熱を出していたのですが、うなされながらも汗をかきながら寝て起きたときに、親が見ていてくれたという印象があるのです。

「目が醒めた?よく寝ていたね。もう大丈夫だよ!」と言われたような気がするのです。その嬉しい安心感と何か同類のことが死んだら起きるような気がしていたのです。

「すごくうなされていたようだけど、もう夢から醒めたのだから、お前は大丈夫だよ」そんなことを言ってもらえるような気がするのです。

だからといって、この世界が丸ごと夢だとは言いませんが、何となくそんなニュアンスになるのではないかという感じがどうしてもしています。

そして、最近ではそれがある種の確信のようなものになってきたように思うのです。死んだら正気に戻るというのか、人格を持った個人だという自己像が一瞬のうちに死んだら崩壊するのです。

そうやって、誰もが例外なく本来の自分の姿へと戻っていくということです。肉体が死ぬ前に覚醒してそれを体験してしまう人もいるでしょうし、そうでなくても死ねば真の自己を思い出すということです。

輪廻しているように見えるのは、肉体が滅びた人たちのマインド(記憶の束)が拡散していく結果でしかありません。だから、もしもあなたが何らかの過去世を思い出すなら、それはあなたが受け継いだ誰かの記憶なのです。

あなたの魂が肉体から肉体へと移っていくということではありません。魂という微妙な表現があるのは、エゴが苦し紛れに作った想像上の自己としか、言いようがありません。

死ぬ前に覚醒するか、死んで覚醒するか、どちらでもいいということですが、どうせ覚醒するなら早めに覚醒して、少しでも苦しみを短くしたいと思うのは、当然かもしれませんね。

いることは緊張だ

osho の講話録を読んでいたら、とてもシンプルで素晴らしい言葉を見つけたので、おすそ分けです。

いることは緊張だ。

いないことは安らぎだ。

あなたが消えたとたん、存在全体がその姿をガラリと変える。それゆえ、あなたこそが唯一の問題だ。もし自分の問題を溶かし去ることができたら・・・。それはつまり、自分自身を溶かすということだ。

だからあなたに救済は存在しない。ただ<究極>へと自分自身を溶かすしかない。そして、それほど偉大で、それほど尊く、それほど奇跡的なことはない。

輪廻のからくり

私たちが日々利用しているケータイにしても、テレビやラジオにしても、どれも電波と呼ばれる波動を使って情報を送っていることはご存じだと思います。

残念ながらというか、幸運にもというか、電波自体を私たちは自分の感覚ではどのようにしても感じることができないですが、この空中も自分の身体を貫通しながら、縦横無尽に電波が行き交っているわけです。

勿論電波は人工のものですが、それとは異なる波動もあると考えているのは、私だけではないはずです。それは今の所まだ科学では証明されてはいないのですが…。

たとえば、表面的には穏やかで笑顔の人であっても、対面しているとどこかで違和感を感じるということがあります。それは、相手の発するエネルギーの波動を感じているのだと思われます。

内側にしまってある怒りだったり不安だったり、そうした感情が発する電波のようなエネルギーを、私たちは確実に感じているのですね。

それは感情だけでなく、その感情とリンクしている思考にも言えることです。誰かの思念のエネルギーは、眼には見えないものの、空間をものすごいスピードで伝わるのだと思います。

人間が死ぬと、つまり身体が死ぬと、その人のマインドの持っているエネルギーは残存して、新しい身体を目指して飛んでいくのでしょう。

その人がどんな惨めな人生を生きてきたのかということと密接なエネルギーが、それに見合った二人の間に誕生する胎児の空っぽな記憶システムへと伝送されるのです。

それが輪廻と言われるものですね。あなたが死んで、あなたの魂がまた生まれ変わるように見えるのですが、実は魂というような個別の自己というものがあるのではないはずです。

私たちは肉体の死によって、あるいは光明を得ることによって、存在の中へと溶けていくのです。だから、あなたのこの生はとても貴重だということが分かりますね。

死後、二度とあなたがこの世に戻って来ることはないのですから。