今日もシンプルに…
社会の中にいて
社会に染まらない
それは水の中にあって
決して濡れない蓮のように
超然と生きる、それが極意
以上
今日もシンプルに…
社会の中にいて
社会に染まらない
それは水の中にあって
決して濡れない蓮のように
超然と生きる、それが極意
以上
あなたがもしも日頃、何らかの問題を感じているなら、その問題はあなたの内側にあるのです。外側には実はどんな問題もありません。
ところが私達の知覚というのは、全て外側に対して使われるように出来ています。目でも耳でも、手も足も外側に向かって機能します。
だから外側の世界にばかり気を取られてしまうのです。したがって、問題のありかである内側を見るためには訓練が必要なのです。
内側に内側にと意識を向けていく事ができるなら、外の世界とは比較できないくらいに深くて広大な世界がそこに広がっている事に気づくはず。
そのことに気づいてしまったら、その時にはきっと当初の問題などは、どこかに消え失せてしまうはずです。
問題があったのではなく、外側に意識を向け続けるその生き方自体が問題だったということだからです。今日からでも訓練はできますよ。
時間をとって瞑想しなくとも、日ごろから外を見ている自分を見る練習をすればいいのです。その方が、現実に即しているし、それがそのまま意識的な人生へと変えて行くことになるのですね。
子供のうちは、何とか自立することで立派な大人になろうと思うものですね。ところが、この自立と言っても実は大きく二種類に分類されるのです。
男性が特に要求されるものとして、経済的自立というのがあります。自分の食いぶちは、自分で稼げというものですね。最近は女性にも要求されるようになってきたのかもしれませんが。
あとは、内面的なものである精神的自立というのもあります。自分の足でしっかり立って、誰かに依存せずにいられるようになること。
後者の精神的自立というのは、すごく奥が深いものだと思います。たとえば、社会の中で立派な業績を上げて、恥ずかしくない社会人として生きる。
あるいは、深く内側を見つめて行って、自分は「ひとり」であることを見ること。そして、それは決して孤独ではないことに気づいていること。
この辺りになってくると、自立という言葉よりも本当の意味での成長という言葉のほうが適切なのかもしれませんね。社会の中にいて、社会に染まらずに超然としていること。
いろいろな表現ができますが、世俗にまみれた自立よりも、超然とした自立の方が感じいいと思いませんか?きっと、自立の最終形は、自が消えていくことです。
だから、自立ならぬ自消なのかもしれません。
初めて会った人に対して、自己紹介をして下さいと言われれば、それなりのことを言えるはずですね。けれども、その情報は一体どこからやってくるのでしょうか?
自分のことなんだから知っていて当然と思うかもしれませんが、実は記憶の中の情報を使って相手に説明しているに過ぎないのです。
でも、記憶を思い出そうとなどしていないつもりでも、自分のことを説明できるとしたら、それはなぜなのか?それは気づかぬうちに、つまり無意識のうちに記憶を取りに行っているマインドの部分があるということです。
本当に全く記憶を使っていないのであれば、自分の事とはいえ、何も言えなくなるはずです。残念ながら、私たちは記憶を使わずにいるなどという芸当はできないのです。
もしも仮に、どんな記憶も使わないでいられる瞬間があるとするなら、それは思考が完全に停止した状態になっているということです。
そんなことを考えていて、ちょっと面白い瞑想の方法を思いつきました。それは、以下のような言葉を唱えながら、ただそこに居るという方法です。
それは、「自分に関わる記憶を使わない!」という宣言を繰り返すのです。それを繰り返すと、素直な潜在意識は自分にまつわる記憶にアクセスしないようになるのです。
それだけで、あっという間に今この瞬間の中へと没入していく感覚がやってきます。それだけで、外側へと向いていた意識が内側へ向きを変えるのがはっきり分かります。
思ったように瞑想できないと感じているなら、試しに挑戦してみて下さい。思いのほか、何か不思議な感覚がやってくるかもしれませんよ。
夜になって辺りが暗くなると見えて来る夜空の星々、以前はよく天体望遠鏡で観てきれいだなあと思っていました。あの星たちは、実は昼間の青空にもあるって、知ってますよね?
太陽の光が邪魔をして、あの星たちのわずかな光が打ち消されてしまって、ただ見えないだけだということを。煙突の下から空を見上げたなら、ちょうど真上に星があれば、真昼でも見えるって知ってました?
眼に直接太陽光線が入ってこないために、暗い煙突の中で瞳孔が開くんですね。だから、わずかな星の光でも確認できるという原理です。
見えるか見えないかとは別に、空にはいつも星があるように、私たちが夜寝ている間に見る夢も、実は起きて活動している間もずっとあるのです。
夜寝てしまうと、表面意識(意識的マインドの部分)が落ちて、その下にある潜在意識の中で起きている夢が表面化するのです。だから、寝ている間にだけ夢を見ると思い込んでいるのです。
けれども、本当はいつだって意識下において夢はその活動を続けているというわけです。試しに、心を静かにして目を閉じてみて下さい。
ほら、思考がウヨウヨしていませんか?それが夢です。夢の中でも比較的すぐにでも表へ出かかっている夢ですが、夢には違いありません。
夢の正体は、日ごろ私たちが都合が悪いとして、意識下へと抑圧してしまった感情や思いなどが、そのエネルギーを消化しようとする活動なのです。
だからもしもあなたが日頃、思考が止まらないと感じているなら、未消化なものを沢山隠し持っていると思って間違いありません。
あなたが探し求めている究極の宝物は、その思考の奥底に隠されているのです。その宝物に出会いたいなら、思考を止めてその奥に分け入ることです。
それが瞑想ですね。けれども、思考が邪魔をしてとてもじゃないけど、その奥へと入っていけないのなら、癒しを進めて未消化なエネルギーを落とす必要があるのです。
一人ではちょっとと思っているなら、専門家の力を借りるのも悪くはないですよ。
osho の言葉です。
望みは過去から生まれる以外になく
かつ未来に託す以外にない
だが、両者とも実在しない
実在するのは現在だ
この瞬間こそ、唯一存在するもの
この瞬間に対して望みは抱けない
この瞬間にいて、それを楽しむことしかできない
以上
今日もシンプルに…
マインドは常に求める
ところが、残念ながら何を手に入れても
満足することはできない
なぜなら、マインドの不足感は内側のものだから
あなたが手に入れてきたすべては、外側のもの
だから、マインドは永遠に満たされない
逆にマインドが落ちたときのみ
あなたは真に充足することができる
以上
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、大事なことは気持ちいいか悪いかだけです。大人の言葉を使えば、快不快が大きなウェイトを占めているということです。
これはすべての動物も同じです。つまり、動物としての本能のようなものですね。ところが、親から指南されることは、善悪だとか、正不正ばかり。
結局、幼い子供は快不快よりも善悪、正不正の方ばかりに気を取られることとなっていくのです。そして確実なことは、快=善(正)、あるいは不快=悪(不正)とはならないということ。
自分にとって心地いいことも悪と言われてしまえば、それを禁止しようとしてしまいます。そうやって、気づいたときには、善悪、正不正の方が快不快よりも圧倒的に大事なことになってしまうのです。
そうなると、快不快は都合が悪い情報として、意識下へと押しやれてしまい、自覚できなくされてしまうことになるのです。
そうやって、人は理性的な人間へと変貌を遂げていくわけです。その度合いが極端になれば、必ず身体や精神の異常となって表れてくるでしょうね。
あなたは、自分の人生の軸をどちらに置いていますか?善悪?それとも快不快?快不快だけでは、社会人として生きていけないと思ってませんか?
誰になんと言われても、やりたいことをやるのは、善悪とは無縁です。いやなことは、どう思われても「ノー」とはっきり言うのも、正不正ではなく、快不快の方ですね。
快不快を優先して生きれば、いたって人生はシンプルなものになっていくはずです。少々勇気が必要となるかもしれませんが…。
私たちの内面は、大なり小なり分裂しています。なぜなら、幼い頃からずっとお前のままではダメなんだと教えられて育ってきたからです。
本当はこうしたいけれど、それではいけないと言われ、幼い子は渋々従うしかないのです。それが、分裂を生むことになるというわけです。
その分裂した内面こそがマインドであり、それが人格を作っていくのです。もしもあなたの内側にまったく分裂がなければ、あなたという人格は存在しないはずです。
覚醒した存在とは、そうした分裂が消えてしまった状態を指すのです。つまり、分裂によって出来上がったマインド(エゴ)が落ちた状態です。
だからその存在には人格もありません。内側が全一になっているのです。表と裏がないということです。その時に、初めて全的に生を生きることができるのですね。
私たちの人格とは、そういう意味では常に生の一部だけを生きているということです。なんだか勿体ない話しですが…。
こんな童話はいかがでしょうか?
あるとき、大海原のある場所に、小さな可愛らしい波がいくつかできました。その波たちは、勿論数秒のうちには消えて行ってしまったのですが、その間に起きた出来事です。
ある小さな波が言いました。「なんでも僕たちを作ってくれた無限に大きな海と言う存在がいるらしいよ。祈れば、どんな願い事でも叶えてくれるらしい!」
隣にいたこれまた小さな波が応えて、「え、そうなの?その海って一体どこにいったら会えるの?是非とも、もっと立派な波になれるようにお願いしたいな。」
また別の波が言いました。「どこにいるかは分からないけれど、遥か遠くなんだろうね、きっと。もし会えたら、長生きできるようにして欲しいもんだ。」
それを聞いていた更に別の波も口を開きました。「私はそんな海の存在なんてぜ~んぜん信じてないわ!だって、私は無神論者なんだから。」
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これが私たちの現実だと気づけばいいのです。波というのは、そもそも海面の上下運動から出来るものであって、海そのものだと。
海(神)はどこか遠くにいるのではなくて、あなたの本質こそが海(神)だということを。人間も波と同じように、あっという間に生まれては消えて行く運命にあります。
けれども、やはり波と同様に、消えるのは表面化した現象としての顕われであって、消えれば誰もがただ海そのものだったと気づくだけなのですね。
そして肉体が消える前に、自分の本質に気づくことができたら、何て素敵なことなんでしょう!