「今」の中へ分け入る

最近午前中の時間帯は、独りで過ごすことができるようになったせいか、少しだけ意識の深さが違ってきたような自覚があります。やっぱり、環境って大きいですね。

誰かと会話をしたり、他人の存在を気にしていると、知らず知らずのうちにどうしても内側に意識を向けることが難しくなるのでしょう。少なくとも私の場合は…。

わざわざ瞑想の時間を作らなくても、ただただ「今」に注意を向け続けているだけで、自ずと思考から解放される感じがはっきり分かるようになりました。

そして大切なことは、普段の生活の中でその感覚をなるべく継続させておくということです。それができると、面白い現象が起きることも分かりました。

興味深いのは、外側からやってくる刺激に対して、比較的無頓着になるということです。やはり思考が起きなければ、感情的な反応も起きなくなるということですね。

それはとても楽です。運転中にそれを実践し続けていると、いつもと比較してイラッとくることが激減するのです。反応しないというよりも、反応する自分をただ見ているというか…。

内側へ内側へと意識の向きを固定することで、外側への注意が小さくなってしまうのでしょう。何とも快適です。人との会話中にもそれができるなら、とても素晴らしいのですが、まだまだです。

「今」というのは、本当に奥深い!

瞑想は心地いい

普段クルマを運転している時には、充分に慣れた人なら、クルマがまるで自分の手足のように感じるでしょうね。それはとても気持ちのいいものです。

ところが、ある一定の速度を超えて、更にそれを上回るような相当なスピードを出して行くと、クルマの態度が一変してしまうことに気づくはずです。

普段の従順なクルマとは打って変わって、もうお前の指図通りにはならないよと主張してきます。これは、経験したことがなければ分からないかもしれません(経験しない方がいい!)。

瞑想中にもそれと同じような感覚がやってくることがあります。普段は、自分の采配で人生を歩んでいる感覚があるはずなのに、それがどうにもならないという感覚がやってくるのです。

自分はとても小さくて無力である反面、生はとてつもなく巨大でとてもその力には対抗できないという感覚。自分はこの生のほんの一部でしかなかったと…。

エゴにとっては少々屈辱的なのですが、一方ではこれ以上の安らぎもないのです。生に対して、すべてを委ねてしまうしかないのですから。

だから瞑想は心地いいのですね。ただし、その心地よさも実はしっかりとエゴのものなのです。瞑想している限り、エゴは健在なのですから。

溜めずに生きる

死への恐れというのは、それまで溜め込んだものを奪われてしまうということにあるのです。溜め込んだものへの執着が強ければ、それだけ死の恐怖は強大なものとなってしまいます。

その反対に、何も溜めずにいて、何も所有するものがない状態であれば、失うものがないために死への恐れは非常に小さくなるはずです。

私たちがまず初めに溜め込み出したのは、自己イメージです。それは周りの人が投げてきたその人の印象でしかなかったのですが、それをそのまま受け取り続けて、溜め込んできたのです。

その自己イメージが否定的なものであればあるほど、肯定的なものへと変えようとして、足りないところを外側から手に入れることで補おうとするのです。

そうやって、あらゆるものを溜め込む人生がスタートします。不安が強ければ強いほど、人はモノやお金、あるいは実績や誰かの評価を溜め込むのです。

過去の経験も全部溜め込んで自分の財産にしてしまうのです。それは重くて身動きが取れずに、不自由な人生を作り続けていることになるのに、一過性の安心のために溜め続けてしまうのです。

あなたが何かを所有しているという幻想を見抜くことです。何かを所有するということ自体が不可能なことだと。それが深く理解できれば、溜め込む人生からおさらばできます。

何も溜めずに、常に手ぶらでいること。どんな過去もゴミとして捨ててしまうのです。そうして何者でもない自分、ただ在る自己としていれば、死への恐れもどこかへ行ってしまうでしょう。

あなたの本質は円の中心 その2

昨日のつづきです

あなたというエゴは

その円周上をグルグル動きつづけてさえいれば

決して中心に落ちることはない

けれども、その動きを完全に止めてしまえば

あなたは中心へと落下することになる

それはまるで、地球の周りを回っている人工衛星のよう

ただし、あなたが落ちるとき

隕石のように燃え尽きて

あなたは決して中心に到達することはない

以上

あなたの本質は円の中心

今日もシンプルに…

あなたを一つの円だとすると

あなたの表面意識(エゴ)は、ちょうど円の円周上にある

だからどれほど成長したと思えても

円周上をグルグル回っているに過ぎない

あなたの本質はその円の中心にある

中心は一つであり、ここが不二一元

円周上からは、中心は遥か彼方に思える

以上

結婚という制度について

昔からずっと疑問だったのですが、離婚したがっている人がいるのに、国がそれを認めないってどういうことなんだろう?と。不思議じゃないですか?

結婚するときには、当事者二人の同意があればOKだというのは分かるのですが、離婚はどちらか一方でもそれを望んだらできるのが自然だと思うのです。

もうあなたとは一緒に暮らしたくないと相手が言っているのに、駄々をこねて離婚したくないと訴える人もいて、それは本当に困ったさんだと思います。

けれども、そういう人がいるのは分かるのです。精神的な問題がその人にあるのだろうと理解できるから。けれども、一体どんな権利があって離婚はさせません!と国が言えるのか?

結局、愛し合っているから結婚するというのは表向きだけで、ある種の保証制度なんでしょうね。一度結婚したからには、愛がなくなったとしてもそう簡単には離婚させませんよ!と。

離婚されたら困る、離婚したくないという人を保護しなければならないために、誰もが認める正当な理由がなければ離婚はしてはならない!ってこと。

だけど、離婚を望む一番分かりやすい理由は、一緒に暮らしたくなくなったということで、それ以外は本当にどうでもいいことだと思うのです。

逆に、法律上は愛があるかないかなど、どうでもいいというのが根底にあるわけですね。そうなってしまったのは、この世界には愛が見当たらないからでしょう。

つまるところ、私は結婚制度に反対ってことです。そんな私が、もうすぐやってくる息子の結婚式の披露宴で、挨拶をするのですから、危険人物間違いなし!

思い出したらあなたは消える

私たちは、日ごろいろいろなことをふと忘れてしまいます。やっとのことで思い出すことができて、スッキリしたということは誰もが経験していますね。

ところで、もしもあなたが一度忘れてしまったことを思い出したら、その途端にあなたが消えることになると分かったら、どうするでしょう?

勿論消えたくはないですから、思い出そうとはしなくなるはずですね。それが、私たちの誰にも今起きていることだと言えるのです。

つまり、私たちは一人残らず自分自身の本質を忘れた状態で生きているのです。そして、もしもそれを思い出すことができるなら、その瞬間にあなたは消えてしまうのです。

それが覚醒なのです。光明を得るとも言ったりします。だから、誰もそれを思い出したくないわけです。思い出すとなぜ消えてしまうのか?

それは、自分の本質を思い出すのは、我々ではなくて本質そのものだからです。本質から見れば、でっちあげられた自我は、その瞬間幻のように消え失せてしまうのです。

でも大丈夫。あなたは消えても、あなたの本質はそれ自体への気づきとして在り続けるのですから。

死を身近に感じれば、生はシンプルになる

誰もが自分もいつかは死ぬと知っていながらも、まだまだ死なないだろうと思っているのです。いわゆるお年寄りの人であっても、それは同じかもしれません。

けれども、それほど長くはないかもしれないと、死を現実的な感覚で捉えるようになると、生はもっとシンプルなものになるはずなのです。

死をリアルにイメージするだけで、自分の生がシンプルに感じられるようになるのです。ということは、まだまだ死なないはずとして生きることが、どれほど無駄なことか…。

墓地が村のはずれに置かれたのも、死を身近なものとして見たくないという表れかもしれません。あるがままの自分を肯定できずに生きた場合、死は最悪のものとなるでしょう。

なぜなら、自分を肯定することができずに人生が終わってしまうのですから。けれども、肯定するのに一体どんな理由が必要だというのでしょうか?

自己肯定は、今この瞬間にもできるのです。そこに理由は必要ありません。逆に理由が必要であるのなら、それは本来の無条件の受け止めにはなっていないということです。

もしもあるがままの自分をただ受け止めることができるなら、死は決して悪いものではないと分かるはずです。生きてようと、それが終わろうと、なにも問題はないのです。

しっかりと内側を見る練習ができているなら、きっといつ死が目の前にその姿を顕すことになったとしても、慌てずにそれも受け止めることができるはずです。

生が悪いものではないと分かるなら、死も悪いものではないと知るのです。惨めさを隠し持って死に直面するなら、間違いなく輪廻は続いていくでしょうね。

あなたが消えれば、この世はパラダイス!

私たちの誰もが、時間の流れの中にいると思い込んでいるのですが、もしもその流れと一つになることができるなら、その時には時間はないと気づくことになります。

勿論、その中にいた自分も消えて、ただ在るだけの自己になるのです。心を静かにして、ジ~ッと時間の流れに身を任せてみて下さい。

コツを掴むことさえできれば、時間の流れに逆らわずにいることができるなら、間違いなく時間と一体になることができ、その時には本当に時間は消えてしまうでしょう。

このことは、どんなことにも共通して言えることです。たとえば、あなたのマインドの中に怒りがやってきたとしたら、その怒りをどうにかしようとする代わりに、その怒りと一つになるのです。

怒りがあるというよりは、あなたが怒りそのものになるということ。そうなると、怒りはきっと消失してしまうはずです。そしてあなたも消えるのです。

あなたが消えたその瞬間、あらゆる問題も消えてゆき、あらゆる苦悩から解放されることになるでしょうね。なぜなら、すべての問題の大元は、あなたの存在だったからです。

自分がいるという思考が落ちてしまえば、この世界はまさにパラダイスなのです!

不動の自己

いつ何をしている時も、自分の内側に何もせずにいる存在があることに気づいていますか?

歩いている時も、それはただ何もせずにじっと自分を見ているのです。

食事している時も、誰かと話している時も、本を読んでいる時も、とにかく何もせずにただ自分を見ている存在があることに気づくことです。

その不動の部分こそが、あなたの本質なのです。