分裂という病

私たちは分裂している。

右と言えば左という部分がある。

これをしたいと思えば、してはいけないがあり、

それはしたくないと思えば、それをしなければならないがやってくる。

ただし、自分が分裂していると思いたくないので、

都合の悪い方を意識下に抑圧してしまっている。

これがあなたのマインドの姿。分裂こそがあなたの人格そのものを作ったのだ。

あなたの人格、つまり分裂という病から解放されて、

あなたが一つにならなければ、自分の本質に気付くことはできないし、

あなたは決して満たされることもない。

思考は疑い深い

今日もシンプルに…

思考とは疑いであって

疑いがあればそこに信じることが起きる

疑いがなければ信じることはできない

疑いが強ければ、それを抑圧するために

信念を作ることにもなる

だから疑う心が小さい人ほど

信念が少ないはず!

以上

あなた自身の存在の中に…

osho の言葉です

目を持つ人は内側を見る

目の見えない人は外側を見る

目を持つ人は内側にその宝を探す

盲目の人は自分に足りない何かを見つけられるという希望を持って、

世界中を奔走し、乞い求め、盗み、人を殺す

それでは決して見つからない

なぜなら、それを失ったのは外側ではないからだ

あなたはあなた自身の存在の中にそれを失った

明かりはそこで灯されるべきだ!

以上

意識には死はない!

考えても仕方ないようなことを、それと分かっていながら考えてしまったり、心配しても仕方ないようなことをずっと心配してしまうことってありますよね。

そんなときに、瞑想しようと思ってもいつものようには、すんなりと入っていけないものです。これって、し慣れていない人が初めて瞑想をするとき、きっとこんな感じなんだろうと思うのです。

時々、死んだ後のことまで心配している人のことを見聞きします。ある程度は分かるのですが、これも限度問題ですね。

ただし、例えば幼い子供たちを残して親が死にゆくような場合には、誰だって自分が死んだ後子供たちはどうやって生きていくだろうと考えてしまうのは当然です。

そんな究極の場合であっても、実は思考の外にいることを日常的に知っているなら、それが多いに役立つはずなのです。

私たちはあまりにも思考漬けなのです。思考が自分になってしまっているとも言えるくらい、甚だしく思考にどっぷり浸かっているのです。

思考のない状態に寛いでいられるなら、そこにはどんな心配事もないし、死すら存在することができないということにも行きつくのです。

肉体の死は起きるのですが、思考のないところでは自己の死はあり得ないのです。どうすれば、意識が死ぬなどということができるでしょうか?不可能です。

人生というストーリーは実在しない

今日もシンプルに…

あなたが見ているこの世界とは

実はあなたの内的世界そのもの

だから人の数分だけ世界がある

人の数だけ人生があるように見えるが

人生というストーリーが実在したためしは…

ない!

以上

学習では何も知り得ない

今日もシンプルに…

学習とは、○○「について」学ぶということ

だから学問で得た知識とは、全部表面的なもの

私たちは、何であれ、○○「について」学ぶことができるが

それは、○○「を知る」ことではない

神について、真実について学習はできるが

それによって神を知り、真実を知ることはできない

以上

マインドはいつも古い

今日もシンプルに‥

あなたのマインドはいつも古い

あなたのマインドは沢山の人に使われてきた

だから革新的なことは生まれない

マインドが落ちたときに初めて

あなたは個性的な存在になる

以上

過去に、自分がいないという状態になったときに、それをどうにも説明することができないということも分かっていました。説明する類のものではないということかもしれません。

そのときに、もう一つ明らかだったことは、時間はないということ!どうしてそれが分かったのか、今それを思い出そうとしても皆目分からないのですが…。

けれども、そのときにはどんな言葉を尽くしても説明できないくらいに、そのことが明々白々だったことは覚えています。そうなのです。異常なほど明らかだったのです。

真理というのは、きっとそういうものなのですね。一生懸命説明するようなものは、所詮真理からは程遠いものでしかないということなのでしょう。

そのことを思い出すと、自分が今知識として知っていることのすべてについて、それは聞いたことがある情報というだけだったと分かるのです。

自分は本当は何も知らないし、何も分からない。これが真実なのです!お手上げです。降参しましょうね。すべてを真にあきらめたとき、あらゆるものが入って来るのです。

執着を愛と勘違いする親

愛は恐れと同居することができません。つまり、愛に溢れている人の内面には、恐怖が存在できないということです。私たちの多くが死を恐れていることを見れば、誰もが愛から遠ざかっていると分かるのです。

人は恐怖や不安を感じるとどうしたくなるかと言うと、愛に戻る代わりに安心を得ようとしてしまうのです。つまり、自己防衛の方向へと向かうことになるのです。

そして安心するために、執着が起きて来るというわけです。

だから、愛と執着は真逆のものと思って間違いありません。ところが、執着を愛と勘違いしてしまう人が大勢いるので、厄介なのです。

愛と憎しみの区別がつかない人はいませんが、執着については間違ってしまうのです。執着心は恐怖からの逃亡によって起きるのです。

したがって、執着は所有を生み出します。親の心が執着に満ちていれば、子供は間違いなく親の所有物にさせられてしまいます。

なぜなら、物は所有できるからです。つまり、その親は子供をモノとして所有しようとするということです。物は反逆しないものだからですね。

反逆されないためには、親は絶対と思わせる必要があるし、コントロールします。それらのすべてが、親の愛だと親自身が勘違いしているのです。

その勘違いが子供へと伝染してしまい、癒しを妨害することに繋がるのです。子供をそばに置いておきたいとか、自分の気に入った人と結婚させたいなど…。

愛の深い親が、「あなたのことを思って云々…」という言葉を吐くことはまずありません。それが愛のふりをしている執着からやってくるということを見抜くことです。