物語の中の自分を見る

私たちは、誰でも自分の国籍、自分の性別、自分の年齢について知っています。あまりに当然過ぎて、なぜ知っているのかということも考えたりしません。

けれども、もしも今この瞬間だけに限って自分を正直に見つめてみたら、自分にまつわることは分からなくなってしまうのです。

つまり、過去の記憶を辿っていくことで、そうした情報を獲得するだけなのです。その情報を読むことをせずに、自分の年齢や性別を知ることはできません。

実際、深く瞑想の中へ入っていくなら、自分が誰なのかというあらゆる情報がなくなってしまうと同時に、そうした情報について無頓着になってしまうのです。

なぜなら、そうした情報がただの情報であり、本来の自分とは無関係のものでしかないということが明らかになってしまうからですね。

目を開けて、自分の身体を見ればそのときには身体の性別を知ることは可能ですが、自分の内面においての性別は不定なのです。

あなたの身体の性別は○○で、内面の性別は○○で、好きになる人の性別は○○だとして、それが一般常識とずれているからといって、問題視する必要などないのです。

そのくらい、無頓着になって、世間の正しさから遠のいていることができるなら、何であれ自分を責めることもなくなっていくはずです。

自己探求によって、探究者を探究し続けていけば、より物語の中の自分の姿と自己の本質の違いが明確になっていくものです。

人生という物語の中で、自分がどんな肌の色をしていて、どこに住んで、どんな生活をしていようと、それをただ見ている自己に気付いているだけでいいのです。

相手を説得しようという欲望

セラピストになって自分が大きく変化したとしたら、それは他人を説得しようとはしなくなったということ。それはあきらめたということではなく、ただ説得させることに意味がなくなったということです。

それまでの人生では、自分の周りにいる誰であれ、自分の考え、自分の正しさ、自分の思い、そういったもので相手のマインドを占拠したかったのだと思うのです。

それが、ある種の自分の存在証明のようなものだと感じていたのでしょう。それが、他人のことを考えることが極端に減ったと同時に、ほとんどなくなってしまったのです。

セッションで、できるだけ深くクライアントさんの人生の中に入っていくことによって、その逆にセッション以外のプライベートでは、まったく他人に関知しなくなったのです。

意識が自分に向く時間が増えてくると、自然と他人への働きかけというものが消えていくのです。その結果、他人を説得するという必要がなくなってしまったのですね。

セッションにおいても、それははっきりと自覚することができます。自分が伝えたいと感じていることを話したとしても、クライアントさんの反応が期待通りでなくても、構わなくなったのです。

説得したいという欲望が消えてしまったために、相手の反応に一喜一憂しないでいられるようになったのですね。自分の正しさも消滅してしまえば、当然そうなるのです。

論理的な世界においては、どうしても自分の正しさが残ってしまうのですが、物語から抜けた感覚においては、論理も正しさも意味をなさないのです。

プライベートな時間に物語の中に埋没してしまえば、また相手を説得したいというエゴが顕われてきますが、その瞬間もそうした物語を同時に見ていられればいいのです。

意識的であること以上に大切なことはないとうことですね!

無自己性 by osho

無自己性 by osho

言葉が消えて初めてわかることだが、自己は境界なしでも存在できる。それはひとつの体験だ。論議によって証明するものではない。自分自身の中に入って、どこまでも沈黙してごらんーー境界もなく、言葉もなく、ただ純粋な在ること・・・。

にもかかわらず、あなたにはわかるーー「自分は在る」と。

知ることなく、口に出すことなく、あなたは体験するーー「自分は在る」と。

この「在ること」は始まりの前からあったーーもし始まりというものがあるならば。

それは今もあり、これからも永久にある。たとえ終わりというものがあっても、この「在ること」は終わらない。

そしてこの「在ること」は、あなたとは関係ない。この「在ること」は、あなたの所有物ではない。だからそれは自己ではない。

ブッダの説明はじつに的確だ。たぶん、彼ほど的確な人もいないだろう。彼はそれを自己ではなく、無自己と表現した。なぜなら自己と呼んだら、線や、境界や、領域を与えてしまうからだ。その領域をこわすために、ブッダはそれを無自己と呼ぶ。そのせいもあって彼は長年、誤解されてきた。というのも、誰が無自己に到達したがるだろう。誰が無になりたがるだろう。

そしてこの無や無自己こそまさに、自己の存在の中心に到達したとき、あなたが成るものだ。この無自己性は不滅であり、この無自己性は純粋な喜び、原因のない至福だ。

マインドが到達できない唯一の場所

父親が一人で外出できなくなってから、1,2年経ったでしょうか。足腰が弱って来たので、自宅の中でしか一人では歩けなくなったのです。

それはまるで、ヨチヨチ歩きしかできなかった幼い頃に戻ったようなものですね。考えてみれば、生まれてから成長するにつれて、行動範囲がどんどんと広がって行くわけです。

小学生くらいになると、乗り物を使えるようになって行動範囲は飛躍的に広がって、高校生にもなると基本的にはどこへでも行けるくらいになりますね。

大人になって、海外に出張するようになれば、地球上のあらゆる場所にまで行動範囲が広がるのです。家の中をヨチヨチ歩いていた頃からすれば、飛躍的な拡大です。

宇宙飛行士にでもなれば、月以外にも他の惑星にまで足を延ばせる時代がもうすぐそこまでやってきてますね。人類は一体どこまで活動範囲を広げるようになるのか、楽しみでもあります。

ところが、一般的な人間としての成長がどれほど進んでも、また科学がどれほど進歩しても、まったく到達することのできない場所があるのです。

それは私たちの自己の中心とでも言えばいいのか、自分にもっとも近い、距離ゼロのくせに決して辿り着くことのできない地点があるのです。

そこにマインドとともに赴くことは不可能なことです。なぜなら、マインドは虚偽であり、自己の存在は真実だからです。マインドと自己同化している限りは、決して行かれないということですね。

マインドとの距離を感じられるように、常に意識的である必要があるということです。この私を置き去りにして、自己の中心で、本当の自己と出会って融け合えることを願って…。

どんな望みも実在しない

思考の中で暮らしている私たちにとって、空間的な広がりがあるだけでなく、時間的な広がりをも感じているのです。それが、過去への広がりと未来への広がりです。

けれども、それは単に感じているだけであって、冷静に理性をもって見つめれば、実在しているのは今この瞬間だけだということも分かっているのです。

この矛盾に目をつぶって、過去も未来も自分とともにあるかのようにして生きているのですが、それこそが物語という思考による創作物なのです。

どんな望みも過去から生まれるしかないし、それは未来に託す以外の方法はないのですが、どちらも実在してはいません。実在するのは、何度も言うように今この瞬間だけなのです。

今この瞬間においては、どんな望みも抱くことはできません。ただ、この瞬間を味わい、それを楽しむことしかできないということに気づくことです。

私たちが日々していることと言えば、思考が創った物語の中で、望みを叶えようと一喜一憂し続けているということ。実在しないものとともにあって、それを楽しむ夢想者のようなものです。

目を覚ますことができるなら、どんな物語も消えてしまい、残るのはあるがままの実在の姿のみ。物語の中で暮らしていた偽物の私やあなたも同時に消えていくでしょう。

言葉も消えて、むき出しの実在だけがただ在るのでしょうね。

幸せには不幸が欠かせない

誰もがより幸せになりたいと願いつつ、自分の人生を生きているのです。けれども、しあわせを求めれば、必然的に不幸が必要になるということには気づいていません。

私たちが感じる幸福感というのは、常に比較の上でやってくるものだからです。したがって、不幸の要素を一つも知らずして、幸福感を味わうことは不可能なことなのです。

完璧に健康な状態しか知らない人は、決して健康を求めないばかりか、不健康を知らないために、健康を実感することもできないのです。

誰もが不自由よりも自由を好むし、自由を希求してやまないのですが、それは不自由さを嫌というほど経験して知っているからなのです。

不自由を知らなければ、自由のことも実感することはできないのです。二元性の世界とはそういうものなのです。これが、私たちが暮らしている現実という物語の特徴です。

身体の快感を求めるなら、必ず不快感が必要となるのです。ビールをできるだけ美味しく飲みたいと思うなら、100度のサウナにでも入って、暑さを我慢すればそれだけ喉越しの快感を得ることができますね。

ロミオとジュリエットのドラマに惹きつけられるのは、彼らが逢ってはいけないと制限されるために、より逢いたいという気持ちが強くなるからです。

二人がいつでも一緒にいられるのなら、そこに自由さを感じることはできなくなってしまうし、感動もなくなってしまうはずなのです。

欲しいものを手に入れて、幸せだと思っても、すぐにその感覚がマヒしてしまうのは、手にしてなかったときとの比較が薄れていってしまうからなのです。

今自分はしあわせだと感じるなら、あなたの中にまだ不幸の因子が残っているからに違いありません。それ抜きでは、幸福感はあり得ないからです。

幸せを求めないでいられるなら、一緒に不幸も必要なくなるのです。そしてそこに在るのは、至福と呼ばれるものです。これだけは何かとの比較ではない、ただそうあるもの、それこそが非二元ということなのです。

物語は魅力的

私にとって、クライアントさんとのセッションは、誰もが物語の中の住人として暮らしているということに気づかせてくれる大切な時間なのです。

勿論、自分自身も同様にして物語の中で生きているということをリアルに感じさせてもらえるのです。クライアントさんのお話しを伺いながら、その感覚がジンジンやってくるのです。

物語自体が悪いということは決してありません。都合のいい物語もあれば、都合の悪い物語もあって、どうせなら嬉しい物語がたくさん起きてくれたら有り難いと思うはず。

けれども、所詮は物語であって、大切なことは物語を物語として気付いていること。物語の中に没入してしまえば、それがリアルな現実となって、つまりそれが真実に見えてくるのです。

真実ではなく、思考による創作なのだと気付いて、物語であるということを常に見抜いていること。自分にとって、嫌な物語がやってくれば、物語性に気付きやすくなるのです。

その一方で、物語を楽しんでいるなら、多くの場合にはその物語と同化してしまい、それが現実という物語であることを気付けなくなってしまうのです。

物語の中にいて、物語であることに気づいているためには、自己想起をし続けることが必要なのです。物語から抜けようと努力する代わりに、ただただ自分に意識を向けるのです。

抜ける努力は、それ自体が物語の一部になってしまうのですが、自己想起は自動的に物語との間に隙間ができるのです。

どれほど目の前の物語が魅力的なものであろうと、自己想起を忘れずにいることができるなら、10年20年の間には、途方もなく大きな違いがやってくるはずなのです。

昨日のブログでは、私たちの知覚が二段階になっており、外側からの情報を得る部分と、思考による後処理の部分とからなるため、その後処理によって物事のあるがままを見ることができなくなってしまったということを書きました。

思考が見たものを自動的に分類してしまうことで、その結果個々の違いを無視することも同時に行っているということでした。

私たちは、100匹の同じような大きさのネズミを前にしたら、個々のネズミの違いには気づくことができないのです。どのネズミも、全く同じように見えてしまうのです。

この同じものとして処理してしまうということを繰り返すうちに、実際に個々の違いを見抜く知覚の能力を低下させてきてしまったのです。

あるいは元々持っている知覚の能力を100%引き出すことをせずにいるといってもいいかもしれません。その一方で、人間の脳は、都合のいい解釈をふんだんに入れ込むことができるのです。

動物の知覚が私たち人間よりも格段に優れているのは、もしかしたらこうした理由があったのかもしれませんね。一説によると、犬の嗅覚は人間の100万倍ともいわれています。

猫の聴覚は、人間の4倍、犬の2倍だそうです。動物の知覚では、思考による後処理の部分が非常に小さいために、感覚そのものが鋭敏だということです。

人間は、思考を思いっきり発達させると同時に、感覚の部分を退化させてきてしまったのかもしれません。目の前に、二つのリンゴと一つのミカンがあったら、きっと無自覚のうちに2対1に分類してしまうはずです。

あるがままを見るとは、個々の違いを認識するでもなく、同類を探すのでもなく、そのままにしておくということなのです。できるかどうか、試してみて下さい。非常に難しいということを実感できるはずです。

あるがままを見ることの難しさ

誰もがこの世界をあるがままに見ていると思っているのですが、それがそうでもないのです。それは私たちの知覚が二つの部分から成り立っているからです。

それは、外部の情報を取り込む部分と、その生(なま)の情報を後処理する部分です。後処理を担当するのが思考であり、その思考によって生の情報は相当に歪められているのです。

思考は、物事を分裂せずにはいられないのです。それが思考の特徴だからです。分裂を他の言葉で表現すれば、分類するということになります。

そして分類するということは、個々の情報を無視して同じものとみなすということが含まれるのです。例えば、10代の人と20代の人に分類すれば、10代の人同士の差異を無視することになるのです。

この手法によって、概念というものが出来上がるわけです。リンゴという概念は、ミカンとの違いは明確にしてくれるのですが、個々のリンゴ同士の違いは無視されるのです。

目の前にリンゴが一つあれば、それをリンゴと認識すると同時に、それを手に持ったときの質感、口に入れたときの風味や香りまで、~に違いないという予想が立ち上がってくるのです。

物事を予想することは、生きる上で便利だし、それだけ安心を得ることも可能であるため、そうした能力を人類は身に着けてきたのですね。

けれどもその一方で、都合のいいように見ることばかりが優先されて、今その瞬間にあるがままを真っすぐに見つめることができなくなってしまったのです。

長年連れ添ったパートナーに魅力を感じなくなったり、恋人に対して新鮮さを感じなくなったとしたら、こうした思考による後処理のせいなのです。

なるべく思考を緩めて、あるものをただ見ることができるなら、すべてが新鮮で生き生き感じられるはずなのです。そのときには、必ず意識的な状態でいられることになるのです。

愛は求めない!

誰もが愛を求めているはずなのに、残念ながら本当に求めているのは安心なのです。求めているという時点で、それは欲望であり、期待なのですから。必要とされるのも同じこと。

例えば、恋人が自分を求めていると知ることは嬉しいことですね。会いたいと言われれば、それだけで気持ちが明るくなったりするかもしれません。

あなたが必要だと言われれば、それが相手からの愛だと感じるからなのですが、実は求められて安心しているだけだということです。

もともと、安心したいという気持ちの裏には、不安があるのです。そして、自分を求めている相手も同様にして、あなたを手に入れて安心しようとしているだけなのです。

結局、あなたを求めている相手も安心したいだけだし、求められて嬉しいあなたも安心したいだけなのです。そこには、どちらにも愛はありません。

愛は安心とはまったくもって無縁のもの。愛の特徴は、自分が不安なのか安心なのかに無頓着です。だからこそ、愛に何かを求めるという要素は皆無なのです。

安心を求めるあらゆる自己防衛から離れていかない限り、愛が表舞台に顕われることはありません。その代わりに、愛という名前の別のものが横行することになるのです。

それが、エゴの愛です。それは欲望であり、期待であり、原動力は不安や恐怖なのですが、これがなければどんなドラマも成立しませんね。

ドラマチックな人生には魅力がありますが、そこに愛を見出すことは難しいでしょうね。けれども、人は沢山のドラマを生きて傷つき、初めて愛に向かう準備ができるのかもしれません。