物事をそのままにしておく

もしも身近な人たちとの人間関係が、どうにもこうにもうまく行ってなくて、複雑に絡み合ってしまっていて、改善する術も全く見つからないとしたら、一体どこから手をつけたらいいでしょうか?

まずはっきりさせる必要があることは、関係性に問題があるのは自分が自己防衛を過度に行っているからに違いありません。

周りの誰のせいでもなく、ただただ自らの防衛が原因なのだと気づくことです。うまく行かないことを、他の誰かのせいにするのなら、間違いなく改善はできないと思って下さい。

救いの神は自分以外にないということを明確にすることです。なぜなら、他の誰のものでもない、自分の人生なのですから。

防衛は物事を常に複雑にしてしまうのです。結局、うまく行かないことに対して、どうしたらいいのか?と思うこと自体も防衛なのです。

「物事をそのままにしておく」ということを体験することです。問題があれば対処しようとしてしまうのですが、これが防衛を助長してしまうのです。

対処しないのですから、改善しようともしないということ。自分以外の誰のことも考えることをやめて、ただ自分を観ることに徹するのです。

そうやって、防衛を小さくしていくことができたなら、物事は一人でにほぐれてきてくれるはずなのです。余分な手出しをすれば、逆に更にそこから込み入った事態がやってくるのですから。

感情がやってきても、対処せずにそのままにしておけば、自動的にそれを味わうことになるのです。この世界には自分しかいないと思うくらいに、徹底して自分だけに意識を向けるのです。

実践あるのみです!

どこにでもある防衛に気づく

 

モ○○リングというバラエティ番組の中で、もしも義母(奥様のお母さま)が作った手料理が激マズだったら、ご主人はどう反応するか?という内容のドッキリをやっていました。

義母が腕によりをかけて作ったという手料理が、ものすごく酸っぱかったり、あり得ないくらいに苦かったりするのを正直に言うかどうかというのを見るわけです。

義理の母だということで、遠慮するはずのご主人が、義母を悲しませると知りつつ本当のことが言えるのか、それともウソのコメントを言って喜ばそうとするのか。

結果は見事にウソをつき通そうとしたのです。普通だったら、絶対に吐き出すと思われるくらいにマズイ料理なのに、無理やり飲み込んで、おかわりまでしようとして…。

勿論、最後にはネタばらしをするのですが、そのときに義母の人が言った一言が本当だろうかと疑ってしまうものでした。

それは、「私が作った料理だから、ウソでも美味しいと言ってくれて、嬉しい!」というような内容だったのです。これって、本当だろうかと疑ってしまいますね。

人間て、ウソと分かっていても、自分にとって都合のいいことを言ってもらいたいということなのか?それとも、自分のために相手が気を使って我慢までしてくれたことを喜んでいるのか?

そして、ご主人がウソをつく本当の理由は、優しさではなくて防衛だということを気付かないのだろうかと思ってしまうのです。

どんな防衛かというと、相手をいやな気持にさせてしまい、罪悪感が来ることを避けるという防衛なのです。自分さえ我慢しておけば、丸く収まるというものです。誰もが経験してるはずですね。

この防衛は、「可哀想に負ける」と呼んでいるのですが、これが度重なることで自己犠牲を積むことになるのです。きっとごく普通の家庭の風景なのですが、ご主人も義母もどちらも自己防衛が止まらないのです。

このような人間関係を続けていけば、いつかは一緒にいたくないという結果がやってくるのです。決して、親しい関係を築くことはできなくなるはずです。

日常のどこにでも潜んでいる防衛に気づくことが、大切なことなのですね。

自分を維持するのをやめる…

個人にまとまろうとする事をやめてみる

信頼する自分などいない

中心のない雲のようなイメージ

自分であることを維持するのをやめる

過去の体験を思い出そうとすると個人になる

未来のことを思い描いても個人になる

まとまらずにいられるのは今この瞬間だけ

理由のないものこそホンモノ

もうすぐ夜11時になろうとしている時間なのですが、暗いバルコニーに出てきて、このブログを書いています。虫の音が思いの外近くに聞こえるのです。

秋がそこまでやってきている感じがしますが、それでもまだ蒸し暑さも十分に残っていて、だから涼風がとても気持ちいいですね。

いつも適度の明るさの設定になっているはずのパソコンの画面が、非常に明るく感じてしまい、慌てて輝度を低くしてみたものの、それでもまだ少し明るすぎる感じがします。

勿論周りが暗いからなのですが、当然のことながらこの世界というのはすべてが相対的なものだということを改めて思い知らされました。

幸福度というものも、比較することで感じることができるのです。生まれたときから、蛇口をひねったら飲み水が出て来てくれる生活をしていれば、それを幸福とは感じません。

でも一度でも、断水になった経験をしていれば、そのときの経験と比較することで、幸福度を測ることはできるのです。比較しなければ、当たり前の状態にまた戻るだけですね。

すべてが相対的なもので埋め尽くされていると思っていたのに、もしも思考が止まってあらゆる比較が消えてしまったとき、何が残るのか?

明らかに幸福感は消えてしまうのですが、そこに残るものこそ永続的な至福感なのです。幸福に理由や原因があるのは、比較がベースにあるからです。

至福にはどんな理由も原因もありません。だからこそ、永続的なものなのです。真実には、最初の最初からどんな理由も原因もないのです。それが、ホンモノの証なのでしょうね。

継続しなくなった自分を感じてみる

癒しを始めて何年か経った時に、今の自分は昨日までの自分と違ってしまったと感じた瞬間があったのです。人生がスタートしてからずっと変わりなくいた自分のはずなのに。

私はそれなりに自分のことを信頼していました。ある程度の理性をいつも持っているし、訳が分からなくなったこともないし、それほど間違ったこともしないだろうと。

そういった自分への評価というものが、急に色あせてしまったような、もうそんな評価は通用しなくなってしまったかのように感じたのです。

ところが、それはこれから先自分はどうなってしまうのだろうという不安が来る代わりに、何かすごく解放されたような清々しい感じすら携えていたのです。

自分で自分を信頼する必要すらない、もっと根本からの自由な気持ちがやってきたのだと思うのです。昨日までの自分とは、確実に一線を画すことになったと感じたのです。

この感覚は今も続いていて、それはきっとずっと続けてきた自己防衛が、もう自分の生き方の中の主要なものではなくなったということなのだろうと。

本当は、自分という存在が継続している必要もないのだということ。そういうことに気が付くと、それまでの信頼が物凄く表面的なものでしかなかったと分かるのです。

今やってきている信頼感は、自分という個人へのものではなく、もっと本質的な「存在」に対してのものへと変わったように感じています。

敢えて言えば、誰でもない自分とそれを見ている自分、更にそれを見ている根っこの自分の存在をも感じているのです。人生は継続しているようにみえて、実は瞬間瞬間のものなのですね。

マインドの奥の静寂に気付く

夏の風物詩の一つとして、あの冷たくて美味しい「かき氷」がありますね。子供のころは、学校から帰ってきて、すぐにかき氷を作って食べていたのを思い出します。

家庭でかき氷を作る機械は、今でもあるのでしょうか?ジャリジャリと取っ手を回しながら、氷を削っていくのですが、その削り方を荒くしたり、細かくしたりを調整する機能がありましたね。

氷を削る刃の部分を出したりひっこめたりして調整するだけなのですが、そんなことをいろいろ試しながら、食べるのも楽しみの一つでした。細かくすれば、氷を口に入れた瞬間に溶けるのです。

私たちのエネルギーも、同じように例えることができるのです。エネルギーを波としてみれば、その振動数(波動)の高低があります。

一方で、エネルギーの粒子としての面に注目すれば、荒い粒子だったり細かい粒子だったりするのです。私が偶然体験した「自分の不在」のときには、まさしく粒子が驚くほど細かったのです。

それはまるで、パウダーのようなしなやかさ、粒子なのにその粒を感じることができないくらいに細かな感じがしたのです。

自分がいるという思考の中では、エネルギーは荒い粒子のようであり、その思考が一時的であれ停止してしまうと、粒子とは思えないくらいの緻密なエネルギーになるのです。

だとしたら、エゴが大きければそれだけエネルギーの波動は低下し、粒子は荒くなるということですね。エゴが大音量の音楽だとすると、エゴの不在は静寂ということになるのです。

マインドはいつも騒々しくて、それがかつて静寂だったことがあるというのを信じられないくらいです。けれども、いつもマインドをジッと見ていれば、必ずやそこに静寂さがなくならずにあるということに気づくはずです。

この世界であなたが何をしようと、あなたのマインドが静寂を取り戻し、パウダーのようなエネルギーにならなければ、意味はないのです。

自分を笑える人になれ

人生を重苦しく感じながら生きている人がいれば、その反対に気楽な気持ちで生きている人もいます。気楽な人の特徴は、過去や未来にあまり関わらないということ。

過去を悔やんでみたり、未来を憂いてばかりしていれば、必ず気楽ではいられなくなってしまうのです。思考が活動できるターゲットは、過去と未来だけなのです。

考えて考えて、堂々巡りをすればするほど、重苦しさがやってきます。そうして、深刻さの虜になってしまうのです。気楽さとは深刻さとは無縁です。

お気楽に生きている人に対して、いい加減過ぎると否定する人もいますが、そういう人に限って、深刻に考え事をしていればそれだけ真剣に生きていると勘違いしているのです。

真剣さとは、深刻であることと何の関係もありませんし、かえって気楽な状態である方が、不純物を含まずに真剣に向き合うことができるのです。

真剣さとは全一であるということ。そして、マインドと同化すればするほど、深刻さは増すことになるのです。マインドは、他人のことを笑うことはできても、自分を笑うことはできません。

深刻さが邪魔をするからですね。逆に、マインドとの同化が薄れてくれば、つまりマインドとの距離を感じることができればそれだけ、自分を笑えるようになるのです。

自分のマインドの浅はかさ、深刻ぶっているバカバカしさに気付くとき、きっと大笑いすることになるはずです。

すべてを「存在」に一任する

私たちは誰もが、物事はこうあるべき!というのを持っていますが、それが未来というものなのです。それは、願望とか欲求という形となって、マインドを占領するのです。

そういったものを達成してマインドを満たそうとするときに、自分さえ頑張ればある程度は達成できるものと、そうでないものとがありますね。

例えば、毎日30分のストレッチをやると決めて、それを頑張って励行することは、基本的には自分だけの努力で何とかやり遂げることができます。

けれども、元々が自分独りでは達成できないもの、例えば仕事で言えば、大勢で進めるプロジェクトだったり、プライベートであれば恋愛などは、相手次第というところが多分にあるのです。

自分がどれだけ努力したところで、願望を達成できるとは限らないのです。その時に、人は初めて挫折することになって、願望や欲求が大きければそれだけ挫折も大きいと知るのです。

大人になってからの挫折もそれなりに苦しいですが、幼い頃の絶望ほど大きく傷つくことはありません。どれほど頑張っても期待しないこと、惨めなことが起きてしまう。

それに対して、自分は何もできないという無力感が、その幼い子供のマインドを激しく切りつけるのです。その結果、二度と傷つきたくないとして、もっと頑張る人生を生きることになるのです。

子供の頃にそうしてしまうのは無理もないことです。けれども、成長していくにつれて、願望や欲求を持つこと、そのものが自分を苦しめることになると気づく必要があるのです。

自分とは、他人とは、物事とはこうあるべき!という根深い期待を脇に置いて、すべてを「存在」に一任してしまうのです。実際、私たちは単なる「存在」の媒体に過ぎないのですから。

全体が私たちを通して存在しているということの気づきは、肩の力が抜けて人生をもっと容易なものにしてくれるはずですね。

喜びには三つの側面がある

 

私たちにとって、最も手軽でいつでも手に入る喜びは、「快感」です。快感という喜びは、身体に特化したものであるため、身体を主体に生きている人ほど、快感を求める傾向が強くなるのです。

一方、マインドに特化した喜びのことを、「幸福」と呼ぶのです。誰もが幸福を求めているはずなのにも拘わらず、手に入らないとしたら、それはマインドは身体ほど単純ではないからです。

マインドは常に思考によって活動しているため、その思考がこれこそが幸福なのだと認めなければならないからです。身体には思考がないため、どんな理屈もなしに快感を味わえるのです。

マインドは、自分が欲しいと思っていたものが手に入れば、幸福度をアップすることができるため、幸福の基準は人によって異なるのですね。

この身体とマインドの喜びについては、誰もが例外なく求めて止まないものですが、この二つとは全く一線を画した別次元の喜びもあるのです。

それは、「至福」と呼ぶべき喜びであり、この喜びは身体のものでもマインドのものでもありません。それは、私たちの本質がありのままに持っている特性なのです。

したがって、どれほどマインドを駆使したところで、至福を手に入れることはできません。逆に、マインドの活動が非常に小さくなったときに、それは自ずとやってくるものなのです。

そして、当然そこには思考がないために、至福は永続的なものであり、またどんな理由も必要ないのです。至福には快感や幸福にあるような興奮もまったくありません。

それは沈黙の中、自分はもともとそれだったと気付くことなのです。決して外側から手に入れるようなものではないということですね。

あなたは三つの喜びのどれを求めているのでしょうか?快感であれば、今すぐにでも手に入るし、幸福であれば、心の癒しを進めていくことです。

そして、至福を求めるのでしたら、逆説的ですが求めることから離れていくことです。求めれば、エゴと思考を強化してしまうからですね。

エゴの非存在性

恐怖や不安、怒りや悲しみといったいわゆる否定的な感情というのは、エネルギーを必要とするのです。だから、そういう感情が発生すれば、人は消耗してしまうのです。

一方、あらゆる肯定的な感情というのは、その逆にエネルギーを発電することができるのです。だから、人は決して消耗しないし、より元気になって溌剌としてくるのです。

惨めで悲しくて、否定的な気持ちがやってくると、逆にエゴは力をつけてきます。表現を変えれば、「私」というエゴの存在がよりはっきりするのです。

だからこそ、エゴは自分をしあわせにはさせないようにするのです。エゴは常にしあわせになりたいと願っているのですが、その奥では決してしあわせなど望んでいないのです。

もしもあなたが満たされていたら、歓びあふれているなら、そのときには決してエゴを感じることはできないのです。その瞬間、エゴは休眠するしかないからです。

このことを深く理解することです。「私」というエゴは、あなたをしあわせにはしたくない!ということから目を背けずに、理解を深めていくことです。

エゴは悪者ではなく、単に存在しないということです。だからこそ、本当に満ち足りたら、その非存在性に気付いてしまうということです。

エゴはそれをもっとも恐れているのです。だから、エゴはあなたを憂鬱にさせたり、深刻にさせてエネルギーを奪い、消耗させるのです。そのとき、エゴは偽物の存在感を最大にすることができるということ。

今この瞬間、エゴに協力したくないと決意するなら、すぐにでも気持ちを明るくして、肯定的な気分にすることです。それは間違いなく、できることです。実践してみて下さいね。