自己探究をするのはエゴではない

人はどのくらいの割合で探究を始めるのでしょうか?何パーセントの人が自己探究に興味を持つのでしょうか?探究のきっかけは、きっと人生に困ったからなのでしょう。

大して困らなければ、そのままでずっと生きていけばいいのですから、面倒くさい自己探究などにエネルギーを向けるはずもないのです。

自己探究とは、探究者を探究するということですが、その探究者とは個人としての「私」というエゴのことです。エゴがエゴの本質(それがあれば)を見出そうとするわけです。

そしていずれは、エゴは架空のものであり「私」は存在しなかったと気づくという筋書きなのですね。けれども、探究を始めたエゴがそれ自体の不在に気づくことが本当にできるでしょうか?

それは絶対に不可能なことですね。ということは、探究を始めたのは本当はエゴではなく、私たちの本質こそが探究を続けたと考えた方がいいようです。

それなら辻褄が合うのです。そしてそれ自体がその本質に気づいた時点で探究は終わるというわけです。それ自体がこの現象界を見まわして、そのすべてがそれ自体だと気づくのです。

そうやって、このお遊びは終焉を迎えるのです。私たち人間は、そんなお遊びにちょうどいい道具として使われているのだと思えるのです。

だからどんな罪悪感も、どんな達成感もお門違いなのです。