意識は広大無辺

自分の内側の奥深くに、想像を絶するような何かがあるのを感じるときがあります。それは個人としての私とは途方もなく違うものです。

もしも幼い頃からずっと厚い雲で覆われたどんよりとした空しか知らなければ、当然それを空だと思い込むわけです。

けれども、それはただの雲を見ているわけで、実はその後ろ側に雲とは全く似ても似つかない広大無辺の青空が広がっているのです。

そのことと似ているように思いますね。広大無辺というところは、なぜか非常に似ているように感じます。

それをいつも全体性と呼んだりして、その言葉から何となくのニュアンスを感じ取ってもらいたいと願っているのですが、所詮は言葉なので難しいです。

それでも雲で覆われた空と広大無辺の青空という比喩を使うと、あの感覚に近いように思います。

雲は思考を意味し、青空が意識(全体性)を意味すると考えればいいのですが、そもそも思考と意識の違いが曖昧な人が大勢いるのです。

そりゃそうですよね、こんなことをつらつら考える必要など日常生活ではまったくないのですから。

それでも伝え続けていきたいと思うのは、人はきっといつかはそこを通過することになるはずと感じているからです。

自分という一人称が思考(自我)から意識へと向かうとき、あらゆる二元性が消えてそこにあるのは至福だけとなり、生も死もない非二元が顕れるのでしょうね。

自我はなりすまし犯

端的に表現するならば、個人という私は思考によって出来ているのですが、本当の私は意識だということです。

もしもあなたが瞑想を苦手とするなら、それは思考によってでっち上げられた偽物の私が、本当の私に自分を明け渡すのを嫌がっているということです。

嘘をついている人はどこかソワソワしがちですが、本当のことを言っている人はドシっとして落ち着いていますね。

あれと似たようなことがあるかもしれません。偽物は嘘がバレるのが怖いのです。思考の私、つまり自我がバレるのを怖がっているとしたら、自分が偽物だということにどこかで気付いているということになります。

だから瞑想を嫌うのです。何にも従事することなく、ただ静かに座していることが難しいのは、自分が本当はいないということがバレるからです。

自分が思考(空想)の産物だとしたら、あなたならどうしますか?私は、恐怖を感じるとともにどこか救われる思いもあるのです。

ダメな自分、罪深い自分、いつか死ぬことになる自分が実在しないとなったら、それはホッとするしかありません。

自我の死は肉体の死とは関係ありませんが、大抵は肉体の死とともに自我を形作っていた思考エネルギーが分解してしまうでしょう。

そしてまたすぐに自我が抱え込んでいた惨めさのエネルギーが、次は惨めにはなるまいとして新たな子宮の中へと入っていくのですね。

普通の毎日が嬉しい

毎日午前中はほぼスポーツクラブで筋トレしたり、サウナで汗を流したりしているのですが、ちょっとした話しをするのはどうしてもサウナの中ということになりますね。

暑いし、汗だくでただ黙って座っているよりも、隣の人と話しをしてる方がはるかに気が紛れて好都合なのです。

といっても、大抵はどうでもいいよもやま話ばかりなのですが、つい先日とある人生の先輩といつものようにサウナ話しをしていたときのこと。

その方がおっしゃるには、100歳まで生きないと勿体ないと思っているらしく、明確に100歳を超えたら潔く死ねるのだと。

きっと私とは真逆の人生を生きて来られたのだろうなあと思いつつ、正直者の私は、自分はもしも今日死ぬことになっても勿体ないとは思わないと伝えたのです。

じゃあ毎日が充実しているかというと決してそんなこともなく、ただごく普通のことが嬉しかったりして、相変わらずイベント嫌いなので平凡な毎日が好きなのです。

今の時期だととにかく街の紅葉が綺麗過ぎて、運転中に惚れ惚れと見入ってしまうのです。毎年同じように感じているはずなのですが、その色づく姿に魅せられる程度が少しずつ上がってきているような。

ってことはとにかく人生の終盤に差し掛かってきているということなんでしょうかね?老後が少しずつ始まってきて、歩けなくなることだけは避けたいと思う最近なのです。

紹介制度

自我の一般的な計算方法というのは足し算と引き算を使うのですが、それは大抵が与えた側は与えた分だけ持ち分が引かれ、貰った側は貰った分だけ持ち分が足されるというもの。

誰かが得をしたら、その分誰かが損をするというような計算をするのです。そしてトータルではプラスマイナスゼロになるというわけです。

けれども少し工夫をすると、誰もが得をする方法というのもあると気づきます。損をする人がいないのですから理想的です。

何かビジネスをする場合であっても、関係者の誰にも旨味があるようにデザインすることができれば、そのビジネスは上手く行くことになるはずですね。

というようなことをちょっと考えていたら、私の仕事にもそのデザインを適用する簡単なやり方があるなと思ったのです。

それは、紹介制度のようなもの。あるクライアントさんに、他の誰かを紹介していただき、その方が実際にセッションを受けられたときに、そのクライアントさんに何らかの特典を付与するというデザインです。

クライアントさんは特典を入手できるし、紹介された方は実際に癒しのチャンスを手に入れることができるし、私はビジネスとしてクライアントさんを増やすことができます。

三者が三様に利益を得られるということですね。その制度を始めたからといって、それが活用されなくてもそれはそれで問題なし。

このデザインにはリスクのようなものも見当たらないのです。というわけで、来年から始めてみようと思っています。

たとえばこんな感じ:

『既存のクライアントさんに他の誰かに対してルシッドのことを紹介していただき、紹介された方が実際にセッションを受けられた場合、そこから一ヶ月程度の間に紹介者であるクライアントさんがセッションを受けた場合、一度に限りセッション費用を◯◯円割引きします。』

正式に決まったら、再度このブログで記事にするつもりですし、ホームページ上にも掲載させていただきます。

勇気よりも環境

昨日のブログで、石橋を叩いて渡る人よりも、叩かずに勇気を持って誰よりも先んじて渡る人の方が、得をするという話しをしました。

じゃあ不安が強くて勇気があまりない人よりも、勇気をたくさん使える人の方が有利だということになりますね。

けれども、実はそこには一つ秘密があるのです。それは個人個人の違いというよりも、環境の違いが大きいということです。

たとえば私自身のことで言うと、45歳でサラリーマンを辞める以前にも数回の転職をしたことがあるのですが、来週の月曜日から新しい職場に行くという直前の金曜日まで古巣で仕事をしていました。

つまり、脱サラして収入が途絶えることが怖かったのでしょうね。だからこそ転職を繰り返したのです。勇気なんてものは持ち合わせていませんでした。

それならサラリーマンを辞めるときには勇気を使ったのかというと、それも違うのです。ただ単に追い詰められていたからなのだと思うのです。

それまで通りサラリーマンとして仕事を続けるとしたら、死ぬかもしれないという切羽詰まった気持ちがあったので、自然と辞められたのです。

結局、勇気があるとかないとかというよりも、そのままだったら病気で死んじゃいますよという追い込まれた状況が、脱サラの原動力だったということ。

勇気があればそれに越したことはないのですが、それよりも環境が大きな影響力を持っているということです。

それまでは、やや石橋を叩いて渡る方の人間だったのですが、追い詰められたことによってものすごいスピードで橋を渡ることができたのだと思います。

だから勇気なんかよりも、追い詰められる環境の方が大切なんですね。

石橋を壊す人、造る人

昔から「石橋を叩いて渡る」という言葉がありますが、これは頑丈な石橋なのに不安が強くて叩いて壊れないか確認しないと渡れない人がいるということです。

いつもこのブログで繰り返しお伝えしている通り、不安が大きいと自己防衛によってそれを少しでも安心に変えようと頑張るのです。

それは様々な弊害があるのです。たとえばすぐにでもしたいことなのに、怖くてなかなか前へ進めないとか、そのために人に先を越されてしまうなど。

最も世の中で損をしてしまう人、つまり最も防衛が強い人は、石橋を渡ろうとして叩き過ぎて壊してしまい、結局渡ることができなくなってしまった人です。

その次に損をしてしまう人は、かなり防衛が強い人で、渡る前に何度も叩いて渡るまでの時間を大幅にロスする人。叩いている間に、他の人に先を越されてしまうのです。

その次は損をするよりも得する人、防衛が小さい人ですが、叩いている時間がもったいないと勇気を持って誰よりも先に石橋を渡ってしまう人。

こういう人は、結局人に先んじて行動できるので、その分有利な結果を手に入れる可能性が高くなるというわけです。

そして最後になるのですが、誰よりも得する人、それはみんなが渡る石橋を建造する人ですね。一度造ってしまえば、誰もが使ってくれるので美味しいところを享受できるのです。

ただ他の誰もやってないことなので、かなりのリスクを覚悟しなければなりません。だって、ただ渡るのと橋そのものを造るのとでは比べ物にならないくらいに初期投資が大変だからです。

このお話しからも分かるように、私たちはどれだけ防衛によって人生を妨害されてしまうのかということです。

防衛を優先するのか、勇気を優先するのか、結果は明らかですね。

気づくための二つの方法

本質的には、この生にどんな目的も意味もありません。到達すべき目的地などないということです。あるのは、ただそれに気づくことだけ。

気づくのに大きくは二通りの方法があるように思っています。その一つは、とことん生きること。

それが何であれとことんやり尽くすことです。幼い無邪気な子供がやるように、笑うにしても怒るにしても、泣くにしても徹底的にやるのです。

仕事でも遊びでもどんなことでも、限界までやったので後はもうどうでもいいというところまでいくと、自我は自然と次の目的を持つことができなくなるのです。

この方法が失敗しないためには、やりたいことをやるということに徹することです。そこに防衛による自己犠牲があっては、やり尽くすことができなくなるからです。

そして気づくためのもう一つの方法は、この生に絶望することです。それも徹底的に絶望して、未来の望みや期待を持てない状態になることです。

人が本当に諦め切ったとき、自我は自然と落ちていくことになるのでしょうね。どちらを選ぶかはあなたの自由だし、今回は選ばなくてもいつかはどちらかの道を行くことになると思います。

二元性を生きる覚悟

この世界は二元性と言われる法則で成り立っているのです。その二元性というのがどこからやってくるのかというと、もちろんそれは思考によるのです。

私たちの思考がこの世界を作り上げているために、世界が二元性の性質を持っていると言ったほうが正しいかもしれません。

だからもしもあなたが思考抜きにこの世界をただ見ることができるなら、二元性は消えてしまうのです。

とはいうものの、個人として生きている限りは自我という思考が活躍するので、二元性の中で生きることになるのです。

となると、当然覚悟が必要なのです。どんな覚悟かというと、表が単独で存在することができずに裏がくっついてくるように、あらゆるものがペアである覚悟。

彼のことが好きであるなら、嫌いがくっついていることを知ることです。その覚悟ができていないと、好きだった彼のことを嫌いと思う瞬間にショックを受けるでしょう。

快楽を求めれば、不快がくっついてくるのです。どちらか一方だけを享受するということが不可能だという覚悟。

幸せを求めるなら、不幸がくっついてくるのです。もちろん短期でみると、どちらか一方だけに見える時があるのですが、時間とともに移行するのです。

褒められたらけなされるがもれなく付いてくることを忘れないということです。その覚悟ができていると、この世界を生きることが容易になるはずです。

そして最終的にこの二元性に飽きてきたら、あるがままの実相の世界、つまり非二元に意識が向くようになるかもしれません。

純粋な愛とか信頼というのは、ペアとなる相棒がないので非二元の領域だということですね。ついでに私たちの本質も非二元です。

子供は刹那的に生きる

子供の頃というのは、当然のことですが大人と比べて行動範囲が狭いですね。独りで電車に乗れるようになるにも時間がかかります。

そして行動範囲という空間の狭さだけではなくて、時間に関しても狭いのです。どういうことかというと、遠い過去とか遠い未来というものを持っていないのです。

だから人生というレベルで自分や人のことを考えることができません。幸せな人生とか不幸な人生の代わりに、今安心か不安かというところで生きてるわけです。

つまり子供は刹那的な時間を生きているのです。自我が未熟であるが故のことなのですが、そのために人の期待に応えることで相手を助けられると感じるのです。

大切な両親が不仲であれば、何とかして仲裁に入ったり両親の機嫌がよくなるように考えて行動したりするのです。

残念ながら、そういった健気な努力が役立つことはほぼありません。子供がどう頑張ったところで、不仲な両親の人生に影響はしないということです。

一方で、自我の成長と共に時空が広がるようになってくると、人生レベルで物事を見ることができるようになるのです。

そうなると、手助けしたところで、あくまでもそれは一過性のものであって相手の人生がそれで幸せになるわけではないと分かるようになるのです。

もしもあなたが、自分の努力次第で相手の人生を幸せなものにできると信じているなら、あなたの自我はまだ幼いままだと理解することですね。

思考はワルモノじゃない

一般的に思考が良くないものだと思っている人は少ないと思います。なぜなら、考えることで人間として生きていられると知っているからです。

考えなければ仕事もできないし、人と話し合うこともできません。こうして文章を書くのだって、思考が大活躍しているのです。

その一方で心配事が頭から離れなくて、同じことをグルグル考えてしまうこともありますね。そんな時は、思考を止めたいと思うものです。

また人を恨んだり、嫉妬をしてみたり、裏切ったり、嘘をついたりというのも全部思考があるために起こるわけです。

更に言えば、このブログの読者であれば常日頃から思考が物語を作っていると言われてるし、マインドは思考でできているとも言われているのです。

瞑想が良いですよと勧められたら、思考は邪魔なものだと感じてしまっても不思議ではないでしょうね。

思考が落ちて、純粋無垢な幼子のような心持ちで生きられたらいいのにと思えば、やはり思考はワルモノ扱いされてしまいそうです。

けれども、実は思考そのものには良いも悪いもありません。問題は何かと言うと、思考が作った物語の人物と化してしまうこと。

思考に飲み込まれて、真実から遠ざかってしまうことこそが大問題なのです。なぜなら私たちの本質は真実の内にあるからです。

思考がやってくるのを見守り、過ぎ去っていくのも見守るのです。そうして思考による物語と同化せずにいられるなら、本質を見失うことはなくなるはずなのです。