あなたの中心奥深くには何もない

私たちは自分がどのように成長して今の自分になったのかを考えるとき、きっと多くの人がまず初めに自分が生まれたところからスタートするはずですね。

けれどもそれは間違いなのです。肉体が生まれた時には、まだ自分はいませんでした。それは確実です。

その後もしばらくは自分なんていないのです。誰もがまず真っ新な自分がいて、そこに親からの教えなどが注ぎ込まれると感じているのです。

何度も言いますが、どこにも自分などいなかったのです。何もない空白は、真っ新な自分とは言えません。だって自分はそこにはいないのですから。

全く何もないところに、つまり肉体だけがあるところに周囲からあらゆる思考や感情のエネルギーがやってきて、それが張りぼてのように重なっていくのです。

張りぼての中心に自分がいたわけではないのです。その後ゆっくりと作られていく自分とは、まさにその張りぼてそのものなのです。

ここのところを多くの人が誤解しているのです。うまく表現できているかどうか分かりませんが、実際分かりづらいところですね。

その張りぼてが自己イメージなのですが、その自己イメージを参照しつつ、また親の自我を真似しつつ、自分という自我が形成されていくのです。

私という自我が作られていった時には、もうすでに張りぼてによる自己イメージもできているのです。そのくらい、一番初期の自己イメージは絶対的なものです。

今日の内容は、うまくお伝えできているか微妙なのですが、要するにあなたをどれほど剥いていったところで、その中心に「自分」というものはないということですね。

結果、残念ながら私たちが自分の拠り所にしている魂なんてものもないということになりますね。

自分の本質に気付く以外手はない

どうしたらより幸せになれるかとか、どのように考えたら人生がより良いものになるのか、これを知りたくない人はいないはずです。

望むものや人が手に入ったらそうなると思っている人もいるでしょうし、人生を達観することができたら満ち足りると思っている人もいます。

こうした事に対する私の個人的な意見なのですが、端的に言って自分の本質に気づいていくということに尽きると思っています。

この社会でどれほど活躍しようと、何を手に入れようと、どれほど恵まれた環境で生活しようと、自我の満足は続かないのです。

自分のことを自我だと思い込んでいる限り、多少の浮き沈みはあるかもしれませんが、本質的には何も変わらないのです。

じゃあ覚醒するしか手はないのかというと、それほど極端なことを考える必要はありません。

ただ自分の本質は自我ではないと気づいていくこと。日々の生活はこれまで通り自我の自分が生きていくでしょう。

それでも、それを見守る本当の自己があるという気づきがあれば、世の中の見え方が変わってくるのです。

この自分は誰でもなかったと分かれば、自我の自分が何かをしでかしたとしても、それほど動揺せずに済むようになるのです。

仮に動揺したとしても長くは続かなくなってくるのです。自我として生きている自分を見守る練習を是非少しずつしていって下さい。

どうしても自分のことを責めてしまう自我、自分を大切に思えない自我、全く価値がないと感じる自我、それらをそのままに見守る練習をすることですね。

変化はゆっくりとですが、確実にやってきます。1年後、5年後には違った景色を見ることができるようになるはずです。

怒りは単なる感情

もしも怒りというただの感情を自分にとっても周りの人にとっても、都合の悪いものだと思い込んでしまったら、その感情を抑圧しようとするでしょうね。

誰にとっても得をしない嫌な感情なんて、なかったことにして涼しい顔で生きていられたらいいなと思ってしまうのです。

幼い子供の時に安心が足りない環境で過ごしていたとしたら、そんな状態になっても何ら不思議なことはありません。

そうなると、その子は自分が怒っているのにそれとは知らずに生活することになるのです。表ではニコニコしながら、心の奥では怒りが煮えたぎっているのです。

そしてそんな生活が長く続くわけもなく、いずれは何らかの形でその怒りは噴出することになるのです。

ところが、怒りは悪いものだと思っているので、それを思考でコーティングしてしまうために、それは歪んで憎しみのような状態で保存されるのです。

憎しみや仕返し、呪う気持ちなどはどれほど味わおうと、思考が絡みついているので、その感情はそう簡単には消えていかないのです。

なぜならその思考が更なる感情を作り出してしまうからです。そうなるともうエンドレスです。

怒りはただの感情であり、良いも悪いもないということをしっかりと理解することです。その上で、できるだけ思考を絡めずにそれを味わってあげるのです。

怒りをただ怒りとして感じることができた時には、必ず清々しさがやってくるので、それを楽しみに怒りと向き合ってみることですね。

期待があなたを苦しめる

もしもあなたが何かしらの嫌な思いをすることがあるとしたら、それはあなたがあらかじめ持っていた期待が裏切られたからなのです。

期待というのは、それを意識できている場合もあるし、無意識的な場合もあるので、本人は意外にも分かりづらかったりするのです。

いずれにしても期待があれば、それに対する現実との落差が生まれた時に、思考は「惨め」という烙印を押すのです。

それが冒頭の嫌な思いを生み出すわけですね。自分が惨めでしようがないと思うほど辛く苦しく悲しいことはありません。

それを感じなくさせるために怒りという感情を発生させることも多いのです。実際に怒りを感じた時に、ぜひこのことを検証して見てください。

必ずその怒りの下には、惨めさが隠されていることに気付かされるはずです。そしてその惨めさは、期待値が高ければ高いほど強くなるのです。

周囲に対していつも不満を持っていて、文句ばかり言って怒っている人は、何事につけても期待値が高いということを知ることです。

当の本人は、自分が不服を感じるのは周りのせいだと信じていますが、そのままだといつまでも不平不満ばかりの人生が続くことになるでしょうね。

あなたを不満たらしめているのは、あなたの期待のせいだということです。他人も含めて周囲に高い期待をしている人は、元をただせば自分自身への期待が大きのです。

その理由は自分のままではダメだという自己否定なのです。自己否定と惨めさから解放されたくて、自分への期待値を高くしてしまったのです。

その結果は単純に気持ちの良い清々しい人生からは遠ざかることになるのです。期待があなたを苦しめていることに、もうそろそろ気付くことですね。

マインドの風通し

マインドの仕組み、メカニズムは基本的なところでどれも同じなのですが、その生い立ちによって少しずつ違いがあるのです。

癒しという観点から見た場合、とても大きく影響する特徴があるのですが、それはマインドの風通しの良し悪しなのです。

マインドというのはある意味で一国一城の主のようなもので、外部からの侵入を防ぐ機能というものを持っています。

城の周りに深く掘ったお堀だったり、天守閣からの360度の見張りだったり。元々見晴らしの良い地形のところに立てたりするのも防衛のためですね。

私が先ほどマインドの風通しの良さと表現したのは、他人の言葉にしっかりと耳を傾けて、それを内部に入れ込む能力のことなのです。

従順さということもできるかもしれません。とにかく癒しは、これまでに培ってきた自分の正しさを一旦脇に置いて、外側からやってきた情報に耳を傾ける必要があるのです。

それは時にはとても勇気のいることかもしれません。自分の中にはなかった別の考え方、生き方、そういうものは本人にとっては非常に危うい感じがするだろうからです。

その危険を承知の上で、すぐにそれを裁くことをせずにただ受け入れて、実戦してみるということがとても大切なのです。

あなたのマインドは風通しがいいでしょうか?あまり気にしたことがないのであれば、一度注意して見てあげてもいいかもしれないですね。

健康な自立心とは?

人間の赤ちゃんほど、自分の足で立って歩けるまでに月日がかかる動物は他にないらしいですね。

それほど人間はその初期の段階では長らく依存的なのです。依存状態が長いことが必ずしも悪いということではありません。

その間にしっかりと親子の関係性を育めばいいのですから。焦らずに依存を楽しむことができた子だけがその後ゆっくりと自立の道を進むことになるのです。

ところがその反対に、依存状態の自分ではダメだという感覚を持ってしまうと、急いで自立しようとするあまりに、依存と自立が混在した歪(いびつ)なマインドになってしまうのです。

このようなマインドの状態になると、大人になって自立しているつもりでも依存部分がしっかり残ってしまっているので、自分としても不可解な言動をすることになるでしょう。

そしてその場合の自立とは、依存を否定することで突貫工事で作った自立なので、その先がないのです。

つまり相互依存という、より熟達した人間関係を築くことが難しくなってしまうのです。だから、人に頼ったり助けを乞うことが苦手になるのです。

自立が終着点だと思っているなら、その自立は依存の否定によって作られたものだと思って間違いありません。

自分の中にある自立心にしっかり目を向けて見てあげることですね。そこに戦いよりもゆとりを感じることができるなら、健康な自立心だと思っていいと思います。

尊敬できる大人がいない

小学3年生の頃、詳細は忘れましたが友達と3人でふざけていて先生に叱られて、教室の後ろに3人並んで立たされたことがありました。

その日の授業が全て終わっても先生からは帰ってよしの言葉がなかったので、3人はずっと立っていたのです。

先生は教壇で何か自分の仕事をしていて、一向にこちらに声をかけてくれる気配がなかったのです。

日も沈んで外が暗くなってきた頃、自分以外の2人が「謝っちゃおうぜ!」と言ってきたので、最初は意味がわからなかったのですが、自分一人置き去りになるのが怖くて、一緒に先生のところに行ってごめんなさい!をしたのです。

その時の先生の嬉しそうな顔がいかにも軽薄そうで、今でも忘れられません。自分のやり方で、やんちゃな男の子たちを改心させることができたとでも思ったのでしょうね。

自分はそれがとても不気味に感じたのです。そもそも謝りに行ったら帰してもらえるなんて、そんな発想がなかったのでそれも気持ち悪かったのです。

友達2人と先生はそんな契約をしていたのかなと疑ってしまうくらい、変な体験でした。

しかも、自分はこれっぽっちも反省などしておらず、そもそもそれほど悪いことをしたつもりもなかったので、立たせておきたいのなら立っててやろうじゃないかみたいな気持ちだったと思います。

しつけと称して自分の正しさを子供に押し付けて、屈服させてニンマリしている大人なんて、これっぽっちも尊敬などできるわけがありません。

そんなこんなで、大人というのは全く尊敬できるような存在ではないと思ってしまったようです。

こんな感じの小3の男の子が自分の中にしっかり今もいて、訳のわからない理屈を主張したり、正しさを押し付けてきたりする大人を軽蔑し続けています。

それが発動すると、自分こそもう大分いい年齢になってしまっているというのに、相変わらず大人は頭が悪いという気持ちでいっぱいになるのです。

自分の中に棲んでいる様々な過去の自分が活躍していると感じる時、なんだか面白いなと思ってしまうのは私だけでしょうか?

からっぽさに自由はついてくる

Osho の言葉ですが、「からっぽで自由で、そして自然でありなさい。それをあなたの生の最も根本的な原理にするといい。」というのがあります。

そんなことを言われなくても誰だって自由でいたいと思っているはずですね。けれども、マインドの中には自由よりも安心を強く求める部分もあるのです。

安心を求める=自己防衛をするということなので、その結果は不自由になってしまうので、自由でいたいのと安心したいのは実は真反対なのです。

そのどちらがどれだけ強いのかによって、その人の人生での生き方が決まるのです。

私は自由というのは獲得するものではなく、からっぽさにくっついてくるものだと思うのです。

からっぽであるとは、マインドの働きによって思考がギッシリと詰まった状態から、そこがスカスカになっているということです。

瞑想中だけでなく、普段の日常が瞑想状態のようになるということですね。そしてそれは自然であることにも繋がるのです。

ただし、ただからっぽなだけなら動物は大抵そんな状態で過ごしていることが多いのですが、残念ながら意識が眠っている状態なのです。

結局、からっぽで自由で自然であるとともに、十分に意識的であることも必要ということですね。

騙されたくなければ見守ること

何が起こったとしても、自我の反応に飲み込まれずにいられたら、それを見守ることができたら、それこそが意識的であるということです。

意識的であり続けると、あらゆる物事はやってきては過ぎ去っていくという事実に気づくことになるはずです。

それがこの自然界の法則だからです。もしもあなたの身に、ずっと起こり続けていることがあるなら、それは不自然だと判断することですね。

そしてその不自然さはあなたの協力なくしては起きるはずがないということ。この視点から自分に起こることを見てみることです。

自我というのは自分自身を騙す天才なのです。あらゆる手段を使って、自分にバレないように騙し続けるのです。

幸せになりたいと願いつつ、絶対にそこには到達できないように騙してみたり、健康になりたいと思っているのにずっと身体に痛みを起こしてみたり。

こんなことをたった一人の内部でやりくりしているのですから、まさに天才と言ってもいいと思っています。

もしも継続して起きることに悩まされているなら、その天才の手口を暴く必要があるということです。

そのためには、自分自身に対して常に意識的であるようにすること。いつも見守ることができるなら、どんな天才でもいつかは見破られる時が来るということですね、

既成の答えを持ち歩かない

クライアントさんとの日々のセッションに際して、気がついたらやっていたことがあるのですが、それはできるだけ白紙の状態で臨むということです。

かつては、セッション前の15分程度は必ず瞑想をしていたものです。自分の中にある既成概念とか、つい使いたくなるパターンなどを忘れるためです。

今ではもうわざわざ時間を作ってセッション前に瞑想をするということはほどんどないのですが、変わらないのはどんなセッションになるのかという予想は一切しないということ。

というよりも予想などしたところで、その通りにセッションが進んだことなど一度もないのです。

あまりに白紙にしてしまうと、せっかくそれまでにクライアントさんからお聞きしている情報すら忘れてしまうので、その辺の加減はとても難しいのですが…。

ですのでたまには、そんなことも忘れてしまったのですか?と呆れられてしまうこともあるのですが、基本は初めてお会いしたようなつもりで臨んでいるということです。

こうしたことは人生そのものにも当てはまることで、自分の中にある決まり切った正しさとか考え方、ある種の結論のようなものを持っている状態で生きようとするのは、自我の特徴なのです。

自我は安心したいという特性を持っているので、未来を決めておきたいのですね。こういう質問をされたら、こう答えようとあらかじめ用意しておいたりするのです。

このような生き方は、無意識的にならざるを得ないのです。これは自我の天国であって、本当のあなたは死んでしまっているようなものです。

できる限り意識的であるようにすることで、瞬間瞬間に応答する生き方が身についてきます。答えはその時になって見ないと分からない。

それでいいのです。準備はするけれど、その準備通りになどならなくても構わないのです。この生き方ができれば、自我は自然と落ちていくことになるでしょうね。