不思議体験 その3

先日あることが実現してしまいました。実はそれは普通に考えたらまず実現しないだろうと思えるようなことであったのですが、ただどういうわけか、何となく心のどこかでそういうイメージが思い浮かぶということがあったのです。

そのことは、自分にとっては別に嬉しいということでもなく、さりとていやなことでもないのですが、まあどちらかと言うといい事なのかなというくらいの事なのですが、それにしても不思議です。

短絡的に、自分に予知能力があるとも全く思えないのですが、しかし結果として起きてしまったという事実があって、そのことを真摯に受け止めてみるとそこには何かが働いているのかもしれないという気がしてきます。

「奇跡のコース」では時間は幻想であると言い切っていますし、いろいろな経験やら気づきやらで自分も確かにそうに違いないと思えるようになってきました。

時間は過去から未来へ一直線に進んで行くものという幻想を取り除いてみると、すべての事象というのは瞬間的に同時に起きていると考えることができます。

それは、過去も未来もなくこの今という瞬間がすべてだという感覚に通じるものですね。そして、だからこそ未来予知などということではなく、本来今をただ分かるということなのではないかと思います。

以前、ダスティンホフマンが演じて確か主演男優賞を受賞した映画でレインマンというのがありました。その中で彼が演じた自閉症の人は、マッチ箱からばら撒かれたマッチ棒が全部で何本かを瞬時に当ててみたりして周りを驚かせるというシーンがありました。

私の勝手な解釈ですが、その人はエゴの発達障害によってこの世界では自立できない人生を送っているのですが、その分エゴとは対照的な愛の部分との結びつきが強いために、そういった特殊な能力を持っているのだと思うのです。

その心の部分を「コース」ではハイアーマインドとか聖霊などと呼びますが、その部分はきっとすべてを知覚するのではなく、ただ知っているのではないかと思います。

そして、きっとその部分は時間という幻想にも縛られていないため、たまにそこからの情報をゲットすると、あたかも未来予知ができるようなことが起きるのではないかと思っています。

結論から言うと、自分の心の半分であるハイアーマインドの部分は、我々人間の常識からするとスーパー超能力者であるということです。その部分とできる限り繋がるようにして、幸せになるように力を貸してもらえるようにすることができたらいいですね。

「コース」ではその方法を親切に教えてくれています。

不思議体験 その2

昨日のつづきです。

私の寝入る時の不思議な体験は、実は視覚に関してだけではなく、聴覚についても起きることがあります。

静かに目を閉じて、寝ようとしていると、どこからともなく音楽が聞こえてくるのです。最初はかすかなのですが、徐々にはっきりとそしてリアルな音楽として聞こえるようになってきます。

それはもう、テレビやipodからの音をまじかに聞いているのと何ら違いがないくらいにはっきりと鮮明な大きな音として聞くことが出来るのです。

そのときに、一体どこから聞こえてくるのかという疑問を持つことはありません。なぜなら、その音楽が頭の中で鳴り響いているということが分かるからです。

それは自分にとって好みの音楽であることがほとんどなのですが、奇妙なことに自分がこういうフレーズならいいなと思う通りの曲が流れるのです。

言ってみれば、頭の中で作曲と編曲をしたものがそのままリアルタイムで音楽となってはっきり聞こえてくるという現象です。

ギターのソロをこんなふうに…と思っている通りにそれがリアルに鳴り響いて完璧な音楽として聞こえてしまうという経験です。

すごく愉快なので、いろいろなことをしてみるのですが、どうも自分が思うことがそのままリアリティのある音として聞こえるということのようです。

なぜこういった体験をするのか、自分には全く見当もつかないのですが、それでもやっぱり思うことは、肉体の耳で聞くことのできる現実の音と同じようにリアルな音を心の耳で聞くことができるということです。

結局、この現実というものは誰が何と言おうが確かなものだとする根拠であった、自分の肉体の目や耳から入ってくる情報のリアルさは、一概にはそうとばかりは言えないのではないかと思えてきます。

つまり、現実は実在するという根拠が怪しくなったということです。私の不思議な体験はもしかすると私に固有のことなのかもしれませんが、少なくともリアル感というものにそれほど大きな意味を持たせられなくはなりました。

みなさんはどう思われますか?

不思議体験

テレビや映画の世界というのは、この現実の世界を仮想の中で見せてくれるものですね。画像は平面であっても、それなりに現実の世界に近いものとして捉えることができます。

最近は、ホログラフィといって、立体画像を作り出す技術が開発されており、平面よりもよりリアルな映像を見ることができるようになってきました。

しかし、いずれにしても私たちはそれを自分の肉体の目で見ることには違いありません。肉体の目でモノを見ること以外に何らかのモノを「見る」ことは一般にできません。

イメージを使ってあたかも何かを見ているかのように錯覚させるということはできます。過去のことを思い出して、相手の顔を見るとか、じっと瞬きをせずに見入っていた映像は、目を閉じても頭の中で見えるように感じることがありますね。

しかし、そういう場合であっても肉体の目で見ること以上にリアリティがあるわけではありません。

ところが、自分が夜寝ようとしてベッドに横になっているときに、意識はそれなりにはっきりしていて決して夢を見ているのではないと分かっていながら、とても不思議な体験をすることがあります。

それは、目をつぶった状態であるにもかかわらず、目で見るよりももっとリアルに何かが見えるという現象なのです。色も鮮やかだし、私は近眼なのですが焦点もしっかりと合っていてものすごく緻密に見えるのです。

しかも不思議なのですが、そんなにはっきりリアルにそれが見えているにも関わらず、何を見ているのか分からないという状態なのです。

自分では何だろう、何が見えているんだろうと思いながら、よ~く見ようとすると、確かによく見えるのですが、残念ながらやっぱり何を見ているのかは分からないのです。

しかし、そのリアルさは尋常ではなく、こんなに鮮やかにくっきりと見えるという経験は、もしかしたら肉体の目で見たどんなものよりもきれいですばらしい感覚ではないかと思えるほどです。

また、その経験をしたいなと思うのですが、残念ながらまたいつそれがやってくるのかは自分では分かりません。ただ、一つだけ思うのは、私たちはそこに物体が本当にあるからこそ肉体の目を使ってリアルに見えるのだと思い込んでいますが、そうでもないんじゃないかということです。

目をつぶったうえに、そこには決してないものをあれほどリアルに「見える」という経験ができるということは、この世界を見るときに感じるリアル感も、もしかしたらそこに何かがあるということとは関係ないのかもしれません。

つづく

心配

心配とは文字通り「心を配る」という意味合いで、元々は使われていたのだと思います。つまり、心配りという場合には、そこに相手や状況に対する愛を感じることができます。相手を尊重するとか、自分を差し出すというニュアンスがあるように思います。

しかし私たちが実際に心配という言葉を使う場合には、それとは大分違った意味で使われていることがほとんどだと思いますね。

心配の原動力になっているのは、不安感です。不安は恐怖の一つのバリエーションですから、結局何かを、あるいは誰かのことを心配するということは恐怖に捉われていることを意味するわけです。

大切な人のことを心配するという場合には、愛があるからこそ心配するのではないかと考えがちですが、残念ながらそうではありません。

こうなったらどうしようとか、発生する事態や相手へのネガティブな想像が心配という心の状態を引き起こすのです。

誰かのことを心配をすればするほど、その不安や恐怖のエネルギーが自分や相手を取り囲むことになってしまい、そのエネルギーに見合った現実が起きやすくなります。

ですから、あまりにも極端に心配され過ぎてしまった人は、健康を害してみたり人生が苦難続きになってしまうということにもなってしまうのです。

心配のエネルギーは相手に限らず、自分に対しても同じように悪影響がでることがあります。そして、心配は不安や恐怖が元ですから、ターゲットのほとんどは未来です。

たとえすでに結果が出てしまって過去となっている事柄と言えども、自分がその結果を知ることになるのが未来であれば、やはりそれは心配のネタとなリうるわけです。

未来のことを心配して、自分の人生に悪影響を与え続けてしまうくらい馬鹿馬鹿しいことはありませんね。

私は心配しそうになったら、すかさず心の中でやるようにしていることがあります。それは、委ねるという方法です。

自分の心の中にとてもどっしりと落ち着いて、すべてを分かっている愛の塊のような神聖な部分を意識します。そして、その部分に未来をすべて委ねるのです。

勿論その場合、信頼するということがとても大切な要素となります。そして、委ねることが本当にうまくできたときには、それだけで心配や不安感があっという間に消えてなくなってしまいます。

その時の感覚には、今現在がとても大事なんだというものがやって来ているように感じます。いつもいつもうまくできるとは限りませんが、実践を繰り返すことで少しずつ上手にできるようになると思います。

そして、更に嬉しいことに、うまく行った場合には、もし心配の種が近未来のことだとしたら、すぐに心配する必要などなかったと思えるようないい結果がやってきてくれます。

みなさんも是非、試してみてはいかがでしょうか。

お金と時間と労力

自分の中でなかなか価値などないと認められないもの、つまり今だに価値があると勘違いしてしまっているものの3大要素があるのですが、それは、お金、時間、労力です。

クライアントさんとのセッションのときに、お金と時間と労力をかけてわざわざ来ていただいたのですから、しっかり成果を持って帰っていただきたいなどと思うわけです。

理性のレベルでは、本当の幸せだけが真に価値のあるものだということを重々分かっているのですが、まだまだそれ以外のものにも執着が残っているようです。

このお金と時間と労力に価値があるとすると、必ず効率を求めるようになってしまいます。できるだけ、短い時間と少ない労力で多くのお金を得ることを目的としてしまうからでしょうね。

考えてみれば、いわゆる勤労にしても、会社組織にしても、この社会の求める方向にしても、すべてが上記したようなことをベースとして動いているということが分かります。

できるだけ多くのお金、できるだけ短時間で、できるだけ労力を減らして快適に、ということにみんなが精力を傾けて生きているように感じてしまいます。

残念ながら、ここには幸せに直結する愛を与えるということが盛り込まれていないケースが多いように思います。

この三つの要素のうちの、たとえ一つでもその価値を手放すことができたら、その人の人生はとても愛に満ちたものへと変貌するはずです。

例えば、働いた報酬としての対価に無頓着になるとか、時間的な効率を度外視して何かに没頭するとか、自分の心身の快適さを求めずに労力を厭わずに行動するなどです。

そしてもっと積極的に言えば、お金も時間も労力も愛を持ってプレゼントするという気持ちになれればいいのでしょう。そしてそういったことが、ごく普通にできるようになったとしたら、ひとりでに愛を与える生活になっていくはずです。

今、私はこの三つの要素をできるだけ手放せるようにと心の筋トレ中です。

記憶 その2

昨日のつづきです。

私たちの苦悩のベースは記憶にあるので、記憶力がニワトリさんのようにほとんどないほうがかえって幸せなのではないかということを書きました。

実際に苦悩させるものは、記憶の中でもただの事実としての記憶ではなくて、その事実に関連して発生した感情に絡んだ記憶ですね。

もしも、その日に感じた感情を次の日に持ち越すことが全くなければ、きっと私たちから苦悩は消えうせるでしょう。

昨日までのことをすべてリセットして今日を生きることができたら、赦しも必要なくなってしまいます。赦しは過去がターゲットだからです。

ですから、私たちは今この瞬間に問題があるとするよりも、過去の問題を引きずってこの瞬間に悩んでいることがほとんどなのです。

考えてみるとものすごく単純なことなのです。昨日までのことをすべて水に流すことができたら、人は誰でも幸せになることができるのです。

そういうわけで、過去などないとさえ思うことができたらこの世界から苦悩が消えます。過去があると思うのは時間という概念を信じているからですね。

もしも全知全能の神がいるとしたら、神は記憶力がいいと思いますか?それとも悪いでしょうか?

私なりの答えがあります。神は我々が思い描くような記憶力というものを使いません。記憶するような過去がない世界にいるからです。神は時間と空間を超越している世界にいるからです。

というよりも、時間も空間もない世界が天国だと思えばいいですね。だから神は我々人間のように苦悩などすることはありません。

私たちが神のように生きることは到底無理なことですが、そこに近づこうとする努力は意味があります。心の訓練によって、過去を水に流すことに慣れてくることができるからです。

記憶力がいい人を羨むことはありません。ニワトリさんよろしく3歩歩けば…くらいの気持ちで過去など我関せずという心持で生きることが大切だと思います。

記憶

記憶力というのは、人によって良かったり、それほどでもなかったりと様々ですね。概して、我々は記憶力のいい人は頭のいい人というように結び付けて考えるものです。

学校の勉強にしても、物覚えがよければそれだけ少ない勉強時間で効率的に成果をあげることができるわけですから、記憶力の優れた人は羨ましいなあと思ったことのある人は多いでしょうね。

記憶力とは、文字通り記憶する力、能力のことを指します。記憶というのは、一度見たもの、聞いたもの、感じたもの、その他あらゆる体験した事柄をそのまま覚えた情報であり、それを使ってイメージの中や文字や言葉として再現することができるわけです。

ニワトリは3歩歩くと忘れるとよく言われますね。それは時々記憶力の乏しい人のことの比喩としても使われますが、ニワトリの立場としては何とも不名誉な言われようですね。

しかし、3歩歩くと何でも忘れるニワトリと、それよりもう少し記憶力のいい我々ではどちらが幸せなんだろうと考えたことはあるでしょうか。

実は私たちの苦悩のほとんどは記憶がベースになっています。つまり、過去に体験した記憶が基となって自分自身を苦しめることになってしまっているのです。

今この瞬間に過去はもう現実ではないということは、誰でも分かっていることなのですが、そんなはかない過去の記憶に捉われ続けて苦しんでいるのが私たちなのです。

通常の心理療法で深く掘り下げて行くのは、いつも幼い頃の心の傷と言われる、過去の辛い記憶なわけです。実際そういった癒しを進めていくのには、思い出したくないような記憶としっかり向き合う必要があるため、人によっては催眠で辛い記憶を消して欲しいと訴えてくる場合もあるくらいです。

これは人間だけでなく、頭のいい動物の場合にも当てはまるのです。象の密猟が流行っていた頃、親の象を目の前で殺された子供の象は、それがトラウマとなって保護された先でもミルクを飲まないで、死に瀕する場合もあると聞いたことがあります。

しかしだからと言って、本当に3歩歩いたら全てを忘れてしまうくらいの貧弱な記憶力しかなかったら、私たちはこの世界で普通に暮らして行くことは難しくなってしまいますね。

つづく

赦しの実践 その2

昨日のつづきです。

赦しの実践はとにかくできるところからでも、失敗してもいいから毎日続けることが大切だというお話しをしました。

それは、沢山の失敗をすることが真の癒しへの道だからです。ここで、私がしでかしてきた間違った赦しの方法のいくつかをご紹介したいと思います。

間違った赦しとは、エゴの赦しと呼んでいるのですが、「奇跡のコース」が教えている真の赦しとは完全に違うものだと理解する必要があります。

一番間違いやすい赦しの方法は、相手を見下すことで赦そうとするやり方です。見下している自覚は自分にはありませんが、油断するとこれをよくやってしまいます。

例えば職場において、自分より経験の少ないある同僚が犯したミスは、赦せていたはずなのに、仮に自分を出し抜いて出世してしまったその同僚が、またミスを犯した時には激しく責めたくなる、などはその典型かもしれません。

また、上記の赦しの方法に似ているのですが、理屈をつけることで相手を赦すという間違った赦しもあります。

例えば、部下のミスにいつも腹を立ててばかりいたはずなのに、その部下が自分の知らないところで毎日寝不足になるくらいに残業していることを知ったら、そのミスを赦す気持ちになるかもしれませんね。

このように何らかの理屈をつけることで相手を赦そうとすることは、誰でも日常的にやっていることだと思います。

そのほか、謝ってくれたから赦すというのもありますね。その場合、相手の謝り方によっても、赦す気持ちになれる場合となれない場合があります。

また、自分の大切な人のやったことだから、赦せるよという場合もあるかもしれません。こういった赦しは条件付赦しと呼んでもいいでしょうね。

あるいは、取引による赦しという間違った赦しもあります。赦すことによって、自分を寛大な心の広い人格者だと見なすことが出来るとか、人からいい人だと高い評価をもらえるなどの期待をする場合です。

ここまで見てきたように、それこそ様々な間違った赦しのテクニックというのがあり、私も知らず知らずのうちにそういったエゴの赦しをやってきました。

そういうことを繰り返して、その結果納得がいくような赦しが出来てないなと気づくところから、真の赦しへの道が開けるのかなと思っています。

ちなみに、真の赦しの場合には、罪というものはないし、罪の温床である過去もないという感覚の上に成立する赦しを指します。

みなさんも、これを機会に、赦すということについて少し時間をとって心の中で見つめてみることをお勧めします。赦しは全てを救うことができますよ。真の赦しは愛を与えることと同値ですから。

赦しの実践

「奇跡のコース」を学んでいると、真の赦しというものがどれだけ大切なことか、そしてそれがどういうものなのかということを理解することができます。

しかし、理解することだけではやはり何の意味もありません。日々の生活の中でどれだけ実践していくかということにこそ、本来の意味があるわけです。

過去に起きた、本人にとってはとても大きな心の傷になっているような出来事があるような場合には、それを赦すことはとても難しいと感じてしまうのは当然のことですね。

しかし、実際には赦しの実践において、これは難しい、これはたやすいというように、赦しの難易度があると感じるのはこの世界の錯覚だと「コース」は言っています。

であれば、どうしても難しく感じてしまう案件に引っかかって赦しの実践をストップさせてしまうよりは、毎日の生活の中で比較的小さな事と思われるようなことに対して赦しの実践をしていく方がいいということになります。

私たちは、理不尽なことが自分の身に降りかかってきたと感じた時には、自分を防衛しようとする無意識の活動を起こすために、相手への攻撃的な怒りを発動させます。これは、相手を裁いた結果であることは明白です。

相手に対して、あなたの言動はまともではないので、私はそれに抗議もするし、あなたを否定したくもなるのだとして、自分を正当化しようとしてしまいます。

これが、赦しのちょうど真反対な生き方であるわけです。自分を正当化しても決して人生が幸せになるわけではありません。それよりは、相手を裁くことを手放して、赦すことを実践するのです。

赦しの実践を継続させることで、それを習慣にしてしまえばいいのです。習慣化されると、当たり前のように「赦す」ということがいつも頭のどこかにあるため、いつなんどきでも忘れることがなくなってきます。

「コース」の教える真の赦しとは、罪はないとして赦す、あるいは何も起きてないとして赦すということなのですが、これはなかなか受け入れがたいですね。

私は個人的にはそれよりも、まず赦すことを当たり前のように意識して生きる習慣をつけることから始めることが大切だと思います。

そうして、実践を重ねることで、我々が普通にしているエゴの赦しと真の赦しの違いが身をもって分かってくると思うのです。

エゴの赦しの場合には、赦したつもりでも相手の応答によってはまた怒りが出てきたりしますし、あるいは赦したつもりでもしばらくしてただ我慢していただけだったと気づく時もあります。

そういう時は、これはうまく赦せてないなと何となく自分で分かるはずです。このような失敗を繰り返すことも必要なことかもしれません。

そして自分なりに工夫をするようになっていきます。私の場合には、相手を赦したくない気持ちが少しでもあれば、それを自分の心の愛の部分に投げてしまいます。

それをしつこく何度も繰り返して行くうちに、何となく気持ちがすっきりとしてきたりします。他にもいろいろな工夫をして赦しの実践をしています。

そして気が付くと、今まで気になっていたことが、どうでもいいやという気持ちになっていたりして、それはとても嬉しいことです。その分だけ生きやすくなったということですから。

それを実感すると、今後も赦しの実践を続けて、更に真の赦しに近づけていけたらいいなと思います。

素朴な疑問 その2

昨日のつづきです。

最もシンプルで素朴な疑問である、宇宙って何だろう?や、自分ってナニモノだろう?というようなことと真剣に向き合うことが、なぜ人生を幸せにすることと深い関係があるかというお話しをします。

いつもこのブログで言ってるように、幸せとは永続的に心が平安な状態であることです。そのためには、心の中に何の葛藤もあってはいけません。葛藤があるということは、心の中に互いに相容れない思いや思考が同時に存在すると言うことですから。

一番簡単な例として、分かれ道にさしかかったときに、右へ進みたいという気持ちと左へ行きたいという思いが同時に一つの心の中にあれば、葛藤が発生するわけです。

葛藤があれば、心は混乱し、とても平安な状態でいられるわけがありません。そういった葛藤は、実際の行動として右へ進んだとしたら左へ行きたいという思いは我慢をさせられるわけです。勿論その逆もありますね。

そして我慢が繰り返されると当然それは怒りとして蓄積していくことになります。怒りの裏側には自己犠牲が張り付いて、場合によっては絶望感が出てくることがあります。

自分の心の中に何の葛藤も感じた事がないという人はおそらくいないでしょうね。私たちの心は実際のところ、葛藤だらけなんです。それは、心が表面意識、潜在意識、無意識などに分離しているということもありますね。

そして実は、我々の心の奥底には気づかれていない深い葛藤があるのです。そのおかげで人はみな本当の幸せを残念ながらおあずけ状態にさせられているのです。

その一つは、自分はナニモノかということについての葛藤です。大人になると、自然と自分はこの宇宙の中の地球に生を授かって生きている人間という固定化した自分像を常識として持つことになります。

しかし、子供の頃の自分はナニモノなんだろう?という疑問は、そういう常識的なことを度外視したときの、もっと深遠な疑問に思う感覚からきているのです。

そしてそれは、本当は自分がナニモノなのかを心のどこかで知っていることを暗示しています。ただその部分は厳密に封印され、抑圧されて分からないようになっている心の部分にしまわれているのです。

そうしたことから、片方は抑圧されて分からないようになっているとはいえ、私たちは自分はナニモノかということについて二つの相容れない知識を持っているということです。

このことが根本的な心の葛藤を生み出しているのです。そして、「奇跡のコース」では、隠された本当の自分のことを思い出すことによって、表面的に知っている常識的な自分像を打ち破ることで、心の葛藤がなくなり、真の幸せが実現すると教えてくれています。

どうすれば、本当の自分のことを思い出すことができるのか、それは「奇跡のコース」の教えに従って心を訓練していくことで可能になるのです。