素朴な疑問

子供の頃っていろいろなことが不思議だったり、分からなかったりで、沢山疑問に思うことがあったと思うのですが、大人になるにつれて何にも疑問に思わなくなっていくものですね。

自分てナニモノなんだろう?から始まって、宇宙は何だろうとか、死んだらどうなるんだろうなど、ふと思い出してはまた考えるのやめて、そしてまた思い出しては考えてというようなことを繰り返していたと思います。

一番かわいい記憶は、地球は球体で空間に浮いているんだと聞かされて、どっかへ落っこちてしまうんじゃないかと思い、とても不安になったことがありました。

それと、行った事のない外国はどんなところなんだろうと思っていて、ここ日本と同じように地面があって、頭上には空があると聞かされてなあんだ一緒じゃないかとがっかりしたことを覚えています。

そういった、周りの大人に教えられたことは、大人になるにつれて、実際に飛行機などに乗って確かに地球は丸いし、外国へ行っても日本と何も変わらないという経験をすることができるので、子供の頃の疑問は完全に解決できますね。

しかし、最初に書いたようなもっともシンプルな質問は、親などに聞いても答えてもらえないばかりか、自分が成長して大人になっても決して解答は得られないままです。

そしてそんなことを考えていても絶対に答えは見つからないし、第一そんなことを考えても何の足しにもならないとして、大人になるとすっかり忘れてしまうのです。

ところが、人生において唯一価値のある幸せになるということについて、上であげたような素朴な疑問が大きく関係しているということを知ることができました。

そのことを体系立てて教えてくれているのが、「奇跡のコース」なのです。コースは、私たちの日々の悩みや苦痛、人生がうまくいってないと感じるすべてのことに対する解決法を教えてくれています。

その基本となるものが、子供の頃の疑問ときちっと向き合うことなのです。コースは向き合う大切さと、その答えを論理的に教えてくれます。

つづく

学びと癒し その2

昨日のつづきです。

昨日のブログでは、学んでいけばいくほど、癒しの必要性に気付いて行くというお話しをしました。この学ぶという言葉ですが、何か知らなかった知識を身につけるという意味で使われることもあるでしょうし、知識というよりは経験を通して大切なことに気付いて行くという意味合いもありますね。

この後者の気付くという意味合いでの学びがとても重要なことなのです。気付くという言葉の中には、元々は知っていたけど気付いていなかったという裏の意味が含まれています。

この世界では、全く知らなかったことを勉強してそのことを理解できるようになることがすばらしい事だと思われていますね。勿論それに反対するつもりはないのですが、知っていて気付かないでいたことに気付くようになることは、それにも増して大きいことなのです。

それはなぜかというと、前者の学びはエゴがやっていることであって、後者の学びは愛の部分がかかわっているからです。

エゴは、学んで知識を得ることでそれを自分の攻撃力、防衛力として使うことで自立(自律)する方向に進化しようと企みます。それがエゴを生きながらえさせる方法であるからです。

でも愛の自分は、すでに生まれたときから自分はすべてを持っていることを知っているということです。

エゴは自分がすべてを持っているということには絶対に気付かせないようにします。なぜなら、それがばれたらエゴの存続の危機がやってきてしまうのを知っているからです。

もしも自分が何でも持っていると気付いたら、私たちはエゴのいいなりにはならなくなるはずです。気づきとしての学びは、本来の自分の姿に少しずつ近づいていっているということを意味することになるのです。

気付くということが癒しの過程であって、完全なる癒しとは自分が全てを持っているということに本当に気付くことなのです。

学びと癒し

『学べば学ぶほど、自分が何も知らなかったことに気づく。気づけば気づくほどまた学びたくなる。』

これはあの相対性理論で有名なアインシュタインの名言の中の一つです。会社を辞めて、何度もヒーリングや催眠療法などを受けて、それなりに自分はもう癒されているという自覚を持って、現在のようなセラピストの仕事を始めたのですが、その後クライアントさんとのセッションを重ねるたびごとに、自分の闇の部分を知ることになりました。

つまり、全然癒されてはいなかったんだということを思い知ったということです。勿論普通の生活ができないというような重いレベルではありませんが。

それを学びという言葉で表現するとしたら、確かに私は学べは学ぶほど、自分の本当の心の状態について何も知らなかったのだということに気づいたことになりますね。

アインシュタインの残した言葉どおりだったわけです。しかも、気づけば気づくほと、更にまた学びだくなるというのも彼の言葉どおりの事実で、どんなクライアントさんとのどのようなセッションであっても、必ず自分にとっての学びになることも分かりました。

そして今では、自分の心が何で完全に癒されていないのかという理由まで相当にはっきりと分かるようになってきました。そして分かれば分かるほど、癒しを進める方法も分かってくるのです。

この仕事を始めたころと今とで一番の違いは、問題を問題として捉える姿勢が変わったということです。今は問題は誰の心の中にも必ずあって、その根底にある原因はすべて一つだということも分かりました。

心の癒しというのは、人間としてこの世界で生きている限り絶対に必要であるということの認識がはっきりできたのです。癒しなど必要ないと思っている人がいるのであれば、それは本当の自分にまだ気づいていないということを表しているのです。

ですので、癒しは特別なことではありません。すべての人が気づいて行くなかで、その必要性を痛感することになるはずです。

瞑想 その2

昨日のつづきです。

昨日は我流で私が続けている瞑想の目的は、心の平静を取り戻すための簡単なものだというお話をしました。

瞑想を自分一人ではうまくできないと感じる方も結構いらっしゃるようですが、勿論そのような場合には、市販されている瞑想用のCDなどを利用するのも一つの方法だと思います。

ただそういったものを利用すると、比較的寝てしまって瞑想ではなく睡眠になってしまうというお話を聞きます。寝てしまうのもリラックスできている証拠ですから悪くはないですが、瞑想にはならないですね。

瞑想中に寝てしまわないようにする一つの方法は、身体のどこか一点に意識をずっと向けていることです。この方法は簡単ですが、かなり効果が期待できます。

私の場合には手や腕に集中したり、鼻腔に意識を向けて自分の呼吸を感じるようにすることもあります。ただ何も考えないようにして、いわゆる無念無想を求めるとかえって寝てしまうことになるかもしれません。

私が瞑想する場合には、平静を取り戻す以外にもう一つの目的があります。それは言葉ではなかなか表現し難いのですが、少し特殊な意識の状態になろうとしているのかもしれません。

ですので、この場合の瞑想は普段の瞑想よりもかなり長く時間をかけます。30分から1時間以上かける場合もありました。

ちょうど今から一年前くらいからこの瞑想を始めて、ほぼ毎日のように朝やっていましたが、この数ヶ月はあまりやらなくなってしまいました。

うまく深い瞑想状態になれたときには、何か自分の身体からの感覚が一点になった感じがまずしてきて、ここまでは気持ちいいのですが、身体の感覚がもっとヘンになってきたときに、必ずといっていいほど恐怖を感じ出すのです。

それで最近はあまりやることがなくなってしまいました。それと、朝は「奇跡のコース」のワークを読んだり、テキストを読んだりする時間に当てる事のほうが有意義に思えるようになったということもあります。

そして後もう一つ、そういう瞑想をする必要性をあまり感じなくなってしまったというのが本音なのです。それには、やはり「奇跡のコース」を学んでの変化が影響していると思います。

とても深い瞑想に入って何か特別な意識状態になるということを期待する自分がいたということに気づいて、その期待は、どうやらエゴが欲しがる愛以外のものを求めていたと分かったのです。

もう特別な瞑想を必要とする自分を選択する必要はなくなりました。ごく普通の心を中立にして平安な状態を保つための瞑想だけで充分です。機会がありましたらご一緒に瞑想できたらいいですね。

瞑想

今の仕事をするようになって、知らず知らずのうちに瞑想をするようになりました。最初のきっかけが何だったかは、はっきり覚えていないのですが、今では自分にとってはごく日常的なものとなったのです。

ただし、この瞑想という言葉の意味を深く理解して使っているわけではないので、もしも詳しく正確な情報を知りたい方は専門書などで調べてみて下さい。私の瞑想は全くの我流ですので、もしかしたらそんなのは瞑想じゃないよと言われてしまうかもしれませんね。

それでもまったく反論できない程度のものですが、でも一応面倒ですので、瞑想という言葉をここでは使わせていただきます。

私はもうかれこれ10年近く、瞑想をし続けています。勿論、全くしない日もあるのですが、でも気が付くとそういう日でもあっという間の瞑想をしていたりします。

私の瞑想には、その用途によって大まかに二種類のものがあります。一つは、単純に心の平静を取り戻すためのものです。

クライアントさんとのセッションの前には大抵、5~10分程度は瞑想することにしています。それは、出来る限り、自分をまっさらな心の状態にしてセッションに望みたいからです。

セッション直前に別のクライアントさんからの悲痛なメールなどを読んだりすると、その内容に心が揺れ動いてしまったりして、完全な中立の状態から逸脱してしまうことがあります。

そうなっては、セッションにいらっしゃるクライアントさんと向き合うには不適切な心の状態といわざるを得ません。それを避けるためにもセッション前の瞑想は必要なものとなっています。

また、朝起きて決められた作業を心の中で行うのですが、そういったときにもこの平静を保つ瞑想が役に立ちます。というよりは、そういった作業そのものは瞑想の中で行うのが自然だと思っています。

また、ヒーリングセッションの場合にも、その直前に必ず短時間ですが瞑想します。その瞑想の中でヒーリングの準備作業をしています。

この平静を取り戻す瞑想では、特別なことは何もしていません。ただ、呼吸に意識を向けて静かにしているだけで、身体の血の循環がよくなってくるのが分かります。

そして、自分はそれまで冷静でいたと思っていたとしても、その瞑想をすることで身体のどこかに力が入っていたことが分かったりして、やっぱり瞑想をしてよかったということを実感することができます。

つづく

お金の恐怖 その2

昨日のつづきです。

経済的な問題がすべて解決したら、自分の人生は全く違うものになるのにと思っている人が沢山いるというお話しをしました。

お金が沢山あったら、気に食わない上司の下で我慢しながら仕事をする必要もないし、欲しいものを我慢せずになんでも手に入れられるなら、毎日楽しい人生を生きることができると考えがちです。

ではお金持ちが全員幸せかというと、そんなことは絶対にありません。お金の不安を感じないで生きられているだけです。

それでもお金のことをいつも心配しながら生きている人にとったら、お金が沢山あってお金の心配をする必要のない人を羨ましいと思うのは当然のことですね。

ところが、癒し、つまり幸せになるという観点からみていくと、お金が沢山あることはマイナス要因となる可能性が大なのです。

それはお金の上に安心というあぐらをかいてしまって、自分を見つめることをしなくなってしまう場合が往々にしてあると思われるからです。

例えば、いやな上司がいるからといって、すぐにその職場を辞めてしまうのであれば、なぜいやな上司がいるという現実が自分の身に起こっているのかという本質を見ようとしなくなってしまうのです。

そうなると、違う職場に異動したとしてもまたそこでも同じような苦痛な人間関係が発生してしまいます。それは、何も職場に限ったことではなく、人が生きるうえで大切なすべての人間関係にも同様のことが起きてしまいます。

人間関係で発生する問題は、100%本人の心にその原因があるので、そこを見ないようにして生きる限り問題の解決はできないのです。

お金にあぐらをかいて、いやな人やいやなことから逃げてしまうと、人生は実りあるものには決してならないのです。

そして、お金の不安そのものを持っているということ自体が、実は心の癒しを進めていくためにとても必要なことなのです。

お金の不安を解消するのは、お金持ちになることではありません。大きなシナリオに身を委ねることによってしか、本当の意味でその不安や恐怖を手放していくことはできないと分かることです。

そのことを理解して、お金の不安を手放していくことができたら、他の恐怖や不安も同様にして乗り越えていくことができるようになります。

そうすると、自分を防衛することからも開放されることになり、結果として本当の幸せを見い出すことに繋がっていくのです。

お金の恐怖

私たちは多かれ少なかれお金に対する恐れや不安を抱えながら生活しています。今のような過去に前例のないくらいの不況の最中であれば尚更かもしれませんね。

子供の頃はその家庭の経済的な事情に左右されてしまいますから、一概には言えませんが、何の不安ももっていないということは少ないはずです。

ましてや大人になると、人生の関心事の中でもある意味一番大きなことになってしまうかもしれないのが、このお金の問題です。

生活していくためには、普通自分で働いてお金を稼ぐか、あるいはパートナーが働いて得たお金が必要となりますね。

ですから、もしもお金が無くなってしまったらどうしよう、生きていけなくなってしまうという予期不安を強く持っているのです。これは、自分や家族の生死がかかっていると思えば当然のことです。

そして、このことがセラピーをしていく上でも相当に大きな影響力を持ってしまうのです。自分の人生を変えたいのだけど、そう簡単に変えられないのは経済的な問題があるからだと思っている人は意外に多いかもしれません。

例えば、夫婦の仲がうまく行ってなくて、できれば離婚したいと思っていても、お金の問題があるから怖くてできない、という女性は沢山いらっしゃるはずです。

現代では女性も大勢仕事を持つ時代ですからそうでもないかもしれませんが、昔は女性は結婚したら家にいて主婦をすると決まっていたわけで、そういう時代であれば、とてもおいそれとは離婚などできなかったはずです。

また、自分には合っていないような仕事でも、ノルマがきつくて辞めたいと思っているような仕事にしても、そう簡単に辞められないのは経済的な問題があるからですね。

あの大嫌いな上司の下で働き続けたから私はウツのような状態になってしまったとしてセッションにいらっしゃるクライアントさんの場合でも、じゃあ辞めたらいいでしょうと言っても、それができないから相談に来たのにと怒られてしまいます。

お金さえあったら、自分の人生はいやな仕事からも、不自由な暮らしからも開放されて見違えるくらいに快適な人生に変えられるのにと思っている人は沢山いるでしょうね。

だからこそ、経済的に豊かな人はあまりセラピーにいらっしゃることはないのかもしれません。逆に、辛いのでセラピーを受けたいと思っても、セッション費用が高くてそう何度も行けないよ、というのが現状かもしれません。

このようにお金のために自分は苦しい生活を強いられていると感じてる人が多いと思います。

つづく

すばらしい言葉

「奇跡のコース」を読んでいると、本当に毎日すばらしい言葉たちに出会うことができます。実は私はミクシィの方でも毎日日記を書いているのですが、下記の言葉もその日記の中でつい先日引用したものです。

『エゴは分析しようとし、聖霊は受け入れる。』

セラピストというのは、かなりの部分、クライアントさんの心のひだに隠された闇の部分を分析していく仕事であると言えるのですが、この言葉はそんな毎日の仕事の中で絶対に忘れてはいけない事だと思っています。

分析するということは、全体を細かな部分に分解して、その一つひとつを詳細に調べていくことで、結果として全体を把握しようとする方法ですね。これは言ってみれば物質世界での考え方です。

それは、物事はすべて分解可能だという前提に立脚しているからです。しかし、いつも言っているように実在は決して分けることができません。なぜなら、すべては一つであるという愛それ自体がすべてだからです。

コースの言葉をここでも引用してみます。

『全体としてなりたつ状態を分解して理解しようと試みるのは、エゴのあらゆることにたいする典型的で矛盾した取り組み方であることは明らかだ。』

我々人間はこの宇宙についてのあくなき探究心から科学を発達させてきました。そして、近年の科学の発達は目覚しいものがありますね。

しかし、科学は分析によって進歩してきてしまったため、この先どんなに進化しても本質的な到達点へたどりつくことはないのです。

宇宙を分析することはエゴの世界のやり方だからです。どんな優秀な学者たちが新しい発見をしたとしても、全体を愛で理解することはできないと思うからです。

クライアントさんの心をどんなに詳細に分析したとしても、そこはエゴの世界でしかないのです。問題を分析しても問題が解明されるだけで、そこに愛はありません。

反対に、クライアントさんの心の愛の部分を見い出すことができれば、クライアントさんの心に愛が戻ってきます。それには、セラピスト自身がクライアントさんを丸ごと受け入れることが一番大切なのですね。

神の擬人化 その2

昨日の続きです。

神を表現しようとすると、どうしても人間の想像能力の範囲内でしか表せないために、結果として擬人化することになってしまうというお話をしました。

もう一つ神を擬人化する方法として、実在する人間を神の代わりにして偶像化すると言うやり方があります。

例えば何かの宗教の教祖様はそういった神の代わりとして崇め奉られる存在とされていることが多いと思います。

しかしこれはある意味とても危険なことである場合があるのです。なぜなら人間の中の誰かを特別視するということは、すべては一つであるという愛の本質から逸脱しているからです。つまり、そこには必ず恐れがあるのです。

神への依存であればいいのですが、神の偶像への依存になってしまうと、それは完全にエゴの世界になってしまいます。そこには、永続的な平安である幸せはありません。

あの人の言うことを信じていれば自分は救われるはずだとしてしまうことが、宗教の一番問題となりやすい面ではないかと思います。

「奇跡のコース」はその点、ただの本ですし、教祖様もいるわけではありません。厳かな建物もないし、組織も必要ありません。特別な儀式をするでもなく、ごく普通の生活の中でいかに幸せな人生に変えていくかということを具体的に教えてくれるだけです。

ただ、「奇跡のコース」の教えを使って、宗教的な組織を作って活動しようとする人は中にはいるかもしれませんね。しかし、そういう人は、「奇跡のコース」の大切な教えをきちんと理解していない人だと言わざるを得ません。

「奇跡のコース」は自習書だとその中ではっきりと述べられています。そしてその学習を続けていく中で心を鍛えていくトレーニング本なのです。

すべての人は、人間の皮をかぶったスピリットであって、それは一つの実在なのだと言っています。従って、教える人と教えられる人がいたとしても、それは決して教祖と信者の関係にはなりようがありません。

教える人は、与えることによって、教えられる人から与えられるのです。そしてお互いが一つなのだということに気づいていく道だと言っています。誰も特別な人はいないのです。

神の擬人化

無神論者の多い?と思われる日本人の間では、神という言葉もイメージにも何となく違和感がある人が多いのではないでしょうか?

私もその一人でした。でしたと過去形になっているのは、「奇跡のコース」を学ぶようになって、多少慣れてきたからです。

とは言うものの、神を「神様」のような言い方をしてみたり、あたかも人格を持っている高貴な存在のように表現することには今だに抵抗が残っています。

「奇跡のコース」のワークブックの中に、例えばこういう表現があります。「神は慈悲をもって、自分が救われるようにと意図なさっている」

慈悲深いというのも意図するというのも人間に関する特徴や能力のことを指すわけですが、それをそのまま神にも当てはめて言っているわけで、こういうのを擬人化というのですね。

そしてこういった表現が無数に出てきます。何だかいやだなあと思いながらも、ふと分かったことがあります。それは、もし擬人化して表現することをやめてしまったらどうなるんだろうということです。

きっと、神をどう言葉で言い表したらいいのか分からなくなってしまうはずだということです。神を擬人化するのは、人間が作った言葉で表現するためには仕方のないことなのだなと理解したのです。

私自身の言葉で表現すると、神は全体であって、あらゆる一切合財を含む存在である。ただし、この存在という言葉の意味も相当に曖昧であって、この表現そのものも一種の擬人化になっています。

神は愛であり、愛は、全ては一つという想念である、こう表現しても愛も想念という言葉も人間に当てはまる言葉であるので、結局私の言葉で表現したところで、自分の嫌いな擬人化は免れないということが分かったのです。

それは、神が人間のすべての能力を注ぎ込んでイメージしたり、表現したり、感じたりしたとしても、神そのものをそのまま捉えることにはなりません。それは我々をはるかに超越しているためですね。

そう思うと、人間が理解できる言葉やイメージで表現せざるを得ないのだなと納得することができたのです。そして、最近では、この神にまつわる様々な概念について、拒絶反応をしてしまう自分にも、その理由が明らかになってしまいました。

それも「奇跡のコース」を学んだおかげなのですが、そうして明確になってしまうと、もう拒絶することから開放されていくことができつつあるようです。