人生における「しがらみ」というものは、大抵人間関係に付随して発生するものですね。たとえば、あの人に頼まれたら、いやとは言えないといったようなある種の制約のようなものです。
誰しもこうした何らかの「しがらみ」を抱えて生きていると思います。それは、全く人間関係を持たないで生きている人はほとんどいないからです。
私の場合は、自分でも自覚があるのですが、50年以上生きてきた割にはきっと「しがらみ」が極端に少ない方だと思っています。
それは、「しがらみ」によって不自由な思いをさせられるのがとてもいやなので、人間関係そのものを希薄なものにしてきたからだろうと思うのです。
そのおかげで、面倒くさい「しがらみ」からは開放されていますが、人が人間関係からしか学べないということを勘案すると、あまりいいことだとは言えません。
逆に、たくさんの人と関わって生きつつ、「しがらみ」に負けない生き方を実践することが本当に意味のあることだと思います。
そうするためには、人と関わることでどのようにして「しがらみ」が発生することになってしまうのかを、はっきり見極める必要がありますね。
「しがらみ」は義理などと同じように、人と人との関係を円滑にするために人が考え付いた手法なのだろうと思います。自分の言動をある一定のルールの下で制限することで、関係を壊さないようにすることです。
自分がそうしたいからするということであれば、それは「しがらみ」とはあまり呼ばないかもしれません。ということは、関係が悪化することを恐れることから生じる制約なわけです。
つまるところ、それは自己防衛であるといえると思います。ということは、自分を守ろうとしないでいれば、それだけ「しがらみ」は少なくなるということですね。
やはり、「しがらみ」も自己防衛を我が仕事とするエゴの産物であったわけです。恐れを手放して、愛を選択することで「しがらみ」からも開放されるということです。